本紀12回
帰宅した白涼を迎えた妻の姫瑶は、夫が少し青い顔をしていることに気がついた。
「お帰りなさい、あなた。少し顔色が悪いようだけど、何かありましたか?」
「瑶……。なんでも……いや、近々出陣することになりそうだ」
「そうですか。大丈夫ですよ、あなたならきっと上手くやれますとも」
力づけたいと思い、胸の前でぐっと両拳をにぎる姫瑶。それをみてふっと笑った白涼は、その手をとった。
「ああ、少しでも早く帰ってこれるように頑張るよ」
「はい、期待していますね」
にっこりと笑う姫瑶に、ほっとした表情を浮かべる白涼。この妻が待っていてくれるから、帰ってこれる。そう思わせる笑顔であった。
「それとな…」
「はい」
白涼は少し迷いを見せた後、続ける。
「渡瑠地国が、攻め込んできたらしい」
「まあ、おおごとではないですか。どれくらいの規模なのですか?」
「うん、はっきりとは分かっていないが、10万は下らないとのことだ」
「それは大変! あなたの出陣は、そのことなのですか?」
「いや、私は別の賊の討伐だ。渡国のことは帝弟殿下が任されるようだが、なにしろ渡国の兵は強い。万が一にも負けられぬ戦だからな、こちらも大軍で応じることになるようだよ。ああ、とりあえずお茶を一杯もらえるかな」
居間の椅子に腰掛けて、一息つく白涼。はい、と応えて姫瑶がお茶の用意に台所へ入っていく。
「帝弟殿下の指揮なら、安心してもよさそうですね?」
台所から聞こえてきた声に、白涼も応える。
「ああ、あの方は経験豊富だ。一番頼りになる将軍だよ」
そうだ、心配しても仕方が無い。自分は目の前に与えられた紫天賊の討伐を第一に考えなくては、と言い聞かせ、妻の入れてくれた熱いお茶に口をつける白涼であった。
二日後、白涼は謁見の間にて皇帝の眼前で拝礼していた。そこに尚書令の姫班から、命が下される。
「白涼、紫州での賊徒討伐を命ずる」
「はっ、承りましてございます」
「なお、この任にあたるに際して、前将軍の位を与える」
将軍に任じられてから半年での前将軍への任命。この背景には、前任で賊徒に敗北した将軍の位が左将軍であったため、国家として格下の将軍を使いたくないという思惑があった。そこで、このときまで空位であり左将軍と同格の、前将軍に任命されたのだ。
老齢の皇帝陸寵も、鷹揚に声をかける。
「皇后も、そちのことを気にかけておる。もちろん、朕もじゃ」
「はい、ご期待に沿えるよう全力を尽くします」
「朕からそちに贈る物がある。あとで受け取るが良い」
「過分なご厚意、感謝いたします」
皇帝が深く頷くのを見た姫班が告げる。
「では白前将軍、すぐに任に当たるが良い。下がってよいぞ」
「ははっ!」
皇帝から下賜されたものについて係の者に尋ねると、皇帝の住む宮殿前まで案内された。そこでしばらく待つように言われた白涼が、しばし辺りを見回すなどして手持ち無沙汰をかこっていると。
「白前将軍、お待たせいたしました。こちがら皇帝陛下からの下賜の品でございます」
官吏が、見事な漆黒の馬を連れてきていた。やや気性が荒いようだが、体格が良く、毛並みも十分に手入れされていて、一目で名馬と分かる馬であった。
「おお、これは見事な!」
思わず上ずった声を上げる白涼。それほどまでに見目麗しく、また十分に大地を書けることが出来そうな馬である。また、取り付けられている鞍や鐙も、金箔で装飾された豪華なものとなっていた。
「駆け出せば自らの影をその場に残すかのごとく疾く駆けることから、残影と呼ばれる名馬にございます、将軍」
「残影……。良い名だ。これほどの名馬見たことが無い」
感激した様子の白涼が残影の首筋を撫でる。残影も気持ち良さそうに首を擦り付けてきた。
「将軍を気に入ったようですな」
官吏も良かった、と胸をなでおろす。
「ああ、この馬を前にして気に入らぬ武官はいないだろうな。皇帝陛下にはますます働きを以って恩義をお返しせねば」
「それと将軍、皇后陛下からも言伝を預かっております」
現在の皇后は丞相姫淵遺の娘で、尚書令姫班の妹であり、白涼の妻の姉にあたる。
「皇后陛下から?」
「はい。はやく甥か姪の顔が見たい、とのことです」
官吏は含み笑いをしつつ、そう伝えた。
「……善処すると、お伝えしてくれ」
「はい。では将軍、ご武運を」
「ありがとう」
白涼は官吏に礼を言うと、早速残影に跨って駆け出すのであった。
前将軍となった白涼は直属の兵をこれまでの三千から五千まで増やすことが許された。二千増やすといっても、それまでに白涼と共に戦場を駆けた三千と同じだけの訓練量を持った皇軍兵士はいないに等しかった。そこで慕容循が父慕容玄太尉に掛け合って、なるべく体が大きく、力が強い兵を要求していた。
そして出陣までの数日間を、徹底して陣地の構築、および解体を繰り返させていた。素早い陣地の敷設は筋力の鍛錬にもなる。刀や槍を振るう訓練では無いという不満はもちろん出ていたが、鬼教官の韓維が一にらみで黙らせてしまう。初日にしつこく文句を言った兵を容赦なく鞭で打ち据えたからであった。
「貴様らが数日で精兵になれるというのなら、武器の訓練もよかろう。だが実際には無理だ! だからこそ、今他に熟練した部隊のいない陣地構築を、お前たちだけの長所を作り出すための訓練である! 文句があるならばよかろう、槍を持ってこの私を突き殺すがいい!」
口ひげを蓄えた伊達男の韓維が槍の名手であることは、兵の間では周知の事実である。とてもはむかうなど考えられなかった。
「口を動かす前に手を動かせ! 貴様らの練度は部隊において無二のものとなる! 特に構築は全軍の防御の要になることもある!
それを心に刻んで動け!」
韓維の叱咤に、疲労しつつも新規兵二千は、陣地の構築と解体を繰り返すのだった。
陣を素早く構築することができれば、それだけ前進したときに拠点が作りやすい。解体速度が速ければぎりぎりまで物資を持って帰ることができる。地味に思われるかもしれないが、陣地の構築は進軍に於いて大変重要な意味を持つのだ。
慕容循はこの部隊も、激戦にならない場所に投入して実践訓練をさせたいと思ってはいたが、これから対峙する賊軍がそうまく隙を見せてくれるかとの不安も持っている。
偵察部隊を纏める校尉の曹弁には、出陣を待たず早めに偵察兵を送り込み、戦うべき相手である紫天賊の情報を集めるよう指示してあった。もちろん、前任である左将軍金明のところにも赴いて把握している情報を開示してもらおうとした。だがあまりに情報が少なく、敗因の分析にも耐えられない程度の情報しか記録されていなかった。いや、記録していた分は不都合だからと見せてくれなかったか、そもそも破棄をしたかだ。役に立ちそうなのは、紫天賊の兵力が五万程度であろうとの情報程度かもしれない。
「これではほぼ無策で戦ったようなものではないか……」
曹弁はあきれたとばかりにため息をつく。金明の幕僚から受けた説明は、ほとんど出たとこ勝負、事前偵察もろくにおこなっていないような状態であった。明らかに賊と侮っての敗退である。
(賊兵が予想より多かっただけでこの体たらくとは、何が将軍だ)
金明は十年前に起こった大反乱、赤倫教徒の乱で勲功が有ったとして将軍になった人物だ。決して実戦経験が無いわけではない。それでもその後は活躍の場が少なく、ようやく左将軍に上がることができた程度の武勲しか稼げていない。今回の出撃では久々に功をあげると喜び出陣していったはずなのだが。
「とにかく、将軍に報告しなくては」
足早に、白涼の執務室へ向かう曹弁であった。




