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ソラニワ  作者: 緒浜
14/53

014 再会

「なんだ、一人ですか? 挟み打ちでもされるかと思ったのに。こんなことなら、変に勘ぐらないで市場でまけばよかったな」

 わずかに首を傾げて、ジインは唇だけで微笑んでみせた。寄りかかった手すりがぎしりと軋む。背後は奈落の闇だ。切れかかった電灯が視界の端でちかちかと点滅する。

 沢木瑞彦はまだ広場の入口に突っ立っていた。地味な仕立ての服を着ている。『彩色飴街』にも溶け込む少しくたびれた雰囲気だ。普段はシワひとつない制服をかっちり着込んでいるというのに。

「わざわざこんなところまで追ってくるなんて、世話焼きというか何というか……」

「……よくしゃべるんだな」

 言いながら、沢木がゆっくりと歩み出す。

「普段はこっちが質問したことにすら答えないくせに」

「そうでしたっけ?」

「そうだよ」

 広場の中程で足音が止まる。しばし沈黙した後、沢木が苦笑いを浮かべた。

「……なんだか、久しぶりに会ったみたいだな」

「一緒に昼飯を食べてから、まだ三日しか経ってませんけど」

「まだ三日か……もう遠い昔のような気がする」

 確かに、とジインは思った。『ハコ』へ侵入してソラを助け出し、『彩色飴街』へ逃げ延びて、明日はついに空の上だ。つい数日前まで、魔法院でいつ終わるとも知れない悶々とした日々を過ごしていたことが信じられないくらい、状況は劇的に変化した。

 長い長い三日間。

 深いため息を吐いて、沢木が顔を上げた。

「院がおまえを捜している。港にはすでに手配が回っていて、無理に国外へ出ようとすれば……その場で処断される可能性もある。軍はまだ表立っては動いていないが、強固な検問が敷かれるのも時間の問題だ」

「たかが脱走者の捕縛に、ずいぶんと大掛かりですね」

「たかが脱走者じゃない。おまえは『ハコ』を襲撃して“ヒトガタ”を連れ出した、立派な犯罪者だ。しかも貴重な天然の魔法使いで――」

「身よりも後ろ盾もない、東の出身者。だから背反者として捕まえれば、堂々と研究所送りにできる。格好の研究材料だ。今までなにかとおれを擁護してくれた笹原長老も、さすがに今回ばかりは庇いきれないでしょうね」

 他人事のような物言いに、沢木が眉をひそめた。

「それがわかっていながら、どうしてこんなことを……あの“ヒトガタ”がそんなに大切か?」

 答えるかわりに、ジインは薄く微笑んでみせた。

 こちらを見つめる濃灰色の瞳が、すっと細められる。

「……“ヒトガタ”をどこへやった?」

「さあ、どこでしょう」

「ふざけるな。“ヒトガタ”を放っておけばどうなるか、知らないわけじゃないだろう」

「おれにとってはどうでもいいことです」

「どうでもいいだと? 一緒にいれば真っ先に襲われるのはおまえなんだぞ!」

 鋭い声が広場にこだまする。沢木が苦しげに顔を歪めた。

「……考えたんだ、おれなりに。おまえにとって何が最善の道なのか。すべてを丸く収めて院に戻すべきか、それとも院を欺いてどこかへ逃がすべきか。それを実現させるにはどうすればいいのか。おれにできることは何か。ずっと、ずっと考えてる。何が正しいのかなんて、そんなことはわからない。それでも、たとえおまえがどんな道を選んだとしても、おれはおまえを手助けしたいと思ってる。それが院の意志に反したとしてもだ。……だがな、黒瀬」

 一呼吸置いて、沢木の眼光が鋭くなった。

「……“ヒトガタ”をそばに置くことだけは、許せない」

「は……“許せない”? 沢木さん、あんたいつからおれの保護者になったんだ?」

「何とでも言え。おれはただ、おまえを死なせたくない。それだけだ」

 ぱきんと涼やかな音が響く。沢木の手に無色透明の結晶が現れた。『支柱晶』だ。

「おまえはあの“ヒトガタ”を家族だと思っているのかもしれない。いや、おそらく大切な家族なんだろう。でも奴は“ヒトガタ”だ。どんなに大切に想っても、いつか必ず正体を現す。そうなれば――……」

 言いよどみ、沢木は口を引き結んだ。十分な長さとなった『支柱晶』を一振りする。りん、と空気が震えた。

「――おまえが惨たらしく殺されるのを黙って見過ごすわけにはいかない。そうなる前に、あの“ヒトガタ”は……おれが捕縛する」

 視線がぶつかる。いつになく剣呑な光を帯びた双眸を睨み返して、ジインは不敵な笑みを浮かべた。

 この展開を予想していたわけではないけれど、やはりソラを遠ざけておいたのは正解だった。

 こんな話を聞かせるわけにはいかない。

 だって、ソラはまだ気づいていない。

 いつか自分がたどることになるかもしれない末路を、まだ。

 できればこのまま、気づかないでいて欲しい。

「……希望は、まだ、ある」

 口の中で呟いて、ジインはさりげなく足元へ目をやった。鉄板を敷き詰めただけの粗雑な床。そこを埋め尽くすラクガキに、紛れるように描かれた大きな図形。ぐるりと広場の中心を囲むその内側に、沢木は立っている。

 位置は悪くない。

 さあ、上手くいくか……?

「もう一度聞く……“ヒトガタ”はどこだ」

 沢木が、じり、と間合いを詰める。

 すうっと息を吸い込んだ、その時。

「――彦ちゃん!」

 聞き覚えのある声が張りつめた空気を震わせた。路地のほうからばたばたと慌ただしい足音が近づいてくる。

「……小雪?」

 広場の入口に現れた人影に、ジインは目を疑った。

 笹原小雪。北見聡太も一緒だ。

 こちらを見とめた小雪の顔が、喜びと安堵に輝く。けれどそれは一瞬のことで、小雪はすぐにまなじりを吊り上げると、カツカツと靴音を鳴らして一直線にこちらへ向かってきた。

「ちょっ、おい笹原っ?!」

 制止する北見の腕が虚しく空を切る。次の瞬間、ぱん、と乾いた音が耳元で弾けた。

 驚いて、ジインは目の前の少女をまじまじと見つめた。叩かれた頬がじんと痛む。

「説明して」

 小雪の大きな瞳に、みるみる涙がたまっていく。袖を掴むと、小雪は力任せにジインを揺さぶった。

「説明してよ! いったいこれはどういうこと? どうして……どうして、こんなことに」

「小雪」

「あの“ヒトガタ”はあなたの何? 弟が“ヒトガタ”だったの? だからって『ハコ』から連れ出すなんて、これからどうするつもりなのよ……!」

「おい、落ち着けよ」

「落ち着けるわけないでしょう! どうしてあなたは落ち着いていられるのよ!」

 悲鳴に近い叫びが広場に反響し、奈落の闇へと吸い込まれていく。

 言うべき言葉が見つからず、ジインはただ黙って突っ立っていた。

 まさか、小雪までこんなところへ来るとは思っていなかった。

 入り込む余地を見出せず、沢木と北見はただ成り行きを見守っている。

 細く息を吐き、やや落ち着きを取り戻した小雪が、悲しげに眉を歪めた。

「……あなたと弟さんは『貧困街』の出身だって聞いたわ。きっと弟さんは何かの手違いで、生まれてすぐの検診を受けなかったのね。それで“ヒトガタ”だと気づかれずに人間として育てられてしまった――あなたの弟として」

 温もりが手に触れた。やわらかな小雪の手が、その見た目から想像するよりもずっと強い力でジインの両手を握り込む。

「もし私の大切な人が“ヒトガタ”だったらって、考えてみた。すごく……すごく辛いことだと思う。それでも、やっぱり、人が“ヒトガタ”と暮らすことなんてできない。無理なのよ」

 小雪が顔を上げる。潤んだ灰緑色の瞳が、すがるようにこちらを見上げた。

「お願い、路音。私たちと一緒に来て。ちゃんと許してもらえるよう、私、伯父さんにお願いする。笹原の名前でも何でも使って、あなたをきっと守ってみせるわ。だから――」

「小雪」

 懇願を遮って、優しくその名を呼ぶ。

 わずかに頭をかがめて、揺れる瞳をまっすぐに見据えた。

「ありがとう。でも、無理なんだ」

 言いながら、ジインは小雪の指からそっと手を引き抜いた。

「もう院には戻れない。あいつを『ハコ』に閉じ込めて見殺しにするなんて、おれにはできない」

「でも……!」

「理屈じゃないんだ。自分のやってることがまともじゃないって、わかってる。それでもおれは、あいつを失いたくないんだ」

「……自分の命を危険に曝してもか?」

 沢木が固い声音で問う。

「黒瀬。どんなに大切に想っても“ヒトガタ”は“ヒトガタ”だ。今はヒトの形をしていても、いつかは――」

「ヒトの姿のまま一生を終える奴もいます」

「たった1ケース、しかも三十年以上前のデータだろう」

「それでも可能性はゼロじゃない」

「黒瀬、気持ちはわかるが……」

「わかるはずないだろ」

 無機質に言い放つ。

 そう、わかるはずがない。

 すべてが雪に埋もれた、あの夜。

 あの、絶望。

 凍えるようなその冷たさが脳裏を過り、ジインは固く目を閉じた。

「あんたたちにはわからない……絶対に、わからない」

 何度も何度も奪われた。

 その度に魂まで引き剥がされるようで。

 空っぽの手には温もりさえ残らない。

 だから、決めたのだ。

 すべてを失い、代わりにソラを拾ったあの日に。

「あいつがいるから、おれは生きていられる。先がなくてもかまわない。あいつを失うくらいなら、こんな世界……おれはいらない」

 どんなに強く抱きしめても、何ひとつ、この手に残らないのなら――……。

「あいつと離れるくらいなら、いっそ噛み殺されたほうがマシだ」

「黒瀬!!」

 そう、誰にもわからない。わかってもらおうとも、思わない。

「だからおれは、あいつを守るためなら――」

 立ち尽くす小雪の肩を、とん、と押した。

「――なんでも、できるんだ」

 ぱちっと火花が爆ぜた。床に光の線が走り、三人を囲んで円形の図が浮かび上がる。

「っ! 逃げろ小雪!!」

 沢木が叫ぶ。しかし、もう遅い。

「きゃ……っ!!」

「えっ? う、わ!!」

 閃光に驚いた小雪と北見が尻餅をつく。けれどその両足は床にぴったり貼り付いたまま、ぴくりとも動かない。

「な、なに?!」

「足が、動かない! ……なんだよ、これ?!」

「気をつけろよ北見。無理に動くと骨が折れるかも」

「な、なんだって?!」

「これは……式術か」

 足の下で淡いグリーンに発光する図形をまじまじと眺め、沢木が呟いた。北見が驚きに目を見張る。

「式術?! 嘘だろ、こんな……ピアナ濃度の低い場所で?」

「既存の術式に、結晶化の式を組み込んだんだ。意外とうまくいったな」

 呟いてしゃがみ込むと、ジインは術式の外からその出来を確かめた。発光する線の表面には、ピアナクロセイドの細かな結晶がキラキラときらめいている。

「この街のいたるところにこういう仕掛けを仕込んである。式術は手間がかかるし効率が悪いからあまり重要視されていないけど、こんなふうに一人で複数人の魔法士を相手にする時にはなかなか有効だ」

 立体地図に記してある無数の赤い点。それらはすべて、対魔法士用に仕掛けたトラップだ。そのほとんどが、古い資料をかき集め、研究と改良を重ねて編み出した独自の式術だ。基礎的な術式同士を組み合わせて、ピアナクロセイド粒子をさらに複雑に反応させていく。要はドミノ倒しの原理だ。空気中のピアナクロセイド濃度が足りないせいで大規模なものは作れないが、このくらいの子ども騙し程度のものでも十分な足止めになる。

「痛みはないですよね?」

「ああ、痛くはない……けど、膝から下がまったく動かない。すごいな、これ……」

 沢木の呟きは、状況にそぐわない感嘆を含んでいた。こんな時でさえ知識欲がかき立てられるらしい。本当に呆れるほどの勤勉さだ。

「思う存分観察して下さい。たぶん、十分前後で自然に解けますから」

 どうぞごゆっくり、と皮肉まじりに言って、ジインは立ち上がった。

 腕の端末機を確かめる。ずいぶんと時間を食ってしまった。早く戻らなくては。

「あっ、おい、待てよ黒瀬!!」

 慌てて腕を伸ばす北見には目もくれずに、まっすぐ広場の出口へ向かう。

 ソラは無事にデッドスペースまでたどり着けただろうか。

 広場から出たら、端末で連絡をしてみよう。

「待てよ……待てったら、……っ!」

 がん、と床が揺れた。

「おまえ、本当にこれでいいのかよ!!」

 北見の声が背中にぶつかる。床に叩き付けた拳を強く握り込んで、北見は叫んだ。

「自分がやってること、本当にわかってるのか?! 沢木教士も、笹原も、おまえのことどれだけ心配したと思ってんだよ! おまえは生まれつき力があって、才能もあって、……それなのに、全部、こんなに簡単に捨てるのかよ。ふざけるな!」

 虚しく反響する北見の怒声を背に、ジインはかすかな罪悪感を覚えた。

 それは、院に背き“ヒトガタ”を連れ出した自分の行いに対してではない。

 “友人”と呼べるほどの時間を共に過ごした人たちを、式術にかけたまま置き去りにすることに対して、でもない。

 すまないと思うのは、相手の言葉に、まなざしに、少しも揺るがない自分の誓いだ。

 何と引き換えにしても、ソラを守る。

 その固い誓いの前では、沢木の誠意も北見の怒声も、小雪の涙でさえ、さらさらと乾いた砂のようにどこへともなくこぼれ落ちてしまう。

 何も感じないわけではない。

 ただそれ以上に、自分には守るべきものがあり、進むべき道がある。

 それだけだ。

「……ひとつだけ聞かせて」

 小さい、けれど有無を言わさぬ声音に、思わず足が止まる。

 うつむいたまま、小雪は静かに言った。

「最初から……院に来た時から、“ヒトガタ”を連れ出してどこかへ逃げるつもりだったのなら……どうしてあの時、あんなことを言ったの?」

 ――じゃあさ、付き合う? おれたちも――。

 そう言ったのは、確かに自分だ。

 いつからか、二人で過ごすようになったあの中庭で。

 いつものように、とりとめのない話をしながら。

 他愛のないことで、少し笑って。

 二人並んで、空を見上げた。

「あれは、全部ウソだったの?」

 振り返る。蛍色のやわらかな光が、小雪の頬をほのかに照らしていた。

 栗色の髪に隠されて、その表情はうかがえない。

 ――全部ウソだった。

 そう言えば、小雪は楽になるのだろうか。

 愛情が憎しみに変わるほどの台詞を吐いて。

 嫌われるように、仕向けるべきだろうか。

「……おれは――」

 口を開きかけたその時、どん、という衝撃が足元から突き上げてきた。

「!?」

 下層から悲鳴が上がる。配管が破裂でもしたのか、凄まじい水蒸気が立ち上った。

「な、なに……?」

 ただならぬ雰囲気に小雪が身をすくませる。

「何か……爆発したのか?」

 沢木と北見も顔を見合わせた。

「おい黒瀬、これもおまえの仕業か?」

「違う」

 いったい何事だ?

 奈落からもうもうと立ちこめる水蒸気を見上げた瞬間、凄まじい咆哮が辺りを満たした。

「っ!!」

 びりびりと空気が震える。

 ジインは一瞬で『支柱晶』を出現させ、同時に床を蹴った。

「伏せろ!!」

 術式の前に飛び出し、ありったけの力で防護壁を張る。途端、轟音とともに視界が赤く染まった。小雪と北見が悲鳴を上げる。広場の端で電灯が砕け散る音がした。

「く……っ!」

 一面に広がる、紅蓮の炎。

 防御壁でも防ぎきれないその熱が、ひりひりと頬を焼いた。

 熱い。指先に火がつきそうだ。

 この炎は――……!

 炎が途切れたわずかな隙に、ジインは防護壁を崩して思いきり『支柱晶』を薙ぎ払った。空気が裂け、立ちこめる煙の向こうから獣の悲鳴が上がる。

 『支柱晶』で術式の要を壊すと、ジインは叫んだ。

「逃げろ!!」

 座り込んだままの小雪を引き起こす。そこへ、鞭のような一撃が襲ってきた。

「っ!!」

 間一髪直撃を避けて、小雪を抱いて床へ転がる。長い尾が壁と柵を破壊した。

「こ、の……っ!」

 水蒸気の向こうに揺らぐ影めがけて、ジインは『支柱晶』を投げつけた。短い咆哮が上がる。“繋がった”。両足を強く踏みしめ、意識を手のひらに集中する。

「……ハッ!!」

 『支柱晶』が描いた軌跡に向かって、ジインは思いきり手のひらを突き出した。水蒸気に穴が開く。じんと骨に響くほどの重い手ごたえの後に、大きな気配が咆哮とともに遠ざかった。下層に落ちたようだ。

 止めていた息を吐き出し、その場に膝をつく。

「――笹原っ!」

「小雪、黒瀬! 無事か!?」

 沢木と北見が駆け寄ってくる。光源を失って、広場は薄暗闇に包まれていた。LEDライトを取り出して、軽く念じる。青白い光が、強張った顔をぼんやりと照らし出した。

 へたり込んだまま、小雪が呆然と声を震わせる。

「いまのは……あれは、なに?」

 炎と咆哮。長い尾。そして、あのシルエット。

 あれは間違いなく――。

「――竜だ」

 水蒸気の向こうを見ながら呟く。

 巨大な翼で空を駆け、灼熱の炎を吹き、人々を脅かす異形の化け物。

 北見が息を呑んだ。

「それって、まさか……」

「違う」

 北見が言おうとしたことを、ジインは真っ先に否定した。

 まさか、そんなはずはない。

 だって、さっき別れたばかりだ。

 そんなはずは、ない。

「東では二十日に一度は出る。それほど珍しいことじゃない」

「そ、そんなに?」

「ああ。院の公式データには記録されないけどな。沢木さん、院から来ている人手は三人以外にいないんですか?」

「他にもいるが、ただの警備兵だ。魔法士じゃない」

「じゃあ、すぐに監視塔へ連絡して魔法士団を呼んで下さい。それから三人とも早く安全な場所に避難して……いや、できるだけ遠くへ逃げて下さい。できれば監視塔まで戻った方がいい。竜は魔法使いを狙うから、三人もかたまっていたら格好の的だ」

「格好の的って……」

 北見の顔が青ざめる。小雪は身をすくませて、ジインの袖を掴んだ。目と目が合う。小雪は慌てて手を離し、決まりが悪そうにうつむいた。

 端末で緊急信号を送りながら、沢木が水蒸気のほうへちらりと目をやる。

「魔法士団はどのくらいで到着するんだ?」

「確実に半日はかかります」

「半日も? 最寄りの監視塔なら一時間もあれば十分だろう。どうしてそんなに……」

「さあ。シャワーでも浴びてから来るんじゃないですか? 早くて半日、遅い場合は三日経っても来ません」

「まさか、冗談だろう?」

「二年前におれが襲われた時は、通報から二日経ってました」

 沢木が言葉を失う。奈落のほうへ注意を向けながら、ジインは口早に続けた。

「今回はあんたたちがいる。大事な院生を助けるために一目散で駆けつけてくるとは思うけど、どちらにせよあと一時間はかかります。だから早く逃げないと……」

「魔法士団を待つ間、街の人たちはどうするんだ?」

「もちろん、逃げますよ」

「安全な避難場所があるのか?」

「そんなものはありません。各自バラバラに逃げるだけです」

「それじゃあ、相当な被害が出るんじゃないのか?」

「いいから、早く逃げて下さい。今は人の心配をしてる場合じゃない」

「でも、竜をこのまま放っておけば……」

「沢木さん!」

 声を荒げて、ジインは沢木の腕を掴んだ。

「無茶なことはやめて下さい。無理ですよ。これは訓練とは違う……薬で弱らせた竜を叩きのめすのとはわけが違うんだ。院と違って、ここはピアナ濃度も低い。何人かの院生が力を合わせたところで、竜を倒すことは不可能です」

「しかし……」

「安易な正義感で命を無駄にするなと言ってるんだ!」

 苛立たしげに言い放ち、ジインは沢木を出口のほうへと押しやった。

「いいから、早く逃げろ! ここであんたたちにできることは、何も……」

 その場にいる全員が、はっと奈落のほうへ目をやった。

 水蒸気の向こう、下層のほうから、ごうごうと大きな羽ばたきが近づいてくる。

「……逃げようにも、そうさせてくれないみたいだぞ」

 小雪を後ろへ庇って、沢木が後じさる。

「こ、こっちへ来る……?!」

「クソッ……!」

 舌打ちして、ジインは再び『支柱晶』を出現させた。

「おれが足止めします。その間に三人とも早く逃げて下さい」

「黒瀬?!」

 北見が驚きに目を見張り、小雪が息を呑む。

「そんなことできるわけないだろう」

 憮然とする沢木を、ジインは振り返りざまに怒鳴りつけた。

「あんたたちが逃げなきゃ、おれも逃げられないんだよ!」

 目と目が合う。言ってしまってから後悔した。顔が熱くなる。

「黒瀬……」

 こちらを見つめるまなざしから、ジインは顔を背けた。

「……あんたたちにここで死なれたら、おれのせいみたいで寝覚めが悪い。いいから、さっさと逃げてくれ。おれはこの街に慣れてる。あんたたちの倍の速さで逃げられるんだ」

「でも……!」

 小雪が悲痛な声を上げる。わずかに思案して、沢木が口を開いた。

「……四人なら、何とかなるんじゃないのか」

「沢木さん、いい加減に――」

「今から逃げても、黒瀬が倒れれば背中を襲われるだけだ。仕留めることは無理でも深手を負わせることができれば、その隙に四人とも逃げられる。黒瀬一人に足止めを任せるより成功率が高いだろう。院生とはいえ、こっちには天然の魔法士がいる。勝算はある」

「ですが、教士……」

 うろたえる北見の肩を、沢木が叩いた。

「大丈夫だ、訓練通りに動けばいい……小雪、おまえは大丈夫か?」

「ええ、平気よ」

 青ざめた顔で、けれどしっかりと小雪は頷いた。

「そういうわけだ、黒瀬」

 深いため息を吐く。竜の気配は、すぐそこまで迫っていた。

 もう考えている暇はない。

「……北見と沢木さんで動きを封じて下さい。その隙に、おれが竜を仕留めます」

「黒瀬、おまえ大丈夫なのか?」

 北見が心配そうなまなざしを向けてくる。

「……攻撃はおれがやろう」

 沢木の提案に、ジインは首を振った。

「この中じゃ、おれのコントロールが一番いい……大丈夫です」

 『支柱晶』を握り込んで、ジインは水蒸気の向こうを見据えた。

 大丈夫。相手は、“ただの”竜だ。

 自分とは何の関係もない、ただの竜……。

「おれと北見の力じゃ、数秒が限界だぞ」

「わかってます。小雪は、万が一に備えて後方から防護を」

「わかったわ」

 『支柱晶』を出現させながら、小雪が頷く。

 チャンスは一撃。

 さっさと終わらせて、早くここから離れなければ。

 駆けつけた警備兵に囲まれでもしたら、洒落にならない。

 それより、竜にやられてここで死んだら本当にバカみたいだ。

「ったく、どうしてこんなことに……」

 ちょっと式術を試してみるつもりが、とんだ回り道になってしまった。

 ソラは、大丈夫だろうか。

 先ほどの悲鳴といい、爆発といい、下層では騒ぎが広がっているに違いない。

 きっと心配しているだろうな。

 とにかく、早く戻らなくちゃ――……。

 羽ばたきが、水蒸気のすぐ向こうに迫る。

 焦燥を胸の隅に追いやって、ジインは意識を集中した。

「――来るぞ!」

 突風で水蒸気が吹き飛んだ。視界が開ける。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、夕日のように輝く金色。

 ――金、色?

「え……?」

 だって。

 そんな。

 まさか。

「黒瀬、今だ!」

 うそだ。まさか、そんなこと。

 そんなこと、あり得ない。

 だって、さっき別れたばかりだ。

 違う。絶対に、違う。

 これはきっと、なにかの間違い――。

 竜の首のあたりで、きらりと何かが光った。

「――っ!!」

 悲鳴が声にならない。

 全身の血が引いていくのがわかった。

 そんな。そんな。そんな。

 ――嘘、だ。

「おい、黒――」

 からん、と澄んだ音を立てて、ジインの手から『支柱晶』が滑り落ちた。

 結合していた粒子が粉々に砕け散り、かすかな光を放って霧散する。

「――路音?!」

 金色に輝く翼。

 その首に揺れる、鈍色の鍵。

 ぎらりと光る双眸は。

 鮮やかな――……。




「……――ソラ」




 悲鳴に似た咆哮が、奈落の闇をつんざいた。



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