第24話 月に住むウサギもひらひらするものが気になったりするでしょうか
城を出てダリル殿下の屋敷へ帰ると、それぞれに部屋へ戻って湯浴みなど一日を終えるための支度をしました。
支度をしたからと言ってすぐに眠れるわけでもなく、お水を片手に寛ぎながら窓から夜空を眺めます。
耳にはまだ、ネイト殿下の声がこびりついていました。それにあの目……価値をはかるようなじっとりした品のない目が、今もまだどこかで見ているような気がして気持ち悪い。
何より、そんなふうに観察されたのだという事実をダリル殿下が知ってしまったことに、私はどう向き合ったらいいのかわからなくて。
「って、あとはもう国に帰るだけなのに何を考えてるのかしら」
自虐のような響きを孕んだ呟きがこぼれました。
心配しなくてももう会うことはないでしょう。今後、私は社交から遠のくし仕事一筋で生きていくだけですもの。隣の国の皇子様とは住む世界も大きく変わるんですから、今回のことは面白い経験だったと思って――。
ぷるぷると頭を振って切ない気持ちを隅っこのほうに追いやったところで、ノックの音が響きました。
やって来たのはダリル殿下です。いつになく気遣わし気な瞳はやっぱりよそよそしいのですけど、そんなのは知らない振りで。窓辺のテーブルにグラスを置いて夜空を指さします。
「ダリル殿下、見てください。世界のどこかではあのまん丸の月にウサギが住んでるって伝説があるらしいんですよー、知ってます? あはは、ほんとかなー」
「……知らない。てかアンタやっぱ飲みすぎだろ、なんであんな飲んだ?」
「えーそんなことないですよ、お水もいただいたし」
ゆっくりと様子を窺いながらダリル殿下がこちらへやって来ました。隣に立って小さなテーブルに書類を並べていきます。それが国境を越えるのに必要な書類……例えば私の身分を保証するものや、イスター王国の国王陛下へ宛てた書状といったものであることはすぐにわかりました。
わかりましたが、わからない振りをしてまた月を見上げます。
「月に帰るにはどうしたらいいのかなー」
「ミミルが帰るのは月じゃないだろ。それとも月に帰りたいとか?」
「冗談ですよぉ。月にウサギなんていないし!」
振り返ってあははと笑って見せましたが、ダリル殿下は視線を僅かに下げて呆れたみたいにスンと鼻を鳴らします。んもーそんなに早く帰ってほしいのかしら、なんてちょっと拗ねた気持ちがむくむくと湧いてきましたが、相手は高貴なる皇子殿下であることを忘れないようにしないといけませんね。もうすぐ無関係の人になるんだから。
ダリル殿下は広げた書類を一枚一枚指さして、タイトルや重要な文言を指でなぞりながら説明してくれました。
「これがミミルの身分を保証するもので……ラバッハ家に確認を取るまでもなく帝国がミミルという人物を後見するという証明書。いちいち確認のために国境で足止めされないようにってことだな。んでこっちのが――」
誘拐された私には身分を証明するものがありませんからね、国境を越えるためには確かに必要になるでしょう。
しかしですね、そんなことよりも。私は今、殿下の指が気になって仕方ありません。倉庫に泥棒に入る前夜に間取りの説明をしてもらったときと同様、ひらひらと舞う彼の手が蝶みたいに見えるんです。気になるものがあるとつい突っついてしまうというバニール族の宿命に、今夜の私ももちろん抗えず。
ごつごつしているのに、どこか色香を感じさせるその手に指を伸ばして……ハッと我に返って手を引っ込めました。危ないところでした。以前も華麗に躱されて恥ずかしい思いをしたものですが、今回もし避けられたら立ち直れなくなっちゃう。
何気ないふうを装ってグラスへ手を伸ばしたら。
「ふぁっ」
ダリル殿下がその手を掴みました。驚きのあまり変な声が出ちゃった。
「なあ、なんかずっと様子がおかしいけど、どうした?」
「はい? え、そうですか?」
「無理して笑ってるし、違うこと考えてるっつーか心ここにあらずっつーか」
手を掴まれたまま視線を上げると、細められた彼の瞳に微かに剣吞な色が刺していました。何かに怒ってるのに、何に怒ってるのかわかりません。よそよそしくしてたのは殿下のほうなのに、急になんなの?
「ちょ、離してください。触らないで」
私の言葉にダリル殿下の瞳がカッと見開かれました。息を呑む間にも掴まれた手の指に彼の指が絡んで、顔の横まで持ち上げられながら窓に縫い留められたのです。
すっかり自由を奪われた右手に力は入らなくて、左手で彼の肩を押してみたもののびくともしません。
「俺はもう、アンタに何かあったら正気じゃいられない」
「え……?」
絞り出したような掠れた声には、どこか縋るような空気がありました。
「あのバカを止められなくて不甲斐なくて悔しくて、どんな顔をすればいいかわかんなかった。触れたらミミルが壊れるような気がして近づくのも怖かった」
「ダリル殿下、一体何を」
そんな、だって、それじゃまるで。
「何がアンタに無理させてる? 何がアンタの顔を曇らせてるのか、教えてくれよ」
やだな、何か勘違いしちゃいそうになるじゃないですか。
自嘲めいた笑みを浮かべ、首を横に振りました。
「何もないです。私のことなんかお気に――」
「『なんか』じゃないだろ。いいか、俺は最初から知ってる。アンタの腹に黒子がふたつあることなんかとっくに知ってるんだ!」
「え」
「綺麗な肌も、足に小っせぇ古い傷があるのも、初めて会った時から知ってた。だからアイツの言葉なんかに傷つくな。あのバカにミミルの尊厳を傷つけさせるな!」
私は言葉を失い、左手もまた脱力してだらりと落ちました。ダリル殿下の右手が私の頬を撫で、親指が目尻を拭います。
「ミミルのことはこれから俺がちゃんと守る。どんな悪意からもちゃんと守るから、だから今回も協力してくれ。アンタの誇りは傷つけられてないんだって、俺の言葉を信じてほしい」
真っ直ぐに見つめる彼の瞳は、水面に映る月みたいに僅かに揺れていました。言葉の端々から彼の誠実さが伝わって、でも私は伝えるべき言葉も涙を止める方法も見つからなくて。
どうにか頷くと、彼は控えめに私の頭を撫でました。そして私たちはどちらからともなく唇を重ねたのです。




