第6話 佐藤はる⑥
月曜日の朝は、いつもより空気が重く感じた。
週末に少し整ったはずの気持ちも、出社してパソコンを立ち上げると、また胸の奥に引っかかる。
氷川さんは、すでに席にいた。
モニターに向かう横顔は相変わらず無表情で、タイミングを計っているうちに時間だけが過ぎていく。
左手の薬指に目を向ける。
意を決して、社内チャットで連絡を入れる。
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おはようございます。
先週の件で少しお話ししたいことがありまして、
今日どこかでお時間いただけますか?」
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数秒。
この間が緊張する。
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今からでよければ。
会議室B、空いてる
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氷川さんらしい簡潔な返事がきた。
急いで会議室Bを押さえ、二人連れ立って席を立つ。
先を歩く氷川さんの表情は読めない。彼女に続いて会議室に入りドアを閉めると、外の音が遠のく。
改めて覚悟をする。
逃げ場がなくなった分、腹をくくった。
氷川さんが座るのを待って、自分も対面に腰を下ろして、1つ深呼吸。
「時間ありがとうございます。」
「別に。あの件は一応先方も謝罪を受け入れてくれたし、もう解決したと思うけど、どうしたの?」
先週までだったらこの聞き方されただけできっと萎縮していただろう。
話を蒸し返して怒らせてしまっただろうかとびくびくして、「やっぱり大丈夫です。」といって言葉を飲み込んだ自分がきっといた。
でも、今は少しだけ違う見方ができる。自信があるわけじゃないけど、この言葉を悪意だと思って受け止めなくてもいいんじゃないか、と。
握りこんだ拳の中、薬指のガーベラを思いながらもう一度、深く息を吸った。
「先週の件なんですが……確認不足でご迷惑をかけたこと、本当に反省しています。」
「そのことの謝罪はもういいって。」
氷川さんがいつものようにぴしゃりと言い切る。
けど、今日は違う。
——気持ちを、伝えるんだ。
「今日お話ししたいのは、ミスのことではなくて……」
言葉を選びながら続ける。
「私、氷川さんのことを、ずっと冷たい人だとか、突き放されているんだと思っていました。面と向かうとドキドキして、うまく話せなくて、だから必要最低限のコミュニケーションだけを取ろうとしていました。」
突然変な話をしだした自覚はある。
でも氷川さんは、何も言わずに聞いている。
「それなのに、最後の最後で甘えていました。氷川さんが最後に見てくれるから大丈夫、とりあえず確認に回せばいいって。」
言葉にするほど、胸の奥が痛む。
「そんな私の甘えが原因で、謝罪に行かせてしまったこと。そして、吉田さんの矢面に立たせてしまったこと、本当に申し訳ありませんでした。」
一度、息を整えてから続ける。
「それでも、氷川さんは私を責めることなく、どう再発防止を考えるべきかを伝えてくれて……。あのときは余裕がなくて、きちんと受け取れなかったんですが、改めて、ありがとうございました。」
席を立ち、改めて頭を下げた。
言い切った。
心臓がバクバク言っている。うまく伝えられたのか分からない。
氷川さんはすぐには答えず、少しだけ考えるように視線を落とす。
「とりあえず座ろっか。」
促され、静かに腰をおろした。
氷川さんの表情を窺うことができず、ずっと下を向いたままの私に
「……やっぱり、怖いと思われちゃってたか。」
意外なほど、素直な声が降ってきた。
「私、昔からこんな態度だから後輩に怖がられること、結構多いのよ。一応気にして、高圧的にならないようにって意識してたんだけど……逆に、そっけなくなりすぎちゃったね。ごめん。」
そう言った氷川さんの表情は困ったような、でも少し笑っているようにも見えた。
「ミスが出たときは、単純に謝罪しなきゃとか、周りに手を回さなきゃとか考えて…、結果的にかなりそっけなくなったのは反省してる。あの言い方は、さすがに冷たすぎたなって。」
それから、まっすぐこちらを見る。
「でも、佐藤さんのせいだって思ってないのは本心よ。誰だってミスはするし、それを防ぐためにダブルチェックをするのが先輩の役目。だから、私が責任を取るのは当たり前なの。」
その言葉に、胸の奥がじんわりと緩む。
「それにさ、」
氷川さんは、少しだけ口元を緩めて悪戯っぽい笑顔で告げた。こんな顔もできるんだ。
「佐藤さん、怖いとか、最低限のコミュニケーションとか言いながら……ちゃんと聞きに来るじゃん。」
「それは、仕事ですから」
そう返すと、氷川さんは小さく笑う。
「そう。そこ。任された仕事はきちんとやり遂げようって、そのためなら、苦手な人を頼ることもいとわない。その責任感、私はすごくいいと思ってる。」
少し照れたように、でもはっきりと言ってくれる。
「一緒に仕事をする人として、信頼できると思う。だから、ミスを責めるよりも……これを糧にして、前に進んでくれたら嬉しい。」
そう言って、笑った顔は、それはそれは優しい笑顔だった。
きつく見えがちな目元がわずかに和らぎ、その奥にある柔らかさが、今だけは隠されることなく滲んでいた。
張り詰めていたものが、ふっとほどけていくような、そんな温度を持った笑みが、胸の奥に引っかかっていた棘を、抜いてくれた気がした。
「それと……」
氷川さんは、少し言いにくそうに言葉を続けた。
「正直に言うと、あの言い方をしたせいで、佐藤さんがネイルしなくなるんじゃないかって……やっちゃったって思ってたんだよね。」
氷川さんの口から、ネイルという言葉が出てきて耳を疑う。
思わず「え?」と聞き返すと
「私、佐藤さんのネイルを見るの、好きなのよ。」
さらりと、思いもよらない言葉が続く。
「派手じゃない、繊細な絵がいつも描いてあって、きれいだなって思ってたの。私はネイルしないから、人のを見るのが好きなんだ。」
予想外の告白に、褒められているはずなのに、どう返せばいいのかわからず、ただぽかんと聞いていた。
「上品な感じだし、謝罪の場にふさわしくないとまでは思わなかったんだけど……、」
氷川さんは、少しだけ視線を外して続ける。
「あの日は吉田さんも一緒だったから。あの人余計なこと言いそうだなって思って。それに、大人数で謝罪に行く必要もなかったから佐藤さんには会社に残ってほしくてああ言ったんだけど……言い方、きつすぎたよね。ずっと気になってた。」
それから、私の左手にちらりと視線を向ける。
「でも今日、それが見えて……ほっとした。」
その一言で、ふっと力が抜けた。
「……実は、週末にネイルサロンで、結構悩みました。」
「だよね。」
苦笑いを向けられて、つられるようにこちらも頬が緩む。
「で、結局こうなりました。目立たないですけど、ちょっとだけお花を入れて、元気がでるように。」
おずおずと左手を差し出すと
「うん、いいと思う」
と言い切ってくれた。
それが何よりうれしかった。
私の踏み出した一歩は、確かに氷川さんに届いた。
明日から私は劇的に仕事ができるようになるわけじゃない。氷川さんと、ツーカーみたいに分かり合えたわけでもない。
それでも、確かに二人の間にあった壁は、少し薄くなった、気がする。
気がするだけなのかもしれない。でもそれでもいい。「立ち止まらなかった」自分を大事にしてみようと思ったから。
少し間があって、私はつい口を滑らせる。
「……というか、今回の件、私たちにも非はありますけど、」
「うん?」
「吉田さんも、最終チェックしてましたよね?」
氷川さんは一瞬だけ黙ってから、ふっと笑った。
「してたわね。」
「ですよね!?あの言い方だと、全部こっちの責任みたいで……。」
思わず、声が少し大きくなる。
それをきっかけに、押し込めていた不満が、少しだけ顔を出した。
自分の落ち度はきちんと認めつつ、それでも言いたいことは言って。
「それは、私も思ってた。」
二人で顔を見合わせる。
「いや、最終的に確認したの、あなたじゃない、って話よね。」
「ですよね!」
あそこまで言われたのが、思っていた以上に腹に溜まっていたらしい。
氷川さんが黙って聞いてくれるものだから、つい本音がこぼれてしまった。けれど、不思議と後味は悪くない。
むしろ、少しスカッとした。
最後に、氷川さんが言う。
「……まあ、次から気をつけましょう。さ、仕事戻ろう。」
「はい。頑張ります!」
会議室を出ると、月曜日のオフィスは相変わらず忙しなかった。
それでも、さっきよりずっと空気が軽かった。
薬指に咲いたガーベラに、視線を落とす。
——ちゃんと話せた。
それだけで、少しやっていけそうな気がした。




