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ソラニワ  作者: 緒浜
18/53

018 Be My Last(前編)

 どうして世界は、おれからみんな奪っていくのだろう。




「ほら、路音。土産だぞぉ」

 そう言って手渡されたのは、飛空船型の容器に入った小さなラムネ菓子だった。




 甲高いヒールの音が耳に痛い。

 手を引かれながら、ジインは薄暗い廊下を歩いていた。とても急いでいるらしい母親に遅れないよう、ほとんど走るように足を動かす。壁に並ぶ扉はどれも同じ形で、それぞれに番号がついていた。その中のひとつの前に立ち止まる。扉は音もなく横へスライドした。

 狭く小さな部屋には、ぼんやりした灯りがひとつと、キャスター付きの台がひとつ。台の上に誰か横たわっている。白い布で覆われて顔は見えなかったが、くしゃりとした耳の形には見覚えがあった。布の隙間から見えた腕は、こんな陰気な場所には不釣り合いなほどたくましく日に焼けている。いつも必ず付けている金色の腕時計をはめていないことが、なんだかとても不思議に思えて。

 冷たく湿った手が、痛いほど強く握りしめてくる。

「ご確認を」

 天井のスピーカーから、無機質な声が聞こえた。




「路音は、大丈夫よね」

 かさかさに乾いた手のひらが、ひやりと頬に触れた。鼻に通されたチューブから目を逸らす。乱れた髪、痩せた首筋。薄汚れた病室は、薬品と排泄物の匂いがした。

「後のことは、――さんに頼んであるから」

 なんという名前だったろう。結局その人は、母が託したなけなしの全財産と共に姿を消した。それはこれから起こることで、母が知ることはない。

 教えることはできないし、教えるつもりもなかった。

 過ぎてしまった時間に、触れることはできない。

 そう、これは記憶だ。

 ぼんやりした意識の中で、ジインはそう思った。

「ひとりにして、ごめんね」

 窓の外にはすぐ隣の建物の壁がそびえており、心の晴れる景色など欠片も見せてくれない。

 ああ、なんて寂しいところなんだろう。

「だいじょうぶだよ」

 心とは反対の言葉を口にして、幼い自分は母親の手を強く握り返した。




「今日からこの家で暮らすことになった黒瀬路音くんよ」

 先生がぽんと肩を叩く。その手は小さくずんぐりしていて、母さんのそれとはずいぶん違ったけれど、親しみのある温かさがあった。

「お兄さんの智博と、お姉さんの知里、弟になる裕太よ」

 トモ兄は少しそっけなく、チサ姉はにこやかに、ユータは興味津々に瞳を輝かせてジインを迎えてくれた。

「わからないことがあったら何でも聞きなさい。みんなも、家のことを色々教えてあげること!」




「やだ路音。ぶかぶかじゃない、それ」

 肩が出そうなほど襟ぐりの伸びきったシャツをチサ姉がつまむ。そのサイズは細いジインの体にまったく合っておらず、袖は肘まで、裾は膝の少し上を隠すほどだ。

「トモ兄がくれた」

「トモくんが? あっ、しかも破れてる! ……ちょっとトモくん! 繕うの面倒だからって、穴の開いた服を路音に押しつけないでよ」

 手元の雑誌から顔を上げると、トモ兄は悪びれもせず片眉を跳ね上げた。

「いいだろ、まだ着れるんだし。ダメージ加工ってやつだよ。かっこいいだろ? なっ! 路音」

「じゃあ、あなたが着ればいいでしょ! もう、貸して路音。私が繕ってあげるわ」

「ありがとう、チサ姉」

「アリガトウ、チサ姉! ついでにこれもお願いしまっス」

「トモくんは自分でやりなさい!」

「ちぇっ……ケチサト」

「なんですって?!」

 チサ姉がまなじりをつり上げる。

「わーっ! ウソウソ、冗談だってば!」

「何が冗談よ、待ちなさい!」

 逃げ回るトモ兄を見て、きゃっきゃとユータが笑い転げる。

 ぶかぶかのシャツを着たまま、ジインも一緒になって笑った。




 廊下の先から先生の悲鳴が近づいてくる。となりで震え出したユータの耳を、チサ姉がふさいだ。

 もっと奥へ。

 チサ姉の視線に促され、ジインはベッドの下を這った。三人で無理やり重なりあうようにして、壁際へちぢこまる。ベッドの下は埃だらけで、息を吸う度に大きな綿ぼこりが鼻にくっついた。ひっくり返って丸まった小さなクモの死骸が目の前に落ちている。

 ごつごつした靴と先生の足が、廊下に倒れて動かないトモ兄の体を跨いだ。

「やめて……やめなさい、ジェン!!」

 泣き声混じりの荒い息づかいと、掴み合い争うような衣擦れの音。先生の足がもつれ、がたんと戸棚が揺れる。ぱん、と乾いた音がして、先生の声が途絶えた。なにか重いものが床に落ちる音がしたけれど、それが何かを見るのが怖くてジインは固く目をつぶった。

 硬い靴音があちこちへ移動して、戸棚や机を引っかき回す。

 ジインは息を殺して、悪いことが通り過ぎるのをただひたすら待った。




「その子に触らないで!」

 チサ姉が悲鳴に近い声を上げる。馬乗りになった警官がその頬を張った。

「チサ姉っ!」

 襟首を掴まれたまま、ジインはめちゃくちゃにもがいた。すぐ横のベッドの上では、冷たくなった先生とトモ兄が無言のままシーツにくるまっている。

「ほらチビ、おまえはこっちだ」

 太い腕に首根っこを引かれる。廊下のトイレからは閉じ込められて泣きじゃくるユータの声が聞こえた。

 自分たちの身にいったい何が起こっているのか、幼いジインにはわからなかった。けれどそれが、とてつもなくひどいことだということだけはわかった。

 警官たちが笑う。おぞましい笑い声だ。世界中の悪いことをいっぺんに集めたような声だ。

 全身を恐怖が貫いた。

「チサ姉! チサ姉ぇぇっ!!」

 ドア枠に爪をかけ、必死でしがみつく。襟が首に食い込んで息が苦しい。

 がり、と嫌な音を立てて爪が壁から外れた。

「チサねえ! チサねぇえっ……いやだアァァッ!!」

 まるで首輪を引かれる犬のように、ジインはずるずると引きずられていった。




「合図をしたら、ユータを連れて逃げなさい」

 青白い横顔がぼそりと呟く。たった数日で痩せこけたその頬を、ひしめき合う電飾が代わる代わるに照らした。

 街の明りがうるさすぎて、晴れているはずの夜空には一粒の星も見えない。

 深く巨大な谷を越えて連れて来られた見知らぬ街は、禍々しい光に溢れていた。

「いい? 絶対に振り返らずに走るのよ」

 できるだけ唇を動かさずにチサ姉が囁く。

 すぐそばに立つ警官は受け取った札束を数えるのに夢中だ。

 目の前には、夜より暗い地下へ続く扉がぽっかり口を開けている。一度呑み込まれたら最後、二度と出ては来れないだろうと思わせるほどに、その闇は深かった。

 ジインはユータの手を握る右手に力を込めた。きょろきょろと電飾を物珍しげに眺めていた瞳が、不思議そうにこちらを見上げる。

 まるで亡霊のように立ち尽くしていたチサ姉が、突然動いた。警官の腰にぶら下がっていた拳銃をもぎ取って、男たちに構える。

「走って!!」

 鋭い声を合図にジインは駆け出した。途端に体のあちこちが鋭く痛んだが、歯を食いしばり、ユータの手をしっかりと握ったまま、流れる人の合間を走り抜けていく。

 ぱん、と乾いた音が響いた。ぎくりと足を止め、振り返る。

 人影の隙間から、地面に倒れたチサ姉の背中が見えた。

 まるで氷水を流し込まれたように、体の奥が急激に冷えていく。

「――チサ姉っ!!」

 警官の目がこちらへ向けられた。おぞましい眼差しに射竦められ、体が凍りつく。

 ――走って!!

「っ!」

 地面に貼り付いていた足を無理矢理引き剥がし、ジインはユータを引きずるようにして路地を駆け出した。人にぶつかり、転びながらも、めちゃくちゃに足を動かす。

 走って。走って。走って。

 その一言に背中を押されるまま、ジインはただひたすらに夜の街を走り続けた。




「おい、おまえら」

 びくりと体を震わせ、振り返る。

「ここはオレらのシマだぞ」

 見知らぬ少年にすごまれ、ジインはゴミ箱に突っ込んでいた手を慌てて引っ込めた。

 一つ二つ年上だろうか。頬に大きな傷を刻んだ少年は、慣れた足取りでこちらへと近づいてくる。

 ユータを背に庇いながら、よろよろと二、三歩後じさる。途端に内臓がぎりりと軋んだ。ここ数日まともなものを口にしていない。もう立っているのもやっとだ。

 ユータは足元をぼんやり見つめるばかりで、話しかけてもまともに返事が返ってこない。

 ポケットに両手を突っ込んだまま、少年は二人のまわりをぐるりと一周した。

「見かけない顔だな。どこの群だ?」

「む、むれ……?」

「なんだ、もしかして捨て子か? 親はどうした、親は」

 日に焼けた父親の腕、母親の儚げな微笑み、そして先生やトモ兄、チサ姉たちの温かな眼差しが、順に脳裏をよぎる。

「……もう、みんな死んじゃった」

「ふぅん。それじゃ、オレらと同じ『ノラ』だな」

「『ノラ』……?」

「親も家もない、自分たちの力だけで生きてる子どものことさ」

 少年がにやりと笑う。凄みが消え、薄い唇の向こうから大きめの前歯が覗いた。

「新入りか。いいぜ、ついて来いよ。オレらの群に入れてやる。チビすけ二人なんかでうろちょろしてっと、人売りにとっ捕まるかアル中のオッサンにケツ掘られるぞー」

 言いながら少年が歩き出す。戸惑うジインを振り返ると、少年はおどけた様子で両手を広げてみせた。

「ようこそ、『貧困街』へ!」




「おいジイン、おまえ今どうやって火ぃつけたんだ?」

 頭の上から突然降ってきた問いに、ジインはきょとんと首を傾げた。

「え? どうやってって?」

「だってライター持ってないだろ?」

 先ほど渡しそびれたらしいライターを手に、今度は透也が首を傾げる。使い古しの一斗缶の中では、すでに橙色の炎がちらちらと燃え始めていた。

「そんなのなくても、ちょっとさわって燃えろー! って思えば燃えるよ」

 古びた角材の端に触れて、じっと意識を集中する。ほどなく触れた部分から黒い染みがじわりと広がり、ゆらゆらと細い煙が上がり始めた。仕上げにふうっと息を吹きかければ、焦げの中心で小さな赤い火の粒がきらりと光った。

 ぽかんと口を開けたままそれを見つめていた透也が、はっと我に返る。

「ちょ、ちょっと待て……今のそれって、もしかして、いやもしかしなくてもマホウってやつだよな? ……ってことはジインまさかおまえ魔法使いなのか?!」

「マホウツカイ?」

 ぽけっとするジインをよそに、透也はきょろきょろと視線を彷徨わせながらフケだらけの髪をガリガリと掻きむしった。

「待て待て待て、落ち着けオレ。いくら何でも魔法使いがこんなにフツーにいるはずねぇし。いや、でも、じゃあ今のは……なぁジイン、今のもう一回できるか?」

「うん」

 言われるまま、もう一度同じことを繰り返す。少しコツが掴めてきて、今度はもっと早く火を起こすことができた。ジインの手の動きに合わせて炎が揺らぐ様を、透也はまばたきも忘れたように凝視している。

「魔法――だよなぁコレはどう見ても。夢じゃないよな。間違いないよな。冗談抜きで、本当に、本物の、魔法使い……――ジイン!! おまえすげぇな!!」

 興奮した面持ちで、透也はジインの頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。

「魔法使い、ってことは魔法士になれるってことだよな! ってことはおまえ、『ノラ』から第二区民の超エリートにスキップってこと? うっわ、マジかよ!」

 そこら中を歩き回り、頬の傷をさすりながら、透也はにやりと笑った。

「むしろさ、これ金儲けに使えるんじゃねぇの? おまえの力でさ。もしかしたら魔法士になるよっかいいかもしんないぜ?! なぁ、魔法でさ、他になんかできないのか?」

「えっ? えーっと……わ、わかんない」

「魔法で竜が退治できるんだからさ。練習とかすれば、用心棒や人売りの奴らをぶっとばすとかできんじゃねえの?」

「で、できないよそんなこと!」

 太い腕に捕まりそうになった時のことを思い出して、ジインは身震いした。あんなに大きくて恐ろしい、怪物みたいな奴らをぶっ飛ばすなんて、とても出来る気がしない。

 うーん、と透也が腕を組む。

「でも火を起こせるくらいじゃなぁ、手品とか見世物くらいにしか――……」

「ミセモノって?」

 ジインの問いに、透也の動きが止まった。双眸のギラギラした光が消え、代わりに眉間に皺がよる。とつぜん硬くなった表情を、ジインは不安げに見上げた。

「どうしたの?」

「――いや。やっぱさ、他の奴らには内緒にしとこう」

「他の奴らって?」

「大人とか、他の群の連中とか……あと群のみんなにも、さ」

「え? みんなにも? マホウのことを? ……どうして?」

 難しい顔をしたまま、透也が黙り込む。しばらくの沈黙を置いて、透也は一言一言噛み砕くように言った。

「……ジインはさ、みんなのこと好きだろ?」

「みんなって、群のみんなのこと?」

「そう」

「――うん」

 少し考えてから、ジインはくしゃりと笑った。

「好きだよ。ユータも、香月も、イルテも、ユーシィも、ギヴァも、瑞花も、レニィも、あっ、もちろん透也も。……ザザは、ちょっといじわるだけど……」

 でも、と付け加えて、ジインははにかんだ。

 一人一人クセはあるけれど、悪い人間ではない。

 みんな、『貧困街』で手に入れた大事な家族だ。

「ジインの“それ”が他の人間に見つかったら、オレたち……一緒に居られなくなるかもしれない」

「えっ?」

 驚いて立ち上がる。考え込む透也の顔を、ジインはまじまじと見上げた。

 一緒に居られなくなるかもしれない?

「ど、どうして? 一緒にいられないって、どういうこと?」

「うん……なんつーか、いろいろさ。ホラ、欲の皮の張った奴らに知られたら面倒なことになりそうだし。……人間なんて、欲に目がくらむとなにすっかわかんねぇしな」

 透也が曖昧に笑う。透也には似合わない、どこかくたびれたような微笑みだ。

「とにかく、さ。このことはオレとおまえだけの秘密だ。とくに大人とか他の群の奴らには、絶対に知られちゃダメ。わかったか?」

「――うん」

 ざわざわと騒ぎ出した胸を押さえて、こくりと頷く。

 みんなと一緒に居られない。

 それはつまり、ひとりになるということだ。

 ――路音は、大丈夫よね――。

 そんな声が、ひやりと首筋を撫でた。

 大丈夫――なんかじゃ、ない。

 ひとりは怖い。ひとりは苦しい。

 ユータや透也と離れて、ひとりぼっちになるなんて。

 群のみんなと会えなくなるなんて。

 絶対に、絶対にいやだった。

「――みんなの前でマホウは使わない。だれにも、ぜったい内緒にする」

 ついさっき炎を起こした右手を、胸の前で固く握る。

 ほっとした様子で、透也が頭をぽんと叩いた。

「よし……じゃっ、みんなを呼んでこい。夕飯にしよう。今日はなんとチーズがあるんだぜ!」

「えっ! ほんと?」

「しかもビスケット付きだ! すごいだろ?」

「すごいすごい! やったぁ!!」

 ぴょんと跳ね上がり、ジインは拳を突き上げた。

 見上げる空はやわらかな薄紅に染まり始めていて、風も穏やかだ。

 相変わらず腹は空いているけれど、今夜は大好きなチーズが食べられる。

 もしかしたら明日も明後日もその次も、食べる物が見つからないかも知れない。そんな不安が常に頭を過るけれど、みんながいれば何とかなる気がした。

 たとえば今、願いごとが叶うなら。

 毎日ごはんをお腹いっぱい食べたいとか。

 雨水のしみない靴が欲しいとか。

 カギ付きの扉と窓のある暖かい家が欲しいとか。

 大きなふかふかのベッドで眠りたいとか。

 恐ろしい人売りがみんないなくなって欲しいとか。

 願いたいことはたくさんあるけれど、本当に叶えてもらいたいのはただ一つだ。




 何もかも、このままでかまわないから。

 みんなとずっと一緒にいられますように。




 ――耳を、塞ぎたくなる。

 固くまぶたを閉ざし、ジインは顔を背けた。

 ちっぽけな自分が祈る、幼気でささやかな願い。

 けれど、自分は知っている。

 その願いが、叶わないことを。




 だってこれは、おれの記憶なのだから。



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