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ソラニワ  作者: 緒浜
15/53

015 狂気の沙汰

「ソラ……」

 その呟きに、瑞彦を始めその場の全員が凍りついた。

 これが、“ソラ”?

 目の前の竜を凝視する。金色の鱗。空色の光彩。確かに残留色素特徴は“ソラ”と一致する。

 でも、まさか。

 確かに、“ヒトガタ”が竜化する時期に規則性は無い。生後三日後か、はたまた三十年後か。“その時”がいつ来るのかは、誰にもわからないのだ。

 でもそれが、よりによって今この時だなんて。

 路音の横顔を見る。血の気の失せた頬が、見開かれた双眸が、それがまぎれもない事実であることを示していた。

 ……――なんてことだ。

 ふっと辺りが暗くなる。路音が魔法で光らせていたLEDライトが消えかかり、瑞彦は慌てて路音の手からそれをひったくった。電源を入れると、青白い光が路音の横顔をさらに青白く照らし出した。

 動きを抑えられていた竜が、ぐ、と首をもたげる。その喉がぷくっと膨れ上がった。

「小雪!!」

 はっと我に返った小雪が『支柱晶』を掲げるが、間に合わない。

「だめだ、避けろ!」

 とっさに路音を抱えて横へ転がる。灼熱の炎が床を焦がした。

「う、うわあああっ!!」

 かろうじて避けた北見が尻もちをついたまま後じさる。すぐ目の前で、竜が牙を剥いた。飛び出した小雪が『支柱晶』を水平に掲げ、防護壁を張る。寸でのところで、竜のひと噛みは見えない壁に弾かれた。

 瑞彦はすばやく床の術式に目を走らせた。路音が壊した箇所を探す。

「北見、小雪、術式から出ろ!!」

 二人が転げるように術式の上から出たと同時に、一か八か、欠壊した式を繋げる。術式が光り、竜の手足が凍りついたように動かなくなった。

「今だ、退け!」

 放心したままの路音を引きずるようにして、瑞彦は狭い通路へと駆け込んだ。頼みの魔法士がこんな状態ではどうすることもできない。竜の咆哮に背中を押されるように、四人は路地を駆けた。苦しげな息切れと慌ただしい靴音だけが、暗闇の中に響く。

「ソラ、が……」

 弱々しい呟きが聞こえた。腕を引かれるままに走っていた路音の足が次第に重くなり、ついに止まる。

「黒瀬!」

「放してくれ……ソラが……戻らなくちゃ……」

 瑞彦の腕を振りほどこうと身をよじりながら、路音が背後を振り返る。

 その瞳には、目の前の現実などまるで映っていないようで。

「――いい加減にしろ!」

 怒鳴りながら路音の胸ぐらを掴み、背中を壁へ押し付ける。

「おまえ、この期に及んでまだ“ソラ”のことを……!」

「彦ちゃん、やめて!」

 ショック状態からまだ覚めきっていない様子の路音を庇って、小雪の腕が二人の間に割って入る。けれどそんな小雪の存在にすら気づかない顔で、夜色の瞳は依然と広場の方へ向けられたままだ。

 瑞彦の怒りが爆発した。

 がつ、と鈍い音とともに、路音が路地へと倒れ込む。

 小雪が短い悲鳴を上げた。

 初めて人を殴りじんじんと痛む拳を、瑞彦はぐっと握り込んだ。

「いい加減に目を覚ませ、あの竜を見ただろう?! “ヒトガタ”は竜の第二形態、胎児を食い殺してすり替わる、人の形を真似ただけの化け物だ! 第三形態の竜型に変化した“ヒトガタ”はもう元には戻らない、おまえの“ソラ”はもう消えたんだ!!」

 壁を支えにゆっくりと立ち上がった路音の肩が、びくりと震えて止まる。

「消……えた?」

「そうだ、消えたんだ! あの竜が“ソラ”に戻ることはない。“ヒトガタ”に宿っていた“ソラ”という人格は、もう完全に消えてしまったんだ。おまえの弟は、“ソラ”は死んだんだ!!」

 放った言葉の残酷さに、自ら顔を歪める。

 けれど、こうでもしなければ路音をここから動かすことはできないだろう。

 苦い唾を呑み込んで、瑞彦はうなだれたままの路音から目を逸らした。

「……とにかく逃げよう。先のことを考えるのはそれからだ」

 遠い竜の咆哮が、闇の向こうから小さく聞こえる。

 行くぞ、と二の腕を掴んで強く引いた。けれど、路音の足は鉛のように動かない。

 ――もう気絶でもさせて、担いで連れて行くべきか。

 そんな案が脳裏を過ったその時、

「――て、ない」

「……なに?」

「まだ、消えてない」

 路音が顔を上げる。瑞彦は息を呑んだ。

 まるで美しいガラス玉のように、ただ静かに澄みきった瞳。

 その双眸が映しているのは、絶望でも悲しみでもない。

 一片の曇りもないその瞳が映すのは、ただひとり。

「あいつは、ソラは、まだ消えてない」

 唇の端に血をにじませながら、路音が言う。

「誓ったんだ。最後の最後まで、あいつを守ると。竜でも化け物でもかまわない。あいつがこの世に存在する限り、おれにはまだやるべきことがある。あいつのために、まだできることがあるんだ。だから――」

 闇の中で鮮やかさを増した夜色が、ゆっくりと瞬いた。

 恐ろしいほどにまっすぐな、その眼差し。

 どこまでも底のない一途さは、狂気にも似て。

 ――もう、この手には負えない。

「だから、手を放してくれ」

 まるで暗示にかかったように、腕から力が抜ける。

 ふい、と顔を背け、路音は身を翻した。

 小雪も北見も、その場から動かない。動けない。

 闇の向こうに、路音の背中が消える。

 温もりと痛みだけが残された拳を、瑞彦はきつく握りしめた。




 もと来た道を戻らずに、ジインは途中で角を曲がった。建物と建物の狭間、人一人がやっと通れる隙間を抜けて、配管の上を跳ぶ。たどり着いたのは、広場に近い奈落へとせり出した鉄筋の上。ここなら、少し奥まったところにある広場の様子がよく見える。

 金色の竜はまだ式術に捕われてもがいていた。一度壊したにもかかわらず竜の足止めまでできるとは、術式は予想以上の出来だったようだ。それでも、保ってあと数分というところだろうか。

「……まずいな」

 独り言つ。状況に関してではない。

 まずいと思うのは、自分の精神状態だ。

 不慮の事態に凍りついた思考は、沢木に殴られようやくまともに働きだした。

 けれど自分は今、あまりにも落ち着きすぎている。

 こんな状況なのに冷静でいられるのは、自分が現実を受け入れられていない証拠だ。

 一番恐れていた事態が、いま目の前で起こっている。

 いつかはこうなると、知ってはいた。

 けれど、わかってはいなかった。

 もしかしたらこんな日は来ないかも知れないなどと、胸の片隅ではそんな淡い期待まで抱いていて。

 そんな自分に、覚悟なんてあるはずもない。

 沢木も言ったように、“ヒトガタ”の竜化は不可逆だ。

 竜になったソラは、もう人の姿に戻ることはない。

 もう、会えない。

 空色の瞳に。弾けるような笑顔に。

 もう二度と、会えないなんて。

 ぐにゃりと世界が歪んだ。ずぶ、と足が闇へと沈みかけ、視界が暗くなる。

「――だめだ」

 唇を強く噛んで、ジインはその場に踏みとどまった。

 信じるな。今は、まだ。

 まだ、気がつくな。

 失ってしまったことに、気がつかないフリを。

 そうしないと、この場に立っていることすらできなかった。

 金色の竜が吠える。暴れる長い尾で、広場が破壊されていく。

 そう、いま考えるべきことは、あの竜をどうやって逃がすか。それだけだ。

 がこん、と足場が揺れた。すぐ近くに着地した沢木を横目で見る。

「……まだ、おれに用ですか?」

「……連れ戻しに来たわけじゃないから安心しろ。“まともじゃない”おまえを説き伏せるのが不可能だってことはよくわかったから」

 揺れがおさまるのを待って、沢木がそっと立ち上がる。その視線が、ちらりと眼下の奈落へ向けられた。沢木は高いところが苦手なはずだ。

「だったら、“まともじゃない”後輩なんてさっさと見限って早くここから離れて下さい。今ならまだ式術が効いている。逃げるなら今のうちですよ」

「それができるなら、そもそもここにいない」

 ため息まじりの台詞に、ジインは眉間にしわのよった仏頂面を間近に仰ぎ見た。

「もうおれも、自分がどうしてここにいるのかわからない。そもそも最初に会った時からおまえは身勝手で気まぐれで、他人のことなんかまるで眼中にない、友達甲斐のない酷い奴だった。何を言っても聞きやしないし、小雪と北見を連れてもう本気で監視塔へ引き返そうとしたんだが――どうしてだろうな。どうしても見捨てられない。どうしてだ?」

「いや、おれに聞かれても……」

「だっておまえのせいだろう。きっとおまえの“まともじゃない”のが伝染ったんだ」

 沢木が何かをあきらめたような長い長いため息を吐く。

「それで、あの竜をどうするつもりだ」

 深呼吸をひとつして、ジインは奈落を見上げた。遥か頭上で、細長い空が白く輝く。

「飛空を使って上層へおびき寄せて、空へ逃がします」

「自分が囮になるつもりか? すぐに追いつかれるぞ。空に出るまえに食われるのがオチだ」

「仕掛けてある術式を使います。距離が縮まったらそれで注意を逸らして……」

「空に出た後は?」

「最上階に竜避けのピアナ砲があるはずです。それを使って、さらに上空へ追い払う」

「おれにできることは?」

 沢木を見る。濃灰色の瞳に、苦笑いがにじんだ。

「ここまで来ておいて、ただ見ているだけじゃ間抜けだろう。正直に言えば、やはりあの竜を処分することが事態を丸く治める一番の方法だと思う。竜の飛行速度を考えるとおまえの言う方法で竜を逃がすのはかなり無謀だし、無事に空へ逃がしたとしても人間を狙って戻ってくる可能性が高い。……と、言ったところでおまえを止めることができないのはよくわかったから、それなら少しでも成功率を上げるために手を貸すのが最善の道だろう」

「でも……」

 危険だ、という言葉が喉まで出かかって止まった。

 沢木だって、そんなことは百も承知のはずだ。

「……沢木さん」

「なんだ」

「いい人ですね」

「気づくのが遅すぎるな」

 どちらからともなく二人は笑った。穏やかな心地よい笑いだ。二人でこんなふうに笑い合ったのは初めてかも知れない。

 竜の立つ広場の床が、嫌な音を立て始める。

「――追いつかれておれが食われそうになったら援護して下さい。あとはピアナ砲を……」

「ピアナ砲はあの二人に任せる。おれは竜の進行に合わせて上層へ」

「それと非常用のピアナ槽を開放するよう監視塔に連絡を。この辺りのピアナ濃度をもう少し上げられれば……」

 ぎぎぎ、と重い金属音が響く。術式の描かれた鉄板が竜の脚とともにめくり上がり、淡緑色の光が消えた。ばさりと羽を広げて、竜が奈落のほうへと顔を向ける。

「竜にあまり近づきすぎないで下さい。食われますよ」

「その台詞はそっくりそのままおまえに返す。……言っておくが、こんなことはその場しのぎだぞ」

 竜を見つめる沢木の声が暗く沈む。

「空へ逃がして、そのまま戻ってこなければそれはそれでいいが、もし戻ってきたら……その時はどうするつもりだ」

 竜は人間を、とくに魔法使いを狙って、襲う。

 もし竜が、人の多いこの街を離れようとしなければ。

「その時は、飛空でそのまま旧市街の廃ビル群へおびき寄せます。あそこなら誰もいない。人的被害は最小限で済むはずです」

「おびき寄せて、その後は?」

「その後は……」

 自分が囮になって、竜を廃墟のビル群へ。

 そして――。

「その後はどうするんだ。答えろ、黒瀬!」

 竜化は不可逆だ。

 もう、ソラは戻らない。

 ソラのいない世界なんて。

「そこでおしまい、です」

「……どういう意味だ」

 沢木が青ざめる。何か言おうとした沢木を遮るように、ジインは『支柱晶』を出現させた。

「おい!」

「行きます」

 魔法で足場を作り、上層へ跳躍する。

 ふと思い立って足を止め、沢木を振り返った。

 ありがとう、とか。さようなら、とか。

 何か言うべきか迷ったが、どれも白々しい気がした。

 だから、微笑む。

 沢木は色々なものを与えようとしてくれた。手を差し伸べてくれた。

 けれど自分は、何一つ返すことができなかった。

 だからせめて、心からの笑顔を。

 わずかに驚いた後、沢木は苦しげに顔を歪めた。

「……バカ野郎!!」

 沢木の怒鳴り声を背に、あとは脇目も振らずに広場の近くまで跳んで行く。

 下層からの炎が広場を照らしていた。白く煙る闇がほのかに赤く染まり、どこか妖しく幻想的だ。

 点在する灯りが、まるで散らばる星のようで。

 赤い炎に照らされて、竜が黄金に輝く。

 金のうろこ。金の背びれ。強靭な力の詰まった四肢に、無駄のない流線型の体。不思議な光沢のある薄い羽が、船の帆のようにばさりと広がる。

 美しい生き物だ。

 最新設備の大型飛空船でも到達不可能な『神ノ庭』に唯一入ることを許された、“空と神に愛された獣”。

 空を駆け、炎を吐き、人を襲う異形の化け物。

 この世でもっとも速く、もっとも危険で、もっとも謎に満ちた生命体だ。

 拳ほどもありそうな眼球が、こちらを捉える。

 見覚えのある、鮮やかな空色。

 その鋭い眼光に、背筋が震える。

 ごくり、と唾を呑んだ。

「……おいで、ソラ」

 ゆっくりと『支柱晶』を構える。鎌のような爪が、きしきしと広場の端を掴んだ。

「さあ、鬼ごっこのはじまりだ」

 1ミリの余裕もない心とは裏腹に、精一杯の虚勢でジインは不敵に微笑んだ。



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