第5話 佐藤はる⑤
「そうでしたか。」
中村さんは、それ以上踏み込んでこなかった。
ただ、小さく頷いただけだった。
それだけ。
会社の人はひどいと批判することもない。
「今どきネイルアートなんて当たり前ですよ」と自論を語ることもない。
まして、「私がどうしたいか」と答えを迫ってくることもなかった。
ただ、私の言葉をそのまま受け取って、そこに置いてくれた。
「私いつもネイルに元気もらっていたんです。自分の好きなデザインをした爪を見てテンション上げて、よし、頑張ろうって気持ちになれて。
社会人だし、TPOを守ることも大事だってわかるんですが・・・・ワンカラーかって。」
少し迷ってから、私はぽつりと口を開いた。
私の言葉を遮らずに聞いたあと、中村さんは一拍置いてから、静かに問いかけた。
「ちなみに……会社としては、ワンカラー以外はNG、という決まりがあるんですか?」
「いえ、そこまで明確なルールがあるわけじゃなくて……」
そう答えた瞬間、このあいだのやり取りが頭をよぎる。
——そんなチャラチャラした爪してる暇があったら…―
「仕事でミスをしたときに同じ部署の先輩に言われちゃって、爪に気を使ってないで仕事覚えなさいって‥。」
そこまで言って、喉の奥が少し詰まった。
中村さんは「そうですか」と小さく頷く。
「会社のルールというより、その人の価値観、という感じですね」
断定でも、擁護でもない言い方だった。
けれど、胸の奥に絡まっていたものが、ほんの少し整理された気がした。
入社して、ずっと考えて、でも力が足りなくて、頭の中ぐちゃぐちゃになって、きついこと言われたときに、きっと私は考えることを放棄したのかもしれない。
絡まった思考が少しだけほどけた気がする。
中村さんは、少し考えるように視線を落として、
「その方お一人の意見だったら……正直、そこまで気にしなくてもいいのかな、とは思います。」
少し慰めるように、でも重くはならずに中村さん自身の感覚を、そのままの言葉で言ってくれた。
けれど、その一言に、私は小さく首を振ってしまう。
「……そのミスで迷惑をかけた私の面倒を見てくれている別の先輩にも言われてしまって・・。いつも私の質問にも丁寧に答えてくれる先輩で、ズバッと言われるから怖いところもあるのですが、配属からずっと面倒見てくれてて。
私のミスで先方に謝りに行くことになったのに、爪のことで連れていけないって言われてしまったんです。」
思い出しては申し訳なさにいたたまれない。ただでさえ忙しい氷川さんに謝罪に向かわせてしまった。きっとその時にも吉田さんに私のことを言われたはずだ。
「…その方は、どんな人ですか?」
ふと、そんなことを聞かれた。それは探るというより、輪郭をなぞるような聞き方だった。
「仕事はできて、指摘も的確で……。優しいわけじゃないけど、ちゃんと見てはくれている人…だと思います。」
一緒に働き始めて、まだひと月ほど。
それなのに、自分の中にあった氷川さんの輪郭を、初めて言葉にできた気がした。
口にしながら、少し意外に思う。
氷川さんのことを、私はそんなふうに捉えていたのだと。
中村さんは小さく頷く。
「それなら……その方、そんなに冷たい方じゃない気がします。」
私が顔を上げると、中村さんは続けた。
「本当に突き放す人って、何も言わないんですよ。期待もしないし、見ようともしない。」
まるでそういう人を知っているかのような、今までの会話の中で初めて断定的な言い方をされた気がした。
「だから、もし気になっているとしたら……その方の言葉と、最初に話に出た方の言葉の意味が、佐藤さまの中で一緒になってしまっているのかもしれませんね。」
その言葉を聞いて、私は黙り込んだ。
氷川さんの顔が、頭の中に浮かぶ。
冷たい言い方はするけど、決して言っている内容はひどいことではなかった。
ただ淡々としていて、距離感があって、感情を交えない人。
それを、私は「突き放されている」と思い込んでいただけなのかもしれない。
吉田さんの強い言葉と、氷川さんの静かな視線。
まったく違うはずなのに、同じ「否定」として受け取っていたのは、たぶん、余裕がなかったからだ。
そこまで考えたところで――
「でしたら…」
と中村さんが声をかけてくれた。
今までの会話で暗く重くなっていた空気を吹き飛ばすような爽やかな声だ。
「今日はこちらのピンクベージュはいかがでしょうか。佐藤さまの肌の色と相性が良くて、爪がきれいに見えますよ。
そして、1つの指にだけワンポイントを入れませんか?
もちろん目立つものではなく、例えばこういう線だけで描いた花びらなどをさりげなく入れるイメージです。」
タブレットを操作しながら見せてくれたのは、上品なゴールドで輪郭だけが描かれた花びらだった。
「これはガーベラですか?」
「はい。ガーベラの花言葉は「希望、常に前進、挑戦」ですからピッタリかと。描こうとすると、ガーベラは花びらの枚数が多いので、ある程度大きくなってしまうのですが、シールでも大丈夫でしたらこちらを根元に少し散りばめて、目立たない程度にラメを散らすのはどうでしょうか。」
そういって見せてくれたシールは落ち着いた色合いの、かなり小さいガーベラの輪郭がゴールドで描かれたシールだった。
(これなら確かに目立たなそう。)
小さなシールを、まじまじと見つめて考える。
利き手と逆なら、仕事中に他人の目に入ることもそう多くはないだろう。
それにやっぱり、ネイルをするなら自分の気持ちが少しでも上がるものがいい。
中村さんとの会話で、心に絡まっていたものの解き方が少しだけ見えてきた気がした。
月曜日、氷川さんと話してみたい。
謝るだけじゃない。
今回の件で自分がどう感じたのか、そしてこれからどうしていきたいのか。
私はいつも氷川さんを前にするとおどおどしてしまって、自分を出すことができなかった。そのくせ、氷川さんは私のことを分かってくれない、冷たい人だと決めつけて、心を閉ざしていた。自分勝手もいいところだ。
仕事の確認だけじゃなく、その時どう思ったのか、自分自身の気持ちを、もっと伝えるべきだったのかもしれない。
そこまで考えたところで、自然と言葉が口をついた。
「では、左手の薬指だけ、ガーベラのワンポイントを入れてください」
きっとこれが、勇気を出すための小さなおまじないになる。




