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ソラニワ  作者: 緒浜
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001 脱出

「空へ出よう。

 飛空船を買ってさ。

 世界中を飛びまわって。

 だれも知らない場所を探しに行こう。

 なあ、ソラ。

 おれとおまえなら、なんだってできる気がしないか」


 その時の笑顔は、今も忘れないでいる。


 *****


 黒い。まっくろだ。

 まぶたを閉じてみる。まっくろだ。

 まぶたを開けてみる。やっぱり、まっくろだ。

 なにもない、からっぽの世界。

 ぼくは死んだのだろうか。

 そう疑いたくなるほどに、目の前の闇は深かった。

 闇というよりこれは“黒”だ。すべてを呑み込む黒という色が物質となって世界を埋め尽くしている。

 少年は静かに呼吸をくり返した。

 したたる水の音と、自分の息づかい。それ以外には何もない。

 腕を持ち上げる。のしかかる色が重すぎて、指先がわずかに動いただけだった。

 息が苦しい。どろりとした闇が鼻や口から流れ込み、少しずつ肺に溜まっていくようだ。それは血液とともに体をめぐり、もしかしたら、すでに脳まで達しているのかも知れない。

 外からも内からも、その色はじわりじわりと少年を浸食していた。

 食われる――……。

 低くうめいて、少年は頭上を仰いだ。世界がわずかに揺らぎ、闇が和らぐ。どこからともなく降るしずくの連なりが、細い光を受けてキラキラときらめいた。

 肌に当たっては砕ける光のかけら。心地よいリズムに刺激され、眠っていた感覚が目を覚まし始める。

 すぐ目の前に機械の壁が見えた。気味の悪い壁だ。くねくねとからみ合うコードが邪悪な生き物のように見える。四方を同じような壁に囲まれている。とてもせまい。

 どうしてぼくはこんなところにいるのだろう。

 手が重い。頭が重い。まるで体が鉄の塊になったみたいだ。

 目の前で弾ける雫の音がやけに遠い。見えない手が耳を塞いでいるようで、気持ちが悪かった。

 なんだか、世界のすべてが自分から一歩遠ざかってしまったようだ。

 みんなどこへ行ってしまったのだろう。

 頼りなく視線をさまよわせると、頭上の白い亀裂が悲鳴に似たきしみを上げて広がった。

 光の中に影が揺らめく。

「……ソラ?」

 人の声。誰かいる。誰だろう。

「ソラ……ソラだな?」

 ソラ。

 それは誰のことだろうか。

「早く! こっちだ……手を、伸ばせ!」

 光の中から伸びてきた腕に、無意識に手を差し出す。さまよっていた指先が触れあい、たぐるように手首を掴まれた。

 あっと息を呑む。

 熱い。

 人の熱。肌の感触。

 生きている、命の手ごたえ。

 少し意識がはっきりする。そこで初めて、ソラは自分が裸で全身ずぶぬれだということに気がついた。思い出したように鳥肌がたち、ぶるぶると震え出す。寒い。というか冷たい。これでは人肌を熱いと感じて当たり前だ。

 誰かの腕に引っぱられ、ソラは窮屈なところから引きずり出された。

「……――っ!」

 まばゆい光が両目に突き刺さる。痛い。両手で目を覆う。

 暖かい手が肩に触れた。

「大丈夫か?」

 深く、美しい声がした。まだ若い。心配そうではあるけれど、不安げではない。真夜中の澄んだ空気を思わせる、不思議と心地よい声だ。

 徐々に痛みが治まっていく。恐る恐る両手を外すと、かすむ視界の向こうに一対の瞳が見えた。

 わずかに緑みがかった、深い青。ほとんど黒に近いのに、どこまでも澄んでいて底がない。

 不思議な色。本当に綺麗な色だ。人間の細胞が作り出したとは到底思えない。これは虹とか夕焼けとか、人の手には負えない類いの色だ。

 そんな夜空色の瞳をゆっくりと瞬かせて、少年は言った。

「ケガはないか? どこか痛いところは?」

 言いながら、熱い手のひらが肌の露を払う。

 少年はかっちりとした作りの上着をまとっていた。どこかの制服だろうか。上等な布だ。細身で裾が長く、ボタンがいっぱい付いていてかっこいい。お城とか舞踏会とかにも着ていけそうなくらい上品な感じがする。

 なにより灰色の上着は、少年の黒髪によく似合っていた。

 ふいに少年の手が止まる。ぐっと何かをこらえる面もちで、少年が薄いまぶたをふせた。

「ソラ……本当に、ソラなんだな……」

 噛み締めるような呟きに、ソラは思わず首を傾げる。

 ぼくは本当にソラなんだろうか?

 恐ろしいことに気がついて、ぞわりと全身の毛が逆立った。

 わからない。思い出せない。

 自分が本当にソラなのか。

 この少年が誰なのか。

 頭のどこを探しても、“記憶”というものが見つからなかった。

 からっぽの体に風が吹きすさぶ。

 “記憶があった”という記憶だけが、かろうじて頭の隅に引っかかっていた。

 誰かと過ごした時間。歩んできた景色。育んだ想い。願い。

 そのぬくもりだけが、心の片隅に残っている。

 大切だったはずだ。あたたかかったはずだ。

 それが、なくなってしまった。

 なぜ失くした? どこで落とした?

「ソラ」

 肩を掴まれる。鮮やかな色のまなざしが視界に飛び込んできた。

「しっかりしろ、大丈夫か?」

 どこまでも深く澄んだ色。これに似た色を、どこかで見たことがある。

 ああ、そうだ。

 よく晴れた冬の夜、はるか彼方の上空で輝く『神ノ庭』の淡い光がこの国にも届くと、空がこんな色に――。

「あ……!」

 ソラはいま初めてまぶたを開いたような心持ちで、目の前の少年を見つめた。

 知っている。ぼくはこの人を、この瞳を知っている。

 “知っている”ということしか思い出せないけれど、ただそれだけが、からっぽのソラを満たしてソラを“ソラ”にした。

 少年がふいに顔を上げる。その眼光がにわかに鋭くなった。

「来たか」

 少年の横顔が、抜き身のナイフに似た鋭利な光を帯びる。俊敏に立ち上がると、少年は着ていた上着を脱いでよこした。

「とりあえず、これ着とけ」

 ぱりっと糊の利いた上着を濡らしてしまうことに抵抗を感じたけれど、冷えきった体はまともにしゃべることすらできないほどに凍えていたので、ソラはその上着をありがたく羽織らせてもらうことにした。

 さらりと乾いた布の感触が、濡れた肌に心地よい。かすかに残る少年の熱とにおいが、冷えた体を温かく包み込んだ。

 なんだか、安心する。

 鼻の頭まで上着を引き上げて、ソラは深く息を吸い込んだ。

「立てるか?」

 口早に問われてうなずいたものの、体が思うように動かない。

 少年の腕を借りてようやく立ち上がると、どこからか荒々しい靴音が近づいてきた。少年がソラを背に庇うのとほぼ同時に、数人の兵士たちが並んだ機械の間から飛び出してきた。

「動くな!」

 向けられた銃口に思わず息を呑む。銃身の先にぽっかりと空いた穴が、今にも火を噴きそうに少年とソラを見つめていた。

 ぎゅう、と臓腑の奥がせり上がる。

 身を縮めて少年の背中にしがみつくと、夜色の瞳が振り返った。

 涼やかな双眸が、ふっと微笑む。

「大丈夫。心配するな」

 少年の腕が静かに上がる。パキン、とガラスを割るような澄んだ音が響き、少年の手のひらに無色透明の物体が現れた。

 ガラス……いや、氷?

 それはパキパキと音を立てて長さを増して、数秒のうちに人の背丈ほどになった。

 いつかどこかで見た、鉱物の結晶に似ている。

 細長い棒状の物体で、少年が床を軽く打つ。透明な音とともに、目には見えない何かが波紋のように広がって、足首あたりをかすめていった。

「『支柱晶』……!」

「魔法士が、なぜ……」

 兵士たちが途端に動揺する。銃口をさげる者、顔を見合わせる者、みな困惑した表情を浮かべている。

 『支柱晶』をくるりと回転させると、少年は二本の指で水平に空を切った。とてもなめらかな動きだ。それは波紋を立てずに水面をなでるような繊細さで、柔らかく、どこか優雅でもあった。

 少年の指先にあわせて、銃口がわずかに揺らぐ。

「……銃身を曲げた。指を吹き飛ばされたくなければ、引き金は引かない方がいい」

 静かな声に、兵士たちの視線が一斉に手元へと向けられる。

 その隙に、少年は『支柱晶』で床に大きく円弧を描いた。軌跡は一瞬淡い緑色にきらめいたかと思うと、次の瞬間、赤く燃え上がった。

「う……っ!」

 熱風に思わず目を細める。ちりちりと頬が熱い。

 人の背丈を超える大きな火柱が、何もない床から噴き出していた。それはごうごうと勢いを増しながら、兵士たちへと迫っていく。

 揺らぐ炎の隙間から、悲鳴を上げて後じさる兵士たちが見えた。

「行くぞ!」

 手を引かれ、ソラは少年とともに通路を駆け出した。

 思うように動かない足がもつれ、その度に少年の肩を借りる。

 通路はどこまでもまっすぐに伸びていた。天井がとても高い。通路というより、ここは巨大な倉庫のようだ。前後左右に大きな機械が等間隔で並んでいて、それが壁のようにどこまでも連なっている。

 機械の陰に駆け込むと、少年は腕に装着された超小型端末機を確かめた。チカチカと光る数字の列を白い指先がなぞる。

「そろそろ、いいか」

 ソラを一歩下がらせると、少年は深く息を吸った。まぶたを伏せ、ゆっくりと息を吐く。すると、水平に持った『支柱晶』がふわりと浮き上がった。

「乗れ」

「え?」

 言われた意味がわからず、ソラは思わず聞き返した。

 『支柱晶』はちょうど腰あたりの高さで、空中に静止している。

 取り出したゴーグルを装着して、少年は再び言った。

「いいから、乗れってば」

「乗れって……この棒に?」

「そうだよ、ほら早く!」

 腕をつかまれ半ば強制的に、ソラは『支柱晶』にまたがった。両手にひんやりとしたガラスの感触が伝わる。おそるおそる体重を預けると、それは水面に浮かぶ小船のようにわずかに沈んだ。

 ソラを後ろから抱え込む格好で、少年は『支柱晶』に足をかけた。頬が触れ合うほど近いその横顔を、横目でちらりと見る。

 唇の端に、赤い血がにじんでいた。

「しっかりつかまっとけ……頼むから、落っこちるなよ!」

 笑いを含んだ声が、耳元で囁く。

 次の瞬間、全身を押しつぶす圧力とともに、足が床から離れた。

 胃が浮き上がる感覚に思わず悲鳴をあげる。

 身を屈め、必死で『支柱晶』にしがみつきながら、ソラは恐る恐るまぶたを開けた。

 宙に浮いた足の下を、機械の群れが猛スピードで背後に流れていく。

 二人を乗せた『支柱晶』は空中をすべるように飛んでいた。

 空気のかたまりが顔にぶつかる。うまく息ができない。まぶたを開けているのもやっとだ。それでも恐怖を感じたのはほんの一瞬で、生まれて初めての感覚にソラの心は浮き立っていた。

 まるで鳥に、いや、風になったみたいだ。

 ざわりと首筋が粟立つ。叫びたい。あらん限りの声を発して、この風と真っ向から対決してみたい。そんな衝動に、唇がむずむずした。

 改めてまわりの景色を見る。途方もなく広い空間に、同じ形をした機械が数えきれないほどに並んでいる。人の姿は見当たらない。奇妙なところだ。何のための施設なのか、まるで見当もつかない。

 何本ものコードを生やし、見ようによっては生き物のようにも見える機械の群れを見下ろして、ふと気がつく。

 ついさっき自分が這い出てきたのは、あの機械のうちの一つだったらしい。

 ということは、もしかして。

 この機械のひとつひとつに、人間が入っているのだろうか。

「抜けるぞ、しっかりつかまってろ!」

 風圧が増して耳元で風が唸る。本当に息ができない。

 少しでも油断すると体を持っていかれそうだ。

 薄く目を開ける。前方は灰色の壁だ。出口は見当たらない。

 少年が何かを叫ぶ。

 直感的に身を屈めて、固く目を閉じた。

 次の瞬間、凄まじい爆音が全身を呑み込んだ。

 世界が回転し、どちらが上か下かも曖昧になる。

 体がどこかへ持って行かれそうだ。

 背中に少年の体温を感じる。

 そのぬくもりだけを頼りに、ソラは待った。

 一秒、二秒、三秒……。

 永遠のような一瞬を抜けて、突然、すべての音が霧散した。

 空気の質が変わる。風の音がやわらかい。

 ソラは恐る恐るまぶたを開けた。




 ……――青い。




 上も下も。

 右も左も。

 地面はどこにも見当たらない。

 本当に、ただ、青い。

 砕けた壁の残骸が降りそそぐ中、空はどこまでも果てしなく、ただ青かった。



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