安乾伝 三回
皇太子陸項巴による皇帝陸寵の追放劇は、慶成九年に発生したことから慶成の変と呼ばれるようになっていた。それによる朝廷の求心力は急落し、地方の豪族、そして朝廷から任命される官でありながら地方に根深く権力を食い込ませている節度使達は、これを幸いと自己のために力を貯め込むようになった。白涼が陸項巴を討伐、新皇帝の陸昭が即位に当たり、元号は黄和と改められた。
帝国南西部に位置する適州節度使、范児晴は節度使の中でも特に野心強く私腹を肥やし私兵を集め積極的な勢力拡大に余念がなかった。その范児晴が、現在の皇帝陸昭は白涼らによって不当に立てられた皇帝でありもはや陸皇家には皇帝たる資格なし、世を治める根拠なしと断じて中原へ兵を向けた。黄和二年の春、自らを顕寧皇帝と称し、国号を本籍地から取って恭と定めると、周囲の地を併呑しながらゆっくりと北上を開始している。その野望留まるところを知らず、勢力下に入ることを拒んだ地は略奪の限りを尽くされた。一方で范児晴の下へ抵抗することなく降った相手には寛大な処置を伝えたため、竹を縦に割るかのような勢いでその勢力は拡大していった。
一方。先帝陸寵の弟である陸剛は、南方の遊牧民族国家である渡瑠地からの侵攻を防ぐために大軍を持って南方に駐屯していた。陸昭の即位とともに大将軍の位を送られていたが、幕僚たちは陸寵亡き後に皇帝となるべきは陸剛であり、陸昭などという皇族の末端を祭り上げたとして現在の朝廷に対して大きな不満を溜め込んでいた。それでも陸剛は自身が皇帝になるべきとは考えておらず、皇族であるが帝国の武としてその身を捧げる覚悟に揺らぎはなかった。当然、皇帝を僭称した范児晴は討つべしとの考えを表明している。それでも、渡瑠地軍とぶつかりあうことも少なくない現状、陸剛の手勢から多くをその討伐へと派遣することが出来ずにいた。
それでも恭軍が都を目指せば、必ず都とこの南方拠点が分断されてしまう。そうなると後方からの兵站が途切れる。兵糧や武具その他物資の補給が途絶えれば、徐々に渡瑠地軍に押され、国土南方は蹂躙されてしまうだろう。陸剛は戦線を維持できるであろう限度を残し、歴戦の名将である平南将軍の朱密を主将として一軍を預け、恭軍の北上を防ぐべく派遣した。同時に、都からも兵を出し、恭軍を挟撃すべしとの使者を飛ばした。
范児晴には実子の他に、多くの優秀な若者を仮子として親子の契りを結んでいる。その中でも特に期待されている安乾は、恭軍の中では後方、陸剛率いる官軍勢力の西に位置する地方を担当していた。安乾に求められていたのは物資を前線へ送る後方担当であり、また横から官軍の動きを牽制することであったが、安乾はそれ以上の仕事をしてみせると意気込んでいた。官軍が南方の前線から一軍を裂き恭軍の本隊へ討伐軍を向けたと聞いた安乾は、それまで行っていた工作の数々を表に出すときとほくそ笑む。
その大きなもののうちの一つは、官軍勢力圏のいくつもの郡ないし県を、密かに恭軍に引き込んでいたこと。陸剛の本隊と、朱密率いる討伐軍の距離が十分に離れた時、寝返りを約束させていた城々を一斉に蜂起させたのであった。時を同じくして自らも軍を率いてその地域を軍事的に制圧、陸剛が危惧していた後方からの補給基地との連絡を断つという行動を、范児晴にすら知らせることなくやりおおせたのだった。また、もう一つ。あろうことか外敵である渡瑠地軍を内部に引き込み、陸剛の官軍へ大攻勢を仕掛けさせたのだった。
陸剛軍はこの攻勢を支えきれず追い詰められてしまうが、官軍の中でも選りすぐりを集められているとあって、瓦解することなく踏みとどまる。しかし南方から渡瑠地軍、西と北を安乾率いる恭軍に抑えられている状況となる。物資の援護は東側のいくつかの州が陸剛に協力したこともあって深刻な不足をすることはなかったが、最初の大攻勢によって将、兵とも大きく失ってしまった状態では、巻き返すほどの軍勢を纏めるまでには至らない。
一方、恭軍本隊へ向かった朱密軍は都から白涼率いる官軍が到着し恭軍と戦闘を始めたことや、安乾が南方の官軍を分断した後は陸剛の軍を狙うことに集中し、朱密へは大きな力を向けなかったこともあって、烏合の衆であった恭軍末端を次々と撃破。陸剛の本隊が東部へ追いやられたことは聞き及んでいたが、老将朱密は陸剛なら耐えると信じて自らの任務である恭軍の討伐を優先し、范児晴と恭軍主力が滞在する弁州まで進軍に成功していた。都から進発し、恭軍の先鋒部隊である范児晴の長子范億が率いる軍を破った白涼軍と合流した朱密は、曜林の地において恭軍主力を激戦の末に撃破した。范児晴はこの戦いにおいて流れ矢に当たり重傷を負い、次子の范礼は白涼軍副将の呉才に討たれるなど大きな被害を受ける。だが、恭軍壊滅かと思われた時、安乾が渡瑠地兵を含む大軍を率いて戦場に到着。恭軍主力を収容しつつ弁州の州城へ撤退し、戦況を膠着させた。
精強な渡瑠地兵は恭軍に従属したわけではなく、好きに略奪をしてよいとの取引の下協力していたに過ぎない。戦略もなにもなく暴れまわる渡瑠地兵の対応に官軍が苦慮する間に、白涼へは皇帝から帰還の勅命が届く。まだ幼い皇帝は、最も信頼できる武人である白涼が長く都を開けることを好としなかったのだ。朱密に可能な限りの将兵と物資を預けて都へ戻る白涼。この頃、朱密には功績により征南将軍への昇進が告げられている。
朱密がなんとか弁州とその周辺から渡瑠地兵の駆逐に成功した頃の黄和三年、冬。矢傷が元で范児晴が斃れる。後継者として第二代恭皇帝としてその長子范億が立つが、その側近であったはずの伊高が范億を暗殺、後継者に安乾を戴くと発表する。安乾は恭の第三代皇帝として即位し、南方の国土を一部渡瑠地に割譲することで同盟を結んだ。渡瑠地軍には南東部で戦線を持する陸剛を引き続き抑えさせつつ、范児晴時代以上に軍備を強化。また、無用な略奪をさせず内部の富国策を取ることで支配地域の人心を掴み、その力を強固なものにしていった。




