道標は嘘をつく
第2部 第19話 帰れない理由
「……食べないねえ」
マルタの声に、俺は小屋の入口へ身体を向けた。
軒下には、昨夜助けた白い狐がいる。
首輪を外し、傷の手当ても済ませた。水は少し飲めるようになったらしいが、今朝になって出された食事には、ほとんど口をつけていないという。
「まだ具合が悪いのか?」
ハルドが尋ねた。
「それもあるだろうけど、警戒しているんだろうね。人間に捕まっていたなら、無理もないよ」
マルタが答える。
「とにかく、無理に食べさせるのはよそう。水を飲めているなら、今はそれでいい」
俺は静かに聞いていた。
昨日、あの狐の首輪を外す手伝いをした。
細い触手を首と鉄の輪の間へ差し込み、刃物が直接触れないようにしただけだが、それでも少しは役に立てたと思う。
ただ、あのときは弱りきっていたから抵抗しなかっただけかもしれない。
今も俺たちを信用してくれているとは限らなかった。
「……ノア」
干し草の上から、ルナの声がした。
「気になるなら、少し近くへ行ってみるか?」
……いいのか?
俺は触手を持ち上げた。
「もちろん、無理に触れるなよ。我らが助けたからといって、あの狐が喜んで近づいてくるとは限らぬ」
それは分かっている。
俺はゆっくり肯定した。
すると、ルナが続けた。
「それから、我も入口まで連れていってくれぬか?」
……え?
俺は動きを止めた。
ルナの右後ろ脚は、まだ治療中だ。
以前より痺れは弱くなったらしいが、マルタからは体重をかけないよう言われている。
「……何だ、その反応は」
ルナが少し不満そうに言った。
「歩き回るつもりではない。入口まで移れれば十分だ」
……本当か?
「……ノア。貴様、我を何だと思っておる」
いや。
隙があれば立とうとする患者さんかな。
そんなことを考えていると、入口の外からマルタの声が飛んできた。
「ルナ! 移動するなら私がいるときにしな!」
「……聞こえておったか」
「聞こえるように言ってるんだろう?」
……ああ。
完全に読まれてる。
俺が身体を揺らすと、ルナは諦めたように息を吐いた。
「……まったく。どいつもこいつも」
そのあと、マルタに手伝ってもらいながら、ルナは入口近くへ移動した。
俺も負傷した脚が床へ引っかからないよう、短い触手で支える。
移動を終えたルナは、少しだけ疲れたようだった。
だが、その声には普段より張りがあった。
「……さて」
扉の向こうへ向き直り、静かに呼びかける。
「そこの白い狐。聞こえておるか?」
軒下で、何かが動いた。
……かさっ。
続いて、小さな鳴き声。
「……クゥ」
「我はルナリスという。貴様を傷つけるつもりはない」
返事はなかった。
もちろん、相手が人間の言葉を理解できるかどうかも分からない。
それでも、ルナは続けた。
「そこにいる妙な魔物はノアだ。見た目は少々変わっておるが、無闇に襲ったりはせぬ」
……少々?
そこは、もう少し言い方があるだろ。
俺が身体を揺らすと、ルナが楽しそうに笑った。
「ほれ。今も文句を言っておる」
……いや、実際に言ってますけどね。
すると。
「……クゥ?」
軒下から、小さな声が返ってきた。
ルナが動きを止める。
「……ほう」
その声には、少しだけ驚きが混じっていた。
「どうした?」
マルタが尋ねる。
「こちらへ顔を向けた。少なくとも、声には興味があるようだ」
……そうなのか。
俺は身体を持ち上げた。
それなら、少しは近づけるかもしれない。
⸻
「ノア。まずは、その辺りまでにしておきな」
マルタの指示で、俺は小屋の入口から少しだけ外へ出た。
白い狐の寝床までは、まだ距離がある。
俺は地面へ身体を密着させ、《微振動感知》で相手の動きを確かめた。
……すぅ。
……はぁ。
弱い呼吸。
布の上で小さく動く脚。
そして、俺が近づくと、その動きが止まった。
……警戒してるな。
俺はそれ以上進まなかった。
代わりに、マルタが置いた水の器へ触手を伸ばす。
「……何をするつもりだい?」
俺は器の縁へそっと触れた。
中には水が入っている。
倒さないように気をつけながら、少しだけ狐の方へ押した。
……ずずっ。
器が地面を滑る。
それ以上は近づけない。
俺は触手を引っ込め、少し後ろへ下がった。
しばらく、何も起こらなかった。
「……どうだ?」
ハルドが小さな声で尋ねる。
マルタが答える。
「まだ見ているね。ノアが離れたから、少しは落ち着いたみたいだけど」
……そうか。
俺はその場で待った。
……かさっ。
小さな振動が伝わる。
狐が動いた。
続いて、布から前脚を下ろす音。
……ぺた。
……ぺた。
ゆっくりと、水の器へ近づいている。
俺はできるだけ身体を動かさなかった。
そして。
……ぴちゃ。
水を舐める小さな音が聞こえた。
「……おお」
思わず身体を持ち上げそうになり、慌てて止める。
落ち着け。
今動いたら、また驚かせてしまう。
狐は何度か水を舐めたあと、寝床へ戻っていった。
「……飲めたね」
マルタが静かに言った。
「今は、それで十分だよ」
俺はゆっくり触手を持ち上げた。
よかった。
本当に、少しだけだけど。
俺たちを恐れるだけではなくなってきたのかもしれない。
⸻
「……ところで、ルナ」
ハルドが小屋の入口へ声をかけた。
「白毛の山狐について、もう少し教えてもらえないか?」
「構わぬ。何が知りたい?」
「人間の言葉を理解できるものなのか?」
……ああ。
俺も気になる。
ルナは少し考えてから答えた。
「基本的には、普通の獣に近い。だが、魔獣である以上、個体によっては高い知性を持つこともある」
……なるほど。
「ただし、人間の言葉を聞き分けられるからといって、会話ができるとは限らぬぞ」
「……そうか」
ハルドが小さく息を吐いた。
「この狐から何か聞ければと思ったんだがな」
……確かに。
あの檻に入っていたのなら、商人たちについて何か知っているかもしれない。
だが、言葉が通じなければ事情を聞くのは難しい。
「それと、もうひとつ」
ハルドが続ける。
「白毛の山狐は、群れで暮らすのか?」
「……群れ?」
ルナの声が少し変わった。
「常に大きな群れを作るわけではない。だが、近しい個体同士で行動することはある」
……近しい個体。
俺は少し考えた。
親子。
兄弟。
あるいは、つがい。
そういう関係があるのだろうか。
「……なるほど」
ハルドは何か考えているようだった。
「何か分かったのか?」
ルナが尋ねる。
「……いや」
短い沈黙。
それから、ハルドが言った。
「実は、捕まえたニールが今朝になって少し話した」
……お?
俺は身体を持ち上げた。
ついに、何か分かったのか。
「昨日、檻と首輪の話をしただろう。あれを聞いたあと、ニールの様子が変わってな」
「……何と?」
ルナの声が低くなる。
ハルドは少し間を置いた。
そして。
「……あの檻に入れられていた白い狐は、最初から1匹ではなかったそうだ」
「…………」
俺は動きを止めた。
……え?
1匹じゃない?
「何だと?」
ルナが低く尋ねる。
「ニールの話では、岩山で白い狐を2匹捕まえたらしい」
……2匹。
俺は頭の中で、その言葉を繰り返した。
「大きい方と、小さい方だ。どちらも白い毛をしていて、首輪をつけられていた」
……なるほど。
そういうことか。
だが、それなら。
「……もう1匹は?」
ルナが尋ねる。
ハルドはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、あまりいい話ではないのだと分かった。
やがて。
「……まだ、見つかっていない」
低い声が返ってきた。
⸻
「詳しく聞かせよ」
ルナの声が、いつになく真剣だった。
ハルドも、それに応じて説明を始めた。
ニールたちは、雇い主の指示で岩山へ向かった。
そこで白毛の山狐を2匹捕獲し、同じ檻へ入れたという。
ただし、首輪につけた鎖は別々だったらしい。
「……そのうちの1匹が、今ここにいる狐だと思う」
ハルドが続けた。
「大きさも、首輪の形も一致している」
……なるほど。
俺は静かに聞いていた。
「だが、村へ向かう途中で問題が起きた」
……問題?
「北の沢へ差しかかったところで、檻の中の大きい方が暴れ始めたそうだ」
俺は身体を縮めた。
……暴れた。
鉄格子が曲がっていた、あの檻。
「ニールによると、最初は鉄格子へ身体をぶつけていただけだった。だが、突然、強い衝撃が走ったらしい」
……衝撃?
俺は動きを止めた。
ルナも同じ言葉へ反応した。
「……強い衝撃だと?」
「ああ。檻が大きく揺れ、鉄格子が外側へ曲がったそうだ」
……なるほど。
それなら、檻が壊れていた理由は説明できる。
ただし。
「……どうやって?」
俺は心の中で呟いた。
普通の白毛の山狐に、そこまでの力があるのだろうか。
「ニール自身も、何が起きたのか分からなかったらしい」
ハルドが続ける。
「ただ、檻が壊れた直後、雇い主が何かの道具を使ったと言っていた」
……道具?
俺は触手を持ち上げた。
「金属製の棒のようなものだったそうだ。先端に石がついていて、何かを押しつけるように使っていたらしい」
……へえ。
何だ、それ。
「それを使ったあと、大きい狐は急に動かなくなったそうだ」
……え?
俺は動きを止めた。
「……死んだのか?」
ルナが尋ねる。
「そこまでは分からない。ニールが見たときには、まだ息はあったらしい」
……そうか。
少しだけ安心した。
だが、話は終わっていなかった。
「それから、雇い主は大きい方だけを別の荷車へ移した」
……別の荷車?
俺は身体を強張らせた。
「最初から2台あったらしい。ニールたちが使っていたのは、村へ来た方の荷車だ」
……なるほど。
じゃあ、もう1匹は。
「大きい方は、雇い主が連れていった。行き先は分からないそうだ」
「…………」
小屋の中が静かになった。
俺はようやく理解した。
あの檻が空だったのは、2匹とも無事に逃げたからではない。
大きい方は、別の場所へ運ばれていた。
そして、小さい方だけが逃げ延びた。
「……では、今ここにいる狐は?」
ルナが尋ねる。
「大きい方が運び出されたあと、檻の壊れた隙間から抜け出したそうだ。ニールたちは追おうとしたが、森へ逃げ込まれて見失った」
……そうだったのか。
俺は軒下へ意識を向けた。
弱い呼吸。
布の上で動く小さな脚。
あの狐は、檻から逃げた。
だが、もう1匹は連れていかれたまま。
……それで。
「……帰れなかったのか?」
俺は身体を小さくまとめた。
もちろん、あの狐が何を考えているかは分からない。
ただ、もし2匹が近しい関係だったのなら。
1匹だけ逃げられても、安心できるとは限らないだろう。
⸻
「……ニールは、なぜ今になって話したのだ?」
ルナが尋ねた。
ハルドは少し考えたあと、答えた。
「白い狐が生きて見つかったと聞いて、驚いたようだった」
……驚いた?
「それだけじゃない。首輪を外したと伝えると、急に黙り込んだ」
「……ふむ」
「しばらくしてから、自分がやったことを話し始めたんだ」
……そうなのか。
俺は少し考えた。
ニールは、雇い主の指示で狐を捕まえた。
そのあと、小さい方が逃げた。
だが、彼はその狐が生き延びたことを知らなかったのかもしれない。
「……ただし」
ハルドが続ける。
「話したのは、捕獲から逃走までの経緯だけだ。雇い主の名前や居場所については、まだ口を閉ざしている」
……そこか。
俺は身体を小さく縮めた。
大きい狐を助けるには、運んでいった相手を見つけなければならない。
だが、その相手の情報が足りない。
「……何かを恐れているのだろうな」
ルナが静かに言った。
「俺もそう思う」
ハルドが答える。
「ただ、話し始めたのは事実だ。もう少し時間をかけて聞くつもりだ」
……なるほど。
焦って無理に問い詰めても、いい結果になるとは限らない。
それなら、今はハルドに任せた方がいいだろう。
「……ところで」
ルナが少し声を落とした。
「その道具について、もう少し詳しく聞けぬか?」
……道具?
俺は触手を持ち上げた。
さっきの話に出てきた、金属製の棒。
先端に石がついているという、妙な道具だ。
「何か心当たりがあるのか?」
ハルドが尋ねる。
「……まだ分からぬ」
ルナは慎重に答えた。
「だが、気になることがある」
「……何だ?」
「檻を曲げるほど暴れていた魔獣が、道具を使われた直後に動かなくなったのだろう?」
「……ああ」
「ならば、普通の拘束具ではないかもしれぬ」
……なるほど。
俺は少し納得した。
魔物を眠らせる道具。
あるいは、魔術を封じるような道具なのだろうか。
この世界には魔法がある。
だが、俺は魔法の仕組みをほとんど知らない。
何ができて、何ができないのかも分からない。
「……気になるな」
俺は身体を小さく揺らした。
すると、ルナが静かに続けた。
「それに、白毛の山狐があれほどの力を出したのも妙だ」
……ああ。
それも気になる。
「普通の個体では、鉄格子を曲げるほどの力はない。少なくとも、我が知る限りではな」
……そうなのか。
俺は軒下の狐へ意識を向けた。
小さい方。
今、俺たちの近くで休んでいる狐。
その仲間は、どれほど強いのだろう。
そして。
どうして、人間に捕まったのだろう。
「……分からないことばかりだな」
俺は身体を小さくまとめた。
だが、ひとつだけ分かったことがある。
あの白い狐は、ただ偶然ここへ迷い込んだわけではない。
少なくとも、岩山で捕まり、檻から逃げ、森を通ってここまで辿り着いた。
その間に、どれほど怖い思いをしたのだろう。
……想像するだけでも、嫌な気分になった。
⸻
「……ノア」
ルナが声をかけてきた。
俺は触手を向けた。
「少し、あの狐の様子を見てみようではないか」
……お?
俺は身体を持ち上げた。
「何か分かるかもしれぬ」
……なるほど。
俺はゆっくり肯定した。
マルタに確認してから、再び軒下へ近づくことになった。
ただし、ルナは小屋の入口まで。
俺も、無理に狐へ触れない。
それが条件だ。
「……さて」
ルナが入口から声をかけた。
「白い狐よ。少し話をさせてくれぬか?」
軒下で、布が擦れる音がした。
……かさっ。
「貴様がどこから来たのか、我らは少しだけ知った」
狐は動かなかった。
「岩山だろう?」
……ぴくっ。
俺は身体を止めた。
小さな振動が伝わった。
ただし、偶然かもしれない。
「……あの山で、人間に捕まったのだな?」
しばらく、沈黙。
そして。
……クゥ。
小さな鳴き声が返ってきた。
「……ふむ」
ルナが静かに息を吐いた。
「貴様、人間の言葉が分かるのか?」
返事はない。
「……まあ、よい」
ルナは少しだけ声を柔らかくした。
「今すぐ答える必要はない。だが、我らは貴様を捕まえるつもりはないぞ」
狐が、ゆっくりと動いた。
……ぺた。
……ぺた。
小さな足音。
俺は身体を止めた。
近づいてくる。
ただし、まだ距離はある。
「……ノア」
ルナが静かに言った。
「動くなよ」
……分かってる。
俺は触手を縮めた。
狐の足音が止まる。
しばらくして。
……くん。
……くん、くん。
小さな鼻息が聞こえた。
どうやら、俺の匂いを確かめているらしい。
「……おお」
俺は身体を動かさずに待った。
すると。
……ぺたり。
柔らかなものが、触手へ触れた。
「…………」
俺は動きを止めた。
……向こうから触ってきた?
今朝は水を飲むだけで精一杯だったのに。
俺はゆっくりと触手を伸ばした。
ただし、相手を包み込まない。
その場へ置くだけ。
すると、狐がもう1度鼻先を寄せてきた。
……くん。
……ふすっ。
そして。
……カリッ。
「……ん?」
何かが触手の先端を軽く引っかいた。
痛みはない。
ただ、細い爪の感触が伝わった。
「……どうした?」
ルナが尋ねる。
俺は触手を持ち上げた。
すると、狐が急に後ろへ下がった。
……ざっ。
……ぺた。
俺は慌てて動きを止めた。
……ごめん。
驚かせたか。
だが、狐は逃げなかった。
代わりに。
……カリ、カリ。
地面を引っかく音がした。
「……何をしておる?」
ルナが不思議そうに呟いた。
俺は《微振動感知》へ意識を集中させた。
狐は地面を何度も引っかいている。
同じ場所。
それも、前脚を使って。
……カリ。
……カリ、カリ。
何かを掘ろうとしているのか。
それとも。
「……ん?」
俺は少しだけ身体を伸ばした。
すると、狐がまた俺へ近づいてきた。
そして。
……ぺたり。
触手へ鼻先を押しつける。
続いて、地面を引っかく。
……カリ、カリ。
「…………」
俺は動きを止めた。
……まさか。
何かを伝えようとしている?
もちろん、そう決めつけるのは早い。
だが、同じ動きを何度も繰り返している。
俺の触手へ触れる。
地面を引っかく。
もう1度、触れる。
……何だろう。
俺は少し考えた。
そして、試しに触手の先端で地面へ小さな線を引いた。
……すっ。
すると。
……ぴくっ。
狐の動きが止まった。
「……お?」
俺はもう1本、線を引いた。
……すっ。
……すっ。
すると、狐が近づいてきた。
……くん。
……くん、くん。
そして。
……カリッ。
俺が引いた線のすぐ横を、爪で引っかいた。
「…………」
……おお。
偶然か?
それとも、俺の動きを真似した?
俺はもう1度、違う場所へ線を引いた。
すると、狐は少し迷ったあと、同じ場所へ爪を動かした。
……カリ。
「……なるほど」
俺は身体を小さく揺らした。
少なくとも、この狐は俺の動きを見ている。
いや、正確には。
……目で見ているのか。
今の俺には、それを確かめる方法がない。
だが、反応していることは分かった。
「……ルナ」
俺は触手を持ち上げた。
すると、彼女が小さく笑った。
「ふふっ。面白いことをしておるな」
……見えてるのか?
「うむ。貴様が地面へ線を引くと、あの狐も同じように爪を動かしておる」
……やっぱり!
俺は嬉しくなった。
だが、すぐに落ち着く。
まだ、何かを伝えられているわけではない。
ただ、動きを真似しているだけかもしれない。
それでも。
「……少しは、仲良くなれたかな」
俺は身体を小さくまとめた。
すると、狐がもう1度近づいてきた。
……ぺた。
そして。
……くぅ。
小さく鳴いた。
今度は、さっきより少しだけ穏やかな声に聞こえた。
⸻
「……ほう」
様子を見ていたマルタが、小さく息を吐いた。
「ノアには、随分と警戒が薄いようだね」
「人間ではないからかもしれぬな」
ルナが答える。
「同じ魔物だから?」
ハルドが尋ねる。
「……それは分からぬ」
ルナは少し考え込んだ。
「だが、少なくともノアは、あの狐を無理に捕まえようとはしておらぬ。それが伝わっているのかもしれぬな」
……そうだといいな。
俺は狐へ意識を向けた。
小さな身体。
弱い呼吸。
傷ついた前脚。
それでも、少しずつ自分から動けるようになってきた。
……よかった。
本当に。
すると、ハルドが静かに言った。
「ニールから聞いた話が正しければ、この狐にはまだ仲間がいる」
……ああ。
俺は動きを止めた。
「しかも、その仲間は人間に連れていかれたままだ」
ルナの声が少し低くなる。
「……それが、あの狐に分かっておるのだろうか」
「分からん」
ハルドは正直に答えた。
「だが、もし覚えているなら、怖い思いをしただろうな」
……そうだな。
俺は静かに考えた。
洞窟で、ルナが大百足に襲われたとき。
俺は必死だった。
自分が生き残ることだけでなく、ルナを助けることしか考えられなかった。
もし、あのときルナが連れ去られていたら。
俺はどうしただろう。
……想像したくないな。
俺は身体を小さく縮めた。
すると、白い狐がまた俺へ近づいてきた。
……ぺた。
……ぺたり。
小さな鼻先が、触手へ触れる。
俺はそのまま動かなかった。
「……大丈夫だ」
声にはならない。
だが、心の中で呟いた。
少なくとも、ここでは誰もお前を捕まえようとしていない。
今は、ゆっくり休んでいい。
そう思いながら、触手を少しだけ柔らかく広げた。
狐はしばらく触れていたが、やがて自分から離れていった。
……かさっ。
布の上へ戻る。
そして、小さく身体を丸めたらしい。
「……眠ったようだな」
ルナが静かに言った。
俺はゆっくり肯定した。
……よかった。
⸻
その日の夕方。
ハルドが再び小屋を訪ねてきた。
「村長と相談した」
……お?
俺は身体を持ち上げた。
「白い狐については、しばらくマルタの管理下で療養させることになった」
……おお。
それはありがたい。
「ただし、村の中へは入れない。今はこの小屋の軒下を使い、必要なら柵を設けるつもりだ」
「……承知した」
ルナが答えた。
俺も大きく肯定した。
「それから」
ハルドが続ける。
「逃げた男の捜索について、村長が正式に人を出すことを決めた」
……おお。
ついに動くのか。
「ただし、岩山の奥へ無理に入るつもりはない。まずは古い道と、周囲の足跡を調べる」
……なるほど。
慎重だな。
俺は少し安心した。
「ニールの話では、雇い主が大きい狐を別の荷車へ移したあと、北へ向かったらしい」
……北。
また、岩山の方角か。
「その先に何があるのか、まだ分からん。だが、手がかりが残っている可能性はある」
「……そうか」
ルナは静かに答えた。
俺も触手を持ち上げた。
今の俺たちには、すぐに追いかけることはできない。
ルナの脚は治療中だし、俺自身も回復途中。
それに、相手は何人いるのかも分からない。
無理に動けば、かえって足手まといになる可能性もある。
……だから。
「……任せよう」
俺はゆっくり肯定した。
ハルドが小さく笑った。
「結果が分かったら、必ず知らせる」
……頼みます。
俺は触手を小さく揺らした。
⸻
夜。
小屋の中には、いつもの静けさが戻っていた。
ルナは干し草の上で休んでいる。
外では、白い狐が眠っているらしい。
俺は扉の近くへ身体を寄せた。
……すぅ。
……はぁ。
軒下から、弱い呼吸が聞こえる。
昨日より、少し落ち着いているように感じた。
「……よかったな」
俺は心の中で呟いた。
だが、同時に考える。
この狐には、まだ帰れない理由があるのかもしれない。
もし、もう1匹が家族や仲間だったなら。
自分だけ助かっても、安心できないだろう。
……それでも。
俺たちが勝手に何かを決めるわけにはいかない。
まずは、元気になってもらうこと。
そのあとで、何を望むのか確かめる。
できるかどうかは分からない。
だが、少なくとも今は、それが一番だと思った。
「……ノア」
背後から、ルナの声がした。
俺は触手を向けた。
「貴様、また考え事か?」
……うん。
俺は素直に肯定した。
「……ふふっ。分かりやすいな」
少しの沈黙。
そして。
「……あの狐のことだろう?」
もう1度、肯定する。
ルナは静かに続けた。
「我も、気になっておる」
……そうか。
「だが、今は焦るでない。助けたいと思うことと、助けられることは違う」
……うん。
それは、分かっている。
「それでも、何かできることがあれば、一緒に考えようではないか」
「…………」
俺は少しだけ身体を止めた。
……ルナ。
俺は触手を伸ばし、彼女の前脚へそっと触れた。
すると、柔らかな毛が軽く押し返してきた。
「……ふふっ」
ルナが小さく笑った。
「貴様がまた無茶をしそうなら、我が止めてやる」
……それは助かる。
俺は身体を小さく揺らした。
ただ。
ルナだって、怪我が治ったらすぐに飛び出しそうだけどな。
そんなことを考えると、彼女が小さく鼻を鳴らした。
「……何だ。今、失礼なことを考えたであろう?」
……気のせいです。
俺は慌てて触手を縮めた。
ルナが笑う。
その声を聞きながら、俺はようやく身体の力を抜いた。
外の白い狐は、まだ眠っている。
連れ去られたもう1匹が、どこにいるのかは分からない。
だが、村の人たちが動き始めた。
俺たちにも、できることがあるかもしれない。
……少しずつだな。
俺は静かに考えた。
今すぐすべてを解決できるわけではない。
それでも、何もしないで諦める必要はない。
この世界へ来てから、何度もそう思ってきた。
そして、今夜も。
俺はその考えを、もう1度確かめた。
……きっと、何か方法はある。
そう信じながら、ゆっくりと意識を休ませた。




