ざわめき
「えっ、それ本当!? 今から向かうよー!!」
澪と歩美が同棲して、数週間が経過していた。
お世辞にも順風漫歩とは言い難いのだが、それでも、二人の間にはそれなりのものが築きあげられている。
例えば――だ。
炊事や洗濯、掃除の役割分担。
どちらかが料理をしている最中には、一方が洗濯物を取り入れたり、風呂やトイレを掃除する。
澪がシフト制の勤務であることから、弁当を作る週というのも決めていた。
その他には、大きな地震や病気があった時の対応。
澪が3.11の被災地出身ということもあるのかもしれないのだが。
急に距離を縮めるということは難しいかもしれないが、少しずつ妥協するところも見つけていくことができている。
歩美はそんな日々を過ごしながら祖母の見舞いへと足を運んでいた。
一日でも早く、よくなりますように、と。
澪も、そんな歩美を陰ながら応援しつつ、途中までというのは癪だからと大型自動二輪の免許をさっさと取得。
今日は、久しぶりに二人の休日が重なった日でもある。
のんびりと過ごそうか、それとも――澪の大型二輪取得の簡単なお祝いをしようかという話をしている時だったのだ。
「澪、あのね、高校の友達が、旦那に浮気されちゃって凹んでるんだけど、ちょっと出てきていい?」
またか――澪は思う。
一緒に住んで分かったことなのだが、とにかく歩美は人が良い。
というよりも、困っている友人は放っておけないというタチなのだろうか。
「そうなの? それは大変だね」
「うん。ちょっと話聞いてあげたいからさ、八王子まで迎えに行ってくるね」
迎え、ということはつまりそういうことである。
「避難所は有効活用してくださいって、伝えておいて」
「そんなこといってー、私の友達襲わないでよ」
フルフェイスのヘルメットを持ち上げながら、歩美は玄関のドアノブに手をかけて振り向き――
「あ、無理か。澪はチキンだもんねー!」
――小悪魔のように微笑んだ。
「うるさい。夕方だし、あまり遅くならないようにね」
「うんっ!」
「歩美」
「何っ?」
「気をつけて」
「うん、行ってくる!」
赤いバイクは、重苦しい音を奏でながら走り去っていく。
その背中を見送る澪は、何故かいてもたってもいられない不安が出て来ていた。
右手が妙に震える。
3.11の時にも似たようなことがあったのだ。
そう、あの日にも似た感覚があった。
それがどうして、今更になってと澪は思う。
気のせいだ。
単なる不安から来てるだけだ。
そう言い聞かせるのだが、どうしても右手の震えは止まらなかった。
* * *
澪のアパートから少し離れた道路で、赤いフェラーリが止まっている。
フェラーリと呼ばれる最高級の車両である。
スーパーカーとも呼ばれるそのフォルムは、車好きにとっては気になるものだろう。
その車が止まる歩道側に、小さな男の子が大人に絡まれているのを歩美は見つけた。
あれって、司君?
歩美は、近隣住人との交流は深くなっており、マンションの人達とも仲良くなっていたのだ。
自分を慕ってくれている子供の一人でもある。
そんな子供が、大人に蹴られた。
放っておけるはずも、ない。
「ちょっと! 子供に何やってんのよ!?」
歩美はバイクを止め、怒鳴り散らした。
「あぁ。ちょっと教育してやってんだよ」
「それどう見ても暴力よっ!!」
駆け足で近寄った歩美は膝を折り、司君の体を支えた。
怖かっただろう。
痛かっただろう。
その体は、小刻みに震えている。
震えながら、蹴られたおなかを押さえていた。
「司君、大丈夫? 立てる?」
「……うん」
「良かった。司君は、早くおうちに帰って。気をつけてかえるんだぞぉ」
心配をかけぬように、だろう。
歩美はにっこりと、上に弧を描くように口を上げて笑うのだ。
「おねーちゃん、は?」
「おねーちゃんは平気! お家で待っててね、この最低のクソ男ぶっ飛ばして、あとでお茶のみにいくから!!」
少しだけ、少しだけ走って――
「おねーちゃん?」
――振り向いた司君に、歩美は「ほら、早く行って」と囁くように、穏やかなまま告げると、司君は小さな手と足を振り上げて走っていった。
「――チッ」
男の舌打ちに、歩美は目を細める。
こんな男に比べて、澪はなんて良い人だろう。
子供にも優しくて、人の痛みを知っていて、分かろうとしてくれる。
やさしいけど、勢いがある時には雄々しくて。
これが、浩二君が言ってたギャップ萌えっていうのかな?
私、こんな時に何考えてるんだろ。
小さく微笑んだ歩美の頬は、次に発した男の一言で引き攣ることとなるのだった。
「クソガキに傷つけられた車の修理費、ふんだくってやろうと思ったのにな」
このゲス男が――!!
歩美は胸に怒りを迸らせながらも冷静なまま、状況を判断する。
「激しい傷あるわけでもないし、なーんとなく察したんだけど」
車の横に転がるボールが一つ。
そう、その程度のことだろうと察した。
「どーせボールぶつかったとかそんなもんでしょ?」
横目にボールへと目を向けた歩美は、そのまま車の素へと近づいていき
「じゃあ、これで司君の分はなしだねー!!」
踵で思いっきり蹴りつけた。
「てっめえ! ぼっこぼこにしてレイプしてやる!!」
「やれるもんならやってみなさいよ!!」
歩美は、自慢のバイクに乗り込んで走り出したのだった。
* * *
「ダメだ……やっぱり気になる」
澪の悪寒は止まらなかった。
相変わらず、右手は震えたままなのだ。
心配だ――追いかけよう。
適当にあしらった服を羽織り、ドアを出る。
と、丁度家が車で自宅に入るところだった。
タイミング、良すぎだよ。大家さん。
澪はそう思いながら声をかけた。
「こんばんは、大家さん。その……車、ちょっとお借りしてもいいですか?」
* * *
八王子方面に車を走らせていると、警察と救急車が通っていく。
事故でもあったのかな。いや、まさかな。
こんな馬鹿げた、ドラマみたいなことがあってたまるわけ、ないよな。
思い過ごしのはずだ。多分そうだ。
澪は自分にそう言い聞かせて、車を走らせる。
先に見えてきた警察と救急車の車両は、二車線ある一方を閉鎖して片側のみの通行にしていた。
奥には、バイクが見える。
「転んだ、のかな?」
横を通り過ぎて、チラッと見える。
見えるのは、赤いバイク。
赤いバイクのZ1000MkⅡ
「えっ?」
通り過ぎてから、澪は車を止めた。
車を止めて、近寄っていた。
吸い込まれるように。
「君、止まりなさい!」
警察官の静止にされながら、バイクのナンバーが見えてしまった。
見慣れた番号だ。
何度も何度も見た番号だ。
忘れるはずもない。
「す、すいません。そのバイクとナンバー……」
「知り合いかい?」
「多分」
奥には、シートを被せらた何かがそこにある。
「なら、見ないほうがいい」
その警察官は、苦虫でも噛むように言うのだ。
それでも――澪は、
「確認、させてください!!」
その警察官の両肩を掴む。
確かめなければならない。
冗談であって欲しい。
何かの間違いのはずだ。
こんなこと起こりえるはずがない。
だから、その証明のために確認したかったのだ。
歩美なわけがない――と。
「ダメだ。ご家族以外には見せられない」
「なら、教えてください……その人は、女性で間違いないですか?」
澪は再び、シートを視界に入れた。
間違いであってほしいと澪は望んだ。
警察か、検察か。
どちらかは知らないが、その者がわずかにシートを捲る瞬間をとらえてしまった。
少しだけ、本当に少しだけ布がめくれる。
そこから澪の目に移ってしまったものは、左手。
その左手にあるのは――ブレスレット。
澪が、歩美に渡したブレスレット、だった。
「あっっっ、あ、うあ」
澪の膝が――崩れる。
考えもまとまらなくなった。
世界の何もかもが、壊れたかのように。
「あーーーーーーーーーーーーーー!!」
プツン――澪は、自分の中で何かが途切れたのを感じ取っていた。
感じ取りながら獣のように叫んだ。
歯を剥き出しにして、目を見開き、
「相手は、相手はどこの誰だよっ!?」
食って掛かるように警察官の肩を揺らす。
「今、警察が捜査中だ」
「落ち着け、落ち着くんだ! 君!!」
複数の警察官がやってきて、その一人に羽交い絞めされても澪は体を揺らし抵抗した。
「取り押さえろ!!早く!!」
誰が叫んだのか分からない指示のもとに、澪はアスファルトに押さえつけられ、それでも尚、その目には怒りが宿っている。
「殺す――ぜってー、殺す!! どけっ!邪魔すんなっ!! 離せ! 離せよ!!」
「今、君が暴れて、彼女が喜ぶと思うのかい?」
初老の警察官が、澪の前に立って声をかけた。
「誰だよ、あんた」
「君は、彼女の――歩美ちゃんの、知り合いか?」
「国木田さん!」
警察官の一人が、静止すべきだというようにして名前を呼ぶのだが、その人物は止まらなかった。
「うるさい。そうなのか?」
澪は、怒りを露わにしたまま何とか頷く。
頷くしかできない。
「ヘルメットをしていたから、顔は無傷だけどね、残念だが、君は家族じゃない。ここから先は、見せるわけには行かない。何より、ただの自滅事故なのか、それとも別の事故なのか分からないじゃないか」
正論だ。
正論過ぎるのだ。
少しだけ、本当に少しだけ理性を取り戻した澪は、確かにそうだと思う。
思うのだが――納得はできない。
「歩美は、運転がうまかった!」
食ってかかるようにして老いた警察官に言葉をぶつける。
ぶつけるのだが――
「運転が上手い人はどこにでもいる。一先ず、今日は帰りなさい。ここから先は、僕らの仕事だ」
国木田と呼ばれた男が穏やかに「離してやれ」というと、澪の拘束は解かれた。
「歩美ちゃんを小さい頃から見知っているよ。私も縁があった人間の一人だ。彼女は、人の闇。そういった世界に足を踏み入れながらにして、紛れもなく人だったよ。日を浴びながら、影で何をしているのか分からない奴らに比べ、彼女はなんて、なんて綺麗だっただろうね」
背を向けながら、国木田は語る。
聞き分けのない子供に諭すような声色で。
「あんな親父の下で生まれなければ、こうなることもなかったんじゃないかと、そう思うさ」
澪は、この一言で察した。
歩美という女性を、真っ向から見ていた人物の一人であると。
「これがもし、誰かの仕業だというのなら……犯人は、私が全力を持って捕まえる。法の下で、容赦もなく裁いてみせる。だから、私を信じてくれ!!」
「――――――クソがっぁぁ!!」
澪は泣きながら――地面に拳を叩きつけたのだった。




