13
「ねえ、イズミ覚えてる」
「何を」
「初めて携帯のアドレス交換したとき」
「とりあえず寒かったよな」
「うん」
三月の上旬、天気の良い平日の午後に僕たちは僕のアパートの近くの公園で、ブランコにならんで座ってそんなことを話していた。昼過ぎの公園にはまだ子どもたちの姿はなく、僕とイズミだけだった。傍からみたらどんな風に見えるのかわからないけれど、ひさしぶりに二人でゆっくり過ごしているのは少し楽しかった。休みが不定期な僕のためにたまにイズミは有給をとってくれる。だからといって、どこに行くというわけでもないのだけれど、昨日はイズミがうちに泊まって、昼過ぎにおきてさっき近くのスーパーで夕飯の材料を買ってきた。イズミが食べたいというので、和風のロールキャベツを作ることにする。寄り道をしようか、などと彼が言うので付いていったらなんのことはない、アパート近くの小さな公園だった。誰もいない公園は、さして大きくもないのにがらんとしていて遊具が置き忘れたかのように存在している。ブランコに乗ろうか、といってエコバッグを傍におき、二人で並んでブランコに乗った。不気味に軋む鎖がそれでもちょっと可笑しくて、スーパーで買ったカフェラテを飲みながらゆっくり前後に漕いでいた。
晴れ上がった空はどこか薄い色をしていて、冬と春の間の空気は冷たいのにどこかほっとする匂いがする。雲も薄く延びていて、その向こう側の空の色もふわりと透けていた。ふと、学校帰りの子どもたちか、公園の周りにある生垣の向こうに黄色い帽子がヒヨコみたいにいくつも動いているのが見えた。きゃあ、と、高い声が響いて空に吸い込まれていく。僕とイズミは顔を見合わせてブランコから立ち上がる。エコバッグはイズミがもってくれて、二人で公園を後にした。すれ違いで五、六人の子どもたちが楽しげに走ってきた。何人かは僕とイズミをちらりと見たがそれだけで、意識は公園の遊具に集中しているようだった。イズミがクスっと笑う。
「なんで、あれぐらいのときって、公園がすごい楽しいんだろうな。ハルってあんま公園で遊ばなかったろ」
「そうだね……誘われたりしたけど、なんかさ、弘子がちょうどあのぐらいのときに生まれて、すごい可愛かったから弘子の面倒ばっかみてたかも」
「はは、そっか。弘子ちゃん、かわいいもんね。昔もかわいかったんだろ」
「そういえば、この間弘子がメールで、彼氏ができたって言って」
「ええ、なんか悔しいな」
そんなことをぶつくさ言って、僕らは帰り道につく。公園の近くには図書館があって、ラウンジがガラス張りになっているので中で本を読む人の姿が見える。みな穏やかな顔をして雑誌だったり新聞だったりをめくっている。早春の光を浴びて、ガラスが柔らかく光っていた。僕は横目でそれを見ながら、イズミの声に耳を傾けている。聞いたり聞かなかったり、話題はぽつりぽつりと変わって途切れて、また続く。飲みかけのカフェラテ片手に、僕らはゆっくりゆっくりアパートに向った。
「いただきます」
できあがったのはロールキャベツと、アンチョビのミニパスタと、タマゴとシイタケとほうれん草のスープ。宮下さんが海外に行ったときにお土産でくれたアンチョビはすごくおいしくて、最近僕の中でアンチョビがブームだ。イズミはそんなに好きじゃないらしいけれど、おいしいといってニコニコと食べてくれる。料理のしがいがあるよ、というと彼は本当においしいよ、と言うのだった、買ってきたバゲットも焼いて少し豪華な食事にした。ビールで乾杯。明日はお互い仕事だから少し小さなグラスで。最近はテレビをつけないでご飯を食べるようになった。
「……親父さんの体調はどう?」
「うん、一昨日行ったときは全然元気だったよ」
「そっか。よかった。手術もうすぐだろう」
「まあでも、なるようにしか、ならないだろうし本人も母さんも落ち着いてるから。大丈夫だよ」
「ならいいね」
イズミはロールキャベツを一口食べて、おいしい、と笑った。僕も一口。母さんの味には遠いけれど、まあまあのできだと思う。
父さんが入院したのは、僕が正月休みで実家に泊まってからすぐのことだった。
甲斐田と飲みに行った日に僕の部屋にやってきた父は、しばらく間をおいてから、胃がんが見つかったのだと切り出した。「がん」という響きに一瞬にして絶望的になった僕とは反対に、父さんは淡々と今の自分の病状を話しはじめた。悪性か良性かは実際見てみないとわからず、とはいえそんなに大きくもないから大丈夫だという。だから僕を家に呼んだの、と尋ねると父さんは少し困ったような顔になって、
「きっかけにはなったな」
といった。一月の終わりか二月の上旬には入院して手術をするのだという。お見舞いに行くよ、というと、大丈夫だ、といつものあの無口な感じで父さんはつぶやくと部屋を出て行った。
結局、父さんのがんは悪性で、少しだけだが転移も見られるといって入院が長引いてしまった。手遅れということは決してなくて、転移のがんも一度の手術ですべて除去できるという。それでも三月まで入院が長引いてしまったのは、入院中に父さんが風邪を引いたりしたからで、とはいえ本人は元気だ。このことがきっかけで僕はよく実家に帰るようにもなった。母さんや弘子とも過ごす時間が増えて、よかったようにも思う。バレンタインには弘子が、僕とイズミにチョコレートを暮れた。ホワイトデーには何かお返しをしなくては、と考えている。あまり得意ではないけれど犬養くんに教わってなにかお菓子でも作ろうかとも考えている。そんなことも、イズミに話した。
「一度なじんだらさ、結構楽だったりするよな、家族って」
「……どうかな、まだ引け目があったりはするけれど」
「うん……でもほら……家族っていいよ」
「うん……」
イズミが優しいまなざしで僕を見ている。僕も彼を見つめ返した。
彼と付き合い始めて、いろんなことがあった。僕は満たされていたし満たされていないときもあったし、そういう全てが今思えばいとおしく思う。今もそうだ。まだ胸のつかえがおりたとはいえない。けれど、たとえば彼とこうして過ごす時間、化粧品を見る時間、料理をつくること、職場で働くこと、弘子の髪の毛を結んでやること、犬養くんとくだらない話をする、宮下さんと目が合う、甲斐田からのメールを読む、母さんに電話をする、父さんのお見舞いに行く、近くの公園でブランコにのったり、イズミとご飯を食べたり、キスをしたりセックスをして、そうしてかすかに絶望感に打ちひしがれたり、すぐに幸せを感じたり、そういうものたち。きっと覚えてもいないようなことども。
僕は男の人が好きで、ゲイで、それでも、生きていくことができる。誰かを好きになり愛して、誰かから愛されることもできる。結婚という形に近づくことはできないし、自分の家庭を持つことだってほぼ不可能に近い。けれども、今は。それでも。
イズミは黙ったままだったけれど、僕の方に手を伸ばしてくる。そして僕の頬に手を触れた。今日は珍しく化粧をしていなくて、そのままの肌にそのままの指が触れる。あの日、はじめてイズミが僕に触れた日のように、彼は優しく温もりを持ったまま、僕に触れた。
「ハル……」
指先からは、彼のボディミストの匂いがやっぱりする。この匂いは好きだ。けれど。
「イズミ、別れようか」
「ハル?」
イズミは立ち上がって、僕の傍に来た。その瞳は驚いているのか他に何かを考えているのか、わからないけれど見開かれて僕を見ている。
「ねえ……僕、わかってるよ。イズミ……他に付き合っている人いるでしょう。知ってるよ」
「ハル」
「浮気だって、思うつもりはないよ。だってイズミ、僕のこと一番に考えてくれてたし、優しかった。イズミはいつも、僕に優しかったよ」
バーのバイトをしていたころ、毛利さんが一人できたことがある。その頃はよくイズミと一緒に来ることが多かったので一人なのは珍しかった。
「今日はお一人なんですね」
そう言うと、毛利さは力なく笑って少し泣きそうになった。
「ちょっとケンカしちゃってね」
「イズミくんと?」
「うん、そう」
その言い方で、彼女とイズミがそういう関係にあることは察していた。とはいえ私情には深く入り込める立場でもないのでそれ以上は問わないでおいた。
それから僕とイズミは付き合い始めたけれど、毛利さんとどうなったかは聞けずに日がすぎていき、僕の中でそれはだんだん影を薄くしていった。そんな、ある日だった。
「ハルくん?」
その日、ホールスタッフが少なくて僕もホールを少し手伝っていたとき、聞き覚えのある声に振り向いた。少し痩せたような、それでもまた若くなったように見える毛利さんがテーブルについていたのだ。お昼の忙しい時間帯を少し過ぎた頃で、ゆっくりと話はできなかったけれど、テーブルに料理を運ぶたびに彼女はニコニコとこっちに手を振った。女友達ときていたようで、楽しげにランチをしていた。
「今日はびっくりしたよ」
お会計に立つと、彼女は人懐こく笑う。おひさしぶりです、と改めて言うと彼女はこちらこそ、とまた笑った。
「イズミから、海外に行ってるって聞いてたから」
「うん、でも三ヶ月ぐらいだったの。でもまさかここでハルくんが働いてるとは思わなかったよ。またくるね」
「ええ、ありがとうございました」
そういってドアを開けると、彼女とその友達は軽い足取りで出て行く。そのときふわりと、かいだことのある匂いがした。イズミと同じ、ボディミストの匂い。きっとまだ付き合っているのだろう、という気持が一段と強くなる。けれど、イズミは週の殆どを僕のところにやってくるし、相変わらず優しい。僕の杞憂なのかもしれないと思ってもいた。けれど彼が買ってきてくれる化粧品は、きまってシーズンの新しいものばかりだったけれど、そういうところにツテがなければ早々手には入らないだろうこともうすうす思っていた。おせちの黒豆をくれたときも、以前何度かイズミが持ってきたイズミの母さんの料理の味付けとはまるっきりちがっていたから、他の人が作ったのではないかとも思っていた。それと、だから毛利さんとイズミが付き合っていると言う根拠にはならないし、イズミがもし別に誰かと付き合っていなかったとしても、僕はもう、別れる気でいた。
「イズミ、ごめんね」
「ハル」
「イズミは、ほんとうにいつも、僕に優しくて、僕は何度も何度も……イズミに助けられて、本当に大好きだよ。愛してる、って、こういうことをいうんだろうって、思う」
「ハル……違うよ、俺は」
「いいんだ、ねえ、イズミにはイズミの、幸せがあると思うんだ。僕にこんなに優しくしてくれて、ありがとう。イズミの幸せを、僕も、見つけたいよ」
初めて、きっと、初めて、僕はイズミの涙を見た。彼は両手で僕の頬を優しく包み込み、静かにキスをしてくれた。そして抱きしめられる。僕も彼を抱きしめる。
きっと、どんな風にしていても僕とイズミは別れていただろうと思う。彼は女性を愛することもできるし、それがきっと一番いい。僕は家族をもてないけれど、イズミが持てるというのなら、幸せな家族をもってほしい。それが、奥さんが毛利さんなら、なおさらいい家庭になるにきまってる。子どもはきっと、二人がいい。年が離れてても近くても、きっと、仲の良い子どもたちになる。僕はそうしたら、たまにお邪魔して、フルコースをつくってあげたい。家族団欒の中、僕は一歩おいて、静かに彼らを見つめていたい。その頃には僕にもあたらしいパートナーがいたら、いい。同じように悩み同じように物を見て、同じよう笑える人が。化粧を少しでも、ほめてくれる人がいい。そういう人に出会いたい。
バスから見える風景や、そこに生きている人や、そうして僕たちのことを、真剣に話せる、人が。イズミみたいに優しくて、イズミよりも少し厳しくて、でも、愛おしいと思える人が。
その日、イズミは今までで一番丁寧に優しくそして強引に僕を抱いてくれた。
僕たちは遅くまで、眠気を忘れて話し続けた。イズミのこと、僕のこと。そして、どうでもよいこと。イズミは毛利さんとまだ付き合っているのだといった。僕は静かに聴いている。イズミが大学を卒業して働き始めてからばったり毛利さんと会って、ご飯を食べるようににあって付き合い始めたのだと。彼女はイズミがバイセクシュアルだということも知っていて、僕と付き合うときに別れてほしいとも頼んだという。彼女も別れを決意したようだけど、やはりできないといったそうだ。私もハルくんが好きだし、泉も好きなの。それじゃだめなの。そう言った二人の間にはいろんな約束があったみたいたけど、詳しくは聞かなかった。イズミは話してくれるといったけれど、大丈夫だよ、とだけ答える。
「イズミ」
「うん?」
彼の胸をゆっくり指でなぞった。もうきっと、触れることはなくなる肌に。
「本当に……ありがとう」
「ハル、俺は、本当に、ハルのことが好きだったよ」
「うん。僕も」
彼の胸に頬を寄せると、静かな心臓の音が僕の中にも伝わってきた。互いで互いを求めるのはもうこれで最後だと思うと、涙があふれそうになったけれど流れる前にどうにかこらえた。
「ハル、おはよう」
イズミの声がした気がした。でも、そんなことはない。一ヶ月。彼はもうこの部屋にはやってこない。たまにメールがくるけれど、僕が返すのは三回に一回。それでいい。
起きると、目覚ましの時間よりもまだ少し早くて、春先の淡い光に照らされた部屋はしっとりと朝を迎えようとしていた。いつのまにか日の出も早くなっていて、ほんのりあたためられた部屋は絵本の中みたいにも思える。僕はおおきく伸びをしてから起き上がり、目をつむって、もう一度思い出す。
「ハル、おはよう」
イズミの声を。彼の温度を。彼と過ごした日々を。
そうして僕が見つけた、ささやかな気持を。愛を。幸せを。
END
最初はただただ化粧をする男の人、というのが書きたいがために書いていたようなものでした。
そういうエロさみたいなもの、とか。表わしたいな、と思っていて。
けれど、書けば書くほどどんどん収拾の付かない方向になっていくので
どうしようとあわてたりもしていたのですがどうにか稚拙な形でもまとまってよかったと思います。
一人の人間がどうやったら成長していくんだろう、ということも書きたいと思っていたんですが、それがかけているかどうか、そんなこと問わずとも自分でもわかってはいるんですが……
「ゲイである」ということは、ハルにとってはたぶんコンプレックスで、
でも元彼にとってはコンプレックスでもなくってイズミにとっても「バイである」ということはコンプレックスでもなんでもなかった。
逆にイズミにとってコンプレックスはなんでも受け入れてしまうことだったり、そういう、こと。
私にとっても誰かにとってもコンプレックスはあるけれど、それを含めて自分を愛せたらいいし誰かに愛されたいとも思う。
そういうことを、「ハル」を書きながら、思っていました。
あとは、「良い人」が書きたいっていう、それだけ。いつもそれは思っているんですが。
まあ、長々言っても蛇足になってしまうのでこのぐらいにしておきます。