017 あの日、ぼくらが夢みたものは
ソラは走った。
息を切らし、膨らんだ上着のポケットを押さえながら、ただひたすら走る。
砂埃で足が滑り、危うくドラム缶に激突しそうになる。市場に近い裏路地には障害物が多く、いつもの半分もスピードが出ない。勢いよく角を曲がった直後、今度は何かにつまずいた。べしゃりと転んだ拍子に、ポケットからバラバラと菓子がこぼれる。慌てて拾い上げ、ソラはぎくりと固まった。
顔を上げた視線の先。積まれた廃材で路地が塞がれている。
行き止まりだ。
廃材に走りより、どこか抜け穴はないかと探す。ずさんに積まれてところどころ崩れた廃材の山には、ネズミは通れてもソラが通れるような隙間はなかった。
「や、やっと捕まえたぞ、クソガキめ!」
弾かれたように背後を振り返る。角棒を手にした大柄の男が、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけていた。
「この、盗人の、薄汚いノラ犬が……!」
ぜえぜえと肩で息をしながら、男が低く唸る。
黄色い歯をむき出してじりじりと迫る姿が、まるで絵本に出てくる怪物のようだ。
ばくばくと心臓が鳴り、嫌な汗が吹き出る。どこか逃げ道はないかと視線を走らせるも、しっかりと握られた角棒はこちらが少しでも動けばすぐさま打ち据えてやろうと狙いを定めているようで。
もう、逃げられない。
路地裏の四角い空を覆うようにそびえる男を前に、ソラは路地の隅へと縮こまった。
「薄汚ねぇ『ノラ』の分際で、売りモンに手ぇ出しやがって……ぶっ殺してやる!」
男の太い腕が角棒を振り上げる。頭を抱えて、ソラはぎゅっと目をつぶった。
「……っ!」
ふわりと、頭上を風がよぎる。
「ぐっ?!」
くぐもった悲鳴が聞こえ、男の気配が数歩遠ざかる。目の前に着地した何かが素早く跳ねた次の瞬間、どしん、と重いものが地面に倒れた。
「ソラ!」
呼ばれて目を開けるのと、腕を掴んで引き起こされるのがほぼ同時。
「ジイン……ッ!」
その姿を認めた瞬間、今までの恐怖がまるで嘘のように一瞬で溶けて消えた。
「行くぞ!」
引っぱられ、倒れた男を踏みつけて逃げる。ジインがわざと男の顔を踏んだのを、ソラは見逃さなかった。
ポケットから、また菓子がこぼれる。
「あっ、おかしが!」
「いいから、早く!」
強く腕を引かれる。低く呻きながら、男が体を起こした。落とした角棒にその手が伸びるのを見た瞬間、後はもう一目散にソラは逃げた。
今日は風が少し冷たい。
灰色の壁に切り取られた空は濃く、絵の具になって降ってきそうなくらい鮮やかだ。
真っ赤に錆び付いた鉄の階段が、足の下でぎしぎしと危うい音を立てる。
上りきったところで視界は明るく広くなり、一気に音が拡散した。
強い風が髪と上着を吹き上げる。
この付近には他に高い建物はなく、ここから見える景色は半分が空だ。
使われなくなった屋上には、ドクロマークのついた怪しげなドラム缶だとか、黒と黄色のシマシマのロープだとか、曲がって使い物にならない鉄パイプだとか、そういうものがごろごろと転がっている。
それらの間を縫いながら、ソラとジインは中央にある四角いコンクリートの建物へ向かい、側面のひしゃげた梯子をよじ上った。錆び付いた給水タンクのせいで少し狭いが、地上からは死角となるその場所が二人の今のお気に入りだ。
「あー、疲れたぁ!」
ごろりと仰向けになり、ジインが手足を投げ出す。
「おまえ、いきなり打ち合わせと逆方向に逃げるんだもん。すげーあせったよ」
「ご、ごめんね」
「めちゃくちゃ足速いくせに、道間違えてあっさり追いつかれるし」
「うん……ごめん」
「まあ、最終的には逃げ切れたからいいけどさ。今度から気をつけろよ?」
腕を枕にしたジインが、ちらりとこちらを見る。
「……で、収穫は?」
「あ、うん!」
ソラはポケットを裏返して、バラバラと色とりどりの菓子を落とした。
「おー、大猟じゃん! ええと、これはガムか。こっちはあめ玉? マシュマロに……ラムネ……って、おまえなぁ」
検分を終えたジインが、不満げに眉根をよせる。
「チョコとかビスケットとか、もっとカロリーのあるもん盗って来ないとダメだろ!」
「えっ? かろりーってなに?」
「カロリーっていうのは……」
説明しかけたジインの動きが止まる。
「……カロリーは、その……えーと……そう、栄養だよ、エーヨー! ほらここ、裏んとこにkcalって書いてあるだろ? この数値が高いほうがたくさん動けるんだ。数字の読み方はこのまえ教えただろ?」
「高いって、数字が大きいってこと?」
「そう」
「kcalってとこの数字が大きいほうがいいの?」
「そうだよ」
「ラムネじゃ、だめだった?」
眉をハの字にしたソラが、しゅんと肩を落とす。ジインが慌てて手を振った。
「あ、いや……ダメじゃないけど。おれラムネ好きだし。でも今度はビスケットとか、チョコ多めでな。うん。まあ、初めての“仕事”にしては上出来だな」
うなだれた頭をくしゃりと撫でられる。
顔を上げると、鮮やかな笑顔が目に飛び込んできた。
「一人でよくがんばったな」
「うん!」
笑顔が弾ける。嬉しかった。心が飛び跳ねて、ほっぺたの奥がきゅっとなる。
本当はものすごく怖くて、さっきまではもう二度とやりたくないと思っていたのに、ジインの笑顔を見たらあと百万回だってやってもいいような気持ちになった。
ジインがぱちんと手を叩く。
「じゃあ、お食事にしますか!」
「お食事にしますか!」
本日の早めの晩ご飯となるであろう“収穫”を二人で分ける。
貧困街の市場で売られているものは、ほとんどが新市街からの流れものだ。目にも鮮やかな色とりどりのパッケージ。薄汚れた自分たちよりも、新市街のお菓子のほうがずっと上等なものを着ている。
あめ玉の包みを引っぱろうとして、ふと男の怒鳴り声が脳裏に蘇った。
「……あの人、すごく怒ってたね」
「そりゃ、怒るだろ。売りもん盗られたんだから」
転がる菓子に視線を落とす。
ジインはマシュマロの袋を破ると、そのひとつを黙り込んだソラの口に押し込んだ。
「気にするなよ。あいつ、おれたちが『ノラ』ってだけで何回水ぶっかけたか。しかも真冬にだぞ? ただ店のまえ通っただけでさ。ちょっと仕返しするくらい、バチは当たんないだろ?」
そう言いつつも、マシュマロを頬張るジインの顔に清々しさはない。
本当はジインもわかっているのだろう。
けれど。
「――しかたないだろ。働きたくても『ノラ』なんてどこも雇ってくれないし。だからってこのまま飢え死にするわけにもいかないし。この街で『ノラ』が生きていくには、こんな方法しかないんだ。だから――……」
ふっと辺りが暗くなる。空を見上げ、二人は同時に叫んだ。
「――飛空船だ!」
中型の飛空船が、すぐ真上の空を悠々と横切っている。
「うわあ、近い! すげー近い!」
給水タンクへよじ上る。船底の留め具を数えられるほどの低空飛行だ。手を伸ばせば届きそうな距離に、胸が高鳴る。風の音に混じって、かすかなエンジン音が降ってくる。
「近い! でかい! かっこいい!」
「かっこいー!」
地上で飛び跳ねる自分たちのことなど少しも知らないふりで、飛空船はただ静かに通り過ぎていく。
「――いいなぁ」
ジインがぽつりと呟く。
次第に遠ざかっていく飛空船を見送りながら、ジインが両手を突き上げた。
「決めた! おれやっぱり飛空船の船長になる! 飯屋も捨てがたいけど、やっぱ飛空船で世界中をまわるんだ!」
「じゃあ、ソラも! ソラも船長になって、ジインと飛空船にのる!」
「ええー? ひとつの飛空船に船長はひとりしか乗れないんだぞ」
ジインの言葉に、ソラは唇をとがらせた。
「やだっ! ぜったい一緒にのる!」
「うーん、じゃあおれが船長やるから、おまえ副船長な」
「フック船長?」
「違う、副船長! 船長の次に偉い人だよ」
「じゃあソラ、フク船長になる!」
「よし、決まりだな。二人でさ、世界一周しようぜ! 色んな国をまわりながら、浮浪島を探すんだ」
「フロウトウって?」
「まだ誰も知らない島のことだよ。どこの国のものでもないから、浮浪島は見つけた人間のものになるんだ。おまえ、めちゃくちゃ目がいいだろ? 耳と鼻もいいし、他の人より絶対見つけやすいと思うんだ。おれの魔法もさ、練習すれば、飛空船の外側の故障を直したりとか、もっと便利なことができるかも知れない。もし竜が襲ってきても魔法で撃退できれば最強だよな。船は小さめでさ。でもスピードはめちゃくちゃ速くて、燃料タンクは大型船と同じくらいでっかいやつに改造するんだ。おれとおまえの二人だけなら食料も長く保つし、そしたら他の船より遠くまで飛べるだろ? 世界中の空を飛び回って、浮浪島を見つけてさ、そこをおれたちの島にするんだ! 名前をつけて、遊園地みたいな家を建ててさ。家の中にすべり台とかブランコつけるんだ。きっと楽しいぞぅ」
目をキラキラさせて、ジインが拳を握る。
ソラはわくわくで胸がはち切れそうになった。
空と雲しかない世界に、ぽっかりと浮かぶ小さな飛空船。
二人で声を掛け合い、大空をぐんぐん進んでいく。
ぷらぷらと空に足を投げ出しながらご飯を食べ、頭の上から足の下にまで広がる星空の中で眠りにつく。
船の故障を直しつつ、時には大嵐に流されたりして。
雷が直撃したらどうしよう。もしかしたら、大きな竜が襲ってくるかもしれない。
でも、大丈夫。ジインと二人で力を合わせれば、きっとどうにかなる。
嵐を乗り切ったその後は、見渡す限りの雲の平原だ。
虹の中を通ると、いったいどんな感じがするんだろう。もしかしたら、あめ玉みたいな甘い匂いがするのかもしれない。
そうだ、船から足を伸ばして、雲の上を歩けるか試してみなくちゃ……。
次から次へと膨らむ想像で頭の中がぱんぱんになる。
ああ、なんて楽しそうなんだろう!
もうあまりに素敵すぎて、そのことしか考えられないくらいだ。
ジインと二人で、果てしない冒険の旅へ。
そうだ、ここにずっと居る必要なんてないんだ。
冷たくて、汚くて、怖いことばかりのこんな街、さっさと抜け出して。
「空へ出よう。飛空船を買ってさ。世界中を飛びまわって、だれも知らない場所を探しに行こう――なあ、ソラ!」
ジインが振り返る。
「おれとおまえなら、なんだってできる気がしないか!」
そう言って、ジインが笑った。太陽をたくさん集めたみたいな笑顔だ。
その光をそっくりそのままはね返すように、ソラも笑った。
二人なら、なんだってできる気がした。
二人なら、なんだって掴める気がした。
ぼくらの上には、すばらしい未来が広がっていて。
どこまでも続く永遠に、ぼくたちは手を伸ばした。
手を伸ばした――はずだった。
……――なんだか、錆びた味がする。
胸のあたりから、ずるり、と何かが滑り落ちた。
やわらかく重みのあるものが、静かに足元に崩れ落ちる。
白い肌。黒い髪。暗色の上着の下から、黒い染みが広がっていく。
黒? いや、ちがう。これは赤だ。
限りなく黒に近い、紅。
ゆっくり、ゆっくりと広がっていくそれは――……。
「――血?」
血だまりの淵が足の指に触れた。温かい液体に、指先が赤く濡れる。
……足?
床に立つ二本の足を見つめる。五本の指。二対の脚。人間の足だ。少し動かしてみる。確かに自分の足だ。
ゆっくりと腕を上げる。五本指の手のひらが、二つ。人間の肌。人間の手だ。
そっと顔に触れる。人間の頬。人間の鼻。人間の顔だ。口の周りが濡れている。何だろう。拭ってみる。両手がべっとりと赤く染まった。
赤い赤い、錆びた匂いのするこれは――……。
どくん、と心臓が跳ねた。
血。血だ。だれの。自分の? ちがう。オレじゃない。オレの血じゃ、ない。
じゃあ、誰の――……?
足元を見る。見てしまう。見てはいけないと、心が叫んだ。けれど、吸い寄せられるように、ソラは見た。
「あ……」
白い横顔。
散らばる黒髪。
虚ろな瞳はどこか遠くを見たままだ。
胸が上下する度に、薄く開いた唇から、ひゅうう、と苦しげな呼吸が漏れる。
「あ……あぁ……っ!」
長いまつ毛が震えた。ゆっくりとぎこちない動きで、こちらを見た双眸は。
どこまでも澄んだ、夜色の――……。
「――ソ……、ッ」
血の気の失せた唇から、掠れた声がこぼれ出る。
次の瞬間、真っ白な喉がごぼりと嫌な音を立てて。
唇から、赤が溢れた。
ほとばしる悲鳴は、駆けつけた少女のものか、それとも自分の喉から出たものか。
ソラには、それすらわからなかった。