5-1-1 月奈1
今回は仲間たちの活躍をお楽しみください。
月奈は走る。
仲間からパスを受けた敵チームのストライカーとの距離を、一歩、また一歩と詰めていく。長い脚を踏み出すたび、固く締まった芝生の感触がスパイク越しに足裏へ伝わった。
頭の中は不思議なほど静かだった。
相手の動きを読むこと、ボールを奪うこと、そしてチームを勝たせること。それ以外の雑念は、今だけはどこにもない。ただ主将として、自分が最後まで走り続けなければならない。その意地だけが月奈の体を動かしていた。
「良いぞ、月奈!」
ゴール前で相手のシュートコースを塞ぎ、こぼれたボールを味方へ繋ぐ。監督の声がグラウンドに響き、駆け寄ってきたチームメイトが笑いながら背中を叩いた。
月奈も照れくさそうに笑みを返し、額の汗を手の甲で拭う。
試合の流れを変えられたという手応えが、胸の奥を静かに満たしていた。この時間だけは、自分の体が誰かの役に立っていると素直に思える。勝利のために走り続けることが、何よりの喜びだった。
だが、その充実感は長くは続かない。
グラウンドを離れるたび、現実は決まって月奈を待っていた。
部活を終えて帰る家は、築年数の古いアパートの一室。家族は母と小学生の妹、紗恵の三人だけだ。
父は、月奈が中学生になる前に家を出たまま戻らなかった。
それ以来、母は二つのパートを掛け持ちしながら家計を支えている。
「月奈、あんたまたスパイク壊れたの?」
夕食の支度を終えた母が、疲れ切った顔で食卓に腰を下ろす。仕事帰りなのだろう。制服の上着も脱ぎきらないまま、小さく息をついた。
隣では紗恵が宿題を広げ、黙々と鉛筆を走らせている。
「うん。でも、まだ履けるから大丈夫だよ」
月奈は何でもないように答えた。
けれど本当は、スパイクの傷みはもう限界に近い。毎日の練習と試合を支える一足は、主将として走り続けるほど早く擦り減っていく。
それでも、新しいものが欲しいとは言えなかった。
母にこれ以上負担をかけたくない。
そんな思いと同じくらい、「自分だけ好きなことを続けていていいのだろうか」という後ろめたさが、胸の奥に居座り続けていた。
だから月奈は、アルバイトを探し始めた。
せめてスマホ代くらいは自分で払いたい。できれば部活動で必要になる細かな出費も、自分で賄えれば母は少し楽になる。
しかし、部活が終わる夕方以降に働ける仕事は多くない。
コンビニやファストフード店の求人も調べてみた。だが、部活が終わってから四、五時間は働かなければならず、家に帰る頃には夜遅くなってしまう。それだけ時間を使っても、手元に残る金額は決して多くない。
月奈が欲しかったのは、長時間働くことではなく、限られた時間で少しでも多く稼げる仕事だった。
そんな中、バイト情報サイトの片隅で見つけたのが、「鉄屑回収の積み下ろし作業員募集」という求人だった。
『短時間で稼げる高額バイト! 体力に自信のある方歓迎。未経験者OK』
体力には自信がある。特別な資格も経験もいらない。
応募フォームには氏名と住所、それに家族構成まで入力する欄があった。少し細かい気もしたが、倉庫作業なら緊急連絡先くらい必要なのだろうと深く考えずに送信する。
その日のうちに採用の連絡が届いた。
初めて案内された職場は、郊外にある広い作業場だった。
錆びた鉄骨や廃材が高く積み上げられ、夏の熱気に混じって鉄の匂いが鼻をつく。その一角には何台ものトラックが並び、荷台には大量のケーブルや金属資材が積まれていた。
「おう、新入りか?」
声をかけてきたのは、無骨な顔つきの中年男性だった。油で汚れた作業服に軍手姿という、いかにも現場仕事らしい格好をしている。
「はい。今日からお世話になります。月奈です」
「お前、意外と細っこいな。まあ若いんだし、すぐ慣れるだろ」
男はそう言って荷台を指さした。
「このケーブル、向こうの倉庫まで運んでくれ」
「はい!」
返事をして荷物を抱え上げた瞬間、見た目以上の重さが両腕にのしかかる。
思わず息を詰めたが、歯を食いしばって一束ずつ運び続けた。
単調な肉体労働だった。
それでも、一日の終わりに受け取る給料を思うと、不思議と悪い気分にはならない。
自分の体力が、そのまま家族の助けになる。
そう思えることが、月奈には少しだけ誇らしかった。
だが、数日も働くうちに、小さな違和感が積み重なり始める。
(このケーブル……どこから運ばれてくるんだろう)
運ぶ荷物の中には、鉄屑には見えない新品同然のケーブルも少なくなかった。
もちろん傷んだものも混ざっている。しかし、それにしては量が多すぎる。
作業員たちも時折、「今日はいい仕入れだったな」
「引っ張り出すのに苦労した」そんな言葉を交わしていた。
鉄屑回収の仕事にしては、どこか引っ掛かるものがある。
仕事帰りのある日、月奈は思い切って近くにいた同僚へ尋ねた。
「このケーブルって、どこから来てるんですか?」
同僚は一瞬だけ表情を固くした。
だがすぐに笑って肩をすくめる。
「お前、余計なこと気にすんな。黙って運んでりゃ金はもらえる。それで十分だろ」
その言葉以上、何も聞くことはできなかった。
数日後。
違和感の正体を、月奈は偶然耳にしてしまう。
荷物の一部は盗品だった。
従業員たちが交わした何気ない会話が、その事実を隠しようもなく物語っていた。
胸の奥が冷たくなる。
辞めよう。
そう思った。
だが、母の疲れ切った横顔と、無邪気に笑う紗恵の姿が脳裏に浮かぶ。
今さら辞めても、もう運んでしまった荷物は変わらない。
(知らなかったことにしよう。それでいい……)
そう言い聞かせるしかなかった。
自分は盗んだわけではない。
ただ働いて、お金を受け取っているだけだ。
こうして月奈は、鉄屑回収のアルバイトを続けることを選んだ。
それは家族を支えるための、小さな決断に過ぎなかった。
しかしその一歩は、やがて想像もつかない領域へと足を踏み入れる、静かな始まりだった。
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