後編
ストーカーみたいな斎にご注意下さい。
ともかく安静に、と何度も念をおして、ナースと医者は退室した。
「最近の病院は、医者よりナースの方が おっかないのな…」
魂が抜けたようになっている同僚を横目で見ながら、俺はせっせと床にできた小山を解体して、棚に納めていく。
「ところで、このパジャマやタオルはどこから来て、誰のなんですか」
洗濯され、ほのかにフローラルな香りのそれは、俺のものではない。
「ああ、同じ課にジョーンズって いただろ。最近激太りしたやつ」
言われて、ちらりと 顎ひげをダンディに伸ばした太めの男を思い出す。彼はついこの間結婚して、見る間に 丸くなっていった。彼は常に幸せそうな笑顔が標準装備だった。…こんな時に、幸せそうな顔をされると胸糞が悪い。 嫌味かと思ってしまう。
…すっかり、歪んでしまったものだな。と自嘲気味に笑う。
「あいつ、幸せを身体にも溜め込んでるから 服のサイズが変わっちまって。服を総入れ替えしたんだと。んで、処分すんなら有効活用ってことで もらってきたんだ」
余計だったか?と視線で問われて。問題ない、と呟いた。
他人の服を借りることに抵抗が無くはなかったが、きちんと洗濯してあるようだし、ジョーンズ自体も爽やかで好ましく思っていた。今回はお言葉に甘えさせてもらおう。
新しい着替えをわざわざ買うのも手間だ。かといって、着替えを家に取って来てもらうなど、有り得ない。
…今はともかく、何もかもが面倒くさい。何もしたくない。考えたくない、と俺の頭が訴えている。
「ああ、俺がやるよ。お前は安静にしてろ…またゴリラナースに叱りつけられたら、夢に見ちまう…」
彼は先程のナースがトラウマになりかけているらしい。若干顔を青ざめさせて、棚に詰める。
ぼうっ、とその様子を見ていると、彼がふと目を上げて、そういえば、と何かを思い出したようにして。
「あいつら…ああ、オフィスの奴等、皆心配してたぞ。お前働きすぎだって。日本人の俺なら親しみやすいだろうから、色々サポートしてやれとさ」
彼は、手を動かしながら少し気まずそうに言う。
ああ、先程、その話題で俺の逆鱗に触れたから慎重になっているのか。
彼は、悪くない。勝手に怒って一方的に怒鳴り散らしたのは俺だ。…思えば、八つ当たりもいいところだ。
「いや、俺の方こそ。…少し、頭を冷やさなければいけませんね」
取り乱すなんて、俺らしくもない。もっと冷静にならなくては。
「お前、一年で帰るんだろ?日本に。…あっちの誰かと何か揉めてて大変なのかも知れないけど、こっちの生活も大事にしろよな。あんまり倒れてばっかりいると、こっちの生活が長びいちまうぞ」
…それは、避けたいな。本音を言えば、今すぐ日本に帰って、日奈子を問い詰めたい。それで満足のいく答えが得られなかったら、何処かに閉じ込めて、俺だけを見るように。俺の事しか考えられない様にしてやりたい。
熱に浮かされた様な脳が、鳥籠に押し込められた日奈子を想像してしまって。いや待て、それは不味いだろうと何とか踏みとどまる。
犯罪を犯しそうな自分に、背筋がヒヤリとする。だが、そうと分かっていても 俺の中の溢れんばかりの独占欲と狂気的な愛情が、その行為を肯定していた。分かっている。俺が彼女に向ける愛情と執着は異常だ。
もしかしたら、日奈子は それに気付いて俺から逃げようとしている…?
そう考えて、ふっと浮かんだのは、最後の別れ際の日奈子の顔。泣きそうな顔をしていた。しかし、目には力がこもっていて…儚げながら、意思の強さを感じさせた。思い返してみれば、彼女は何かを伝えようと、懇願しようとしていたのかも知れない。そんな表情をしていた。
もしあの時、日奈子が俺に別れを告げたら、どうしていただろうか。考えた瞬間、心臓に刺すような痛みが走る。
俺は、痛む胸を撫でるように そっと押さえて、口許を歪ませた。
今と、変わらないか。彼女を忘れようと、メチャクチャに仕事して。仕事しか出来なくなって。でも、忘れられなくて。
…そして、最後には彼女を絡めとって、俺に縛り付ける術を考える。
…ああ、日奈子。
やっぱり君は、俺からは逃げられないんだ。
「もし…」
「ああ?」
ベッドに横になった俺がぽつりと呟いた声を、彼は怪訝そうに聞き返した。
「もし可愛がっていた小鳥が、鳥籠から逃げ出そうとしたら、どうしますか?」
何の脈絡もない問いに、彼は首を傾げた後。
「…まあ、もう勝手に逃げないように出口に鍵をつけるとかか?」
「…それじゃあ、足りない」
唇で軽く囁いた言葉は、彼の耳には何も届かなかったらしい。不思議そうに俺を見て。用事を思い出したらしい彼は、お大事にと気の良い笑顔を残して、病室を去っていった。
静かな病室で、俺は彼が言った言葉を反芻する。
逃げないように 出口に鍵を。
それだけじゃあ、足りない。もっと、頑丈な籠にしなくては。それこそ、檻のように強固な物が良い。そして、小鳥が寂しくないように可能な限り側にいてあげよう。…二度と、逃げ出そうなんて思わないように、どろどろに甘やかしてやろう。
日奈子、待っていてくれ。すぐにつかまえにいくから…
俺は退院後も変わらずめちゃめちゃな量の仕事をこなした。早く任期を終わらせて、日奈子を迎えに行く。そんな目標ができたからか、嘘のように睡眠がとれるようになった。
もう、日奈子の夢を見ても胸を掻きむしられる様な虚しさや切なさは感じない。むしろ、夢の中とは言え、彼女に触れられる幸せに胸を踊らせた。
任期もあと一月と迫っていた頃。遮二無二仕事に励む俺の姿が認められたのか、予定より三日早い帰国が許された。
三日だけか、と落胆はしたが、引き継ぎだなんだとバタバタする同僚を見ると、文句は消えていった。短い期間だったが、同僚たちとは互いに互いを認め合える、大切な仲間になっていた。
そして、一年振りに日本に帰ってきた。正確には三日早いから、一年振りと言う言葉は適切ではないかもしれないが。
とりあえず空港に着いてから真っ直ぐに会社に向かおうと思い、電話で帰社する旨を上司に伝える。すると出社は来週月曜から、という命令をされた。ニューヨークでの俺の入院騒ぎを知った上司から、時差ボケを治して静養しろ、とのお達しが下ったのだ。ちょうど有給もたまっていたし、これは行幸とばかりに休みを取った。
久し振りに帰った自宅は埃っぽく、少し広く感じた。この違和感の正体にはすぐに気づいた。日奈子の私物が無くなっている。胸の痛みを堪えながら、やはりな という気持ちもあった。彼女は潔い。そこが彼女の魅力でもあったが、今はそれが心苦しく感じる。未練が有るのはお前だけだ、と突きつけられているようだ。
あの別れのメールを寄越した後の着信拒否の早さから しても、それは伺えるが…
そこで、ふと思い付く。彼女のことだから、着信拒否だけでは済まない気がする。もしや、もうあのアパートにもいないのでは。
急いで車のキーを取り、車を走らせる。日奈子のアパートに着いた時には、既に深夜をまわっていた。
アパートの通路の薄暗い灯りに照らされながら、彼女のアパートのドアの前に立つ。そこで俺は、もう彼女はここにいないことに気づく。ドアに掲げられた表札には、名前が二つ。誰とも知れない男の名前と、その妻らしき女の名前。
―――やはり、潔い。
そこまでするのか、という思いと、日奈子らしいな、という思いが入り雑じって、複雑な心境になる。
彼女が引っ越していたのは、思いの他ショックだったようだ。フラフラと足に力が入らなくて、近くの公園に入り目についたベンチに腰を下ろす。
何をするでもなく、ぼうっ、と虚空を眺める。視線の先に、ちらりと映った黄色いブランコ。このブランコ、よく日奈子が乗っていたな…二十歳過ぎても、子ども心を忘れたくないんです!!といって楽しそうにブランコをこぐ日奈子。よく それを眺めて、笑っていたな…
俺は懐かしくなり、ブランコに乗ると、軽くこぎだしてみる。子ども向けのそれは、成人男性にはギリギリ乗れる、といった作りだ。当然、ギイギイうるさいだけで、楽しくもなんともない。
「何を、やっているんだ俺は…」
虚しさばかりが募り、ため息をつく。そんな俺の背後から、近づいてくる人影があった。
「もしもし、そこで何をされているんですか?」
こんな深夜に人がいるとも思わず、びくりと大袈裟に肩が震える。振り返れば、そこには懐中電灯でこちらを照らす警官が。
しまった、と思った。何か悪いことをしていた訳でもないのに、見つかった、という焦りがあった。
「いえ、別に…」
「この辺、意外と空き巣が多くて、巡回しているんですよ。ところで、失礼ですが…」
うろたえる俺に構わず、警官は笑顔を張り付けて距離を縮めてくる。
「身分証明書、拝見させていただいてもよろしいですか?」
疑われている。これは完全に疑われている。思えば、深夜の公園で一人、でかい図体を小さくしてブランコに乗る男…怪しい、な…
俺は変に逃げるのもおかしいと思い、大人しく免許を差し出して二、三質問をされた後、怪しい行動は慎むようにと注意を受けて、解放された。
なんとも言えない気分になり、そのまま自宅に帰って、寝た。
夢の中で、あのブランコをこぎながら、日奈子が楽しそうに笑う。
「私、今のアパートも好きなんですけど、お向かいのアパートも好きなんです。今度住むなら、そっちにします」
「お向かいに引っ越すのは、少し無駄な気もしますが…」
「わかってますよ。もったいないし面倒くさいし、あんまり意味ないって。でももし、のっぴきならない事情が起きたら、そっちに引っ越します」
「…変な事を言いますね」
「えへへ、のっぴきならない、っていう言葉を最近覚えたので、使ってみようかと」
「小学生ですか」
「失礼ですね。でも、あのアパートがいいなーって思うのは本当ですよ」
がばっ、とふとんをはね飛ばしながら、身体を起こす。
「のっぴきならない…」
俺は着替えも寝癖を直すこともそこそこに、適当にテーブルに投げ出していた車のキーをひっつかみ、昨日の公園へと急いだ。
早朝、日が上って間もない公園には当然、人影もない。
日奈子の以前のアパートの向かいにある、公園をはさむ形で建っているアパート。ピンクの外装に、どこかアンティークなドア。いかにも女性が好みそうな外観だ。
車を適当なところに停めて、表札をひとつずつ確認する。
――あった。
以前と変わらない表札を使っていたことに安堵する。少し丸みを帯びた彼女の字が、間違いなく ここにいるのは日奈子だと知らせてくれている。
彼女の名字はありふれていたから、他のシンプルな表札に変えられていたら、確証はつかめなかった。
そっと、指で『鈴木』という字をなぞる。やっと、日奈子に会える。穏やかな幸せに胸が熱くなる。
俺は、そっとドアから離れて車に向かう。日奈子がドアを開けるまで待っていたかったが、アパートの近くの電柱に『変質者注意』のビラを見つけたから、名残惜しいが撤退した。
俺はその日のうちに荷造りをし、引っ越し業者に連絡した。すぐに動ける業者を捕まえるのに苦労はしたが、何とか当たりをつけた。アパートも 引き払う手続きをした。
ここまでして、もし日奈子に拒絶されたらとは思った。だが、ここで押さなければ彼女は手に入らないだろう。
決戦は明日。俺はどうやって日奈子を説得しようか、そればかりを考えていた。
そして、決戦の日。朝から気合いを入れて、支度をする。鏡に写る自分は、1年前と比べて明らかにやつれている。久し振りに会うのに、こんな情けない顔を日奈子にさらすのは 屈辱だが…
日奈子の前では、いつも格好つけてきた。いつでも彼女の目にはスマートな俺が映るように。だが、弱味を見せないことが、彼女に不安を与えていたのかも知れない。心のうちでは思っていることは沢山有るのに、格好つけた俺は弱音を吐くこともしなかった。日奈子に情けないやつだと思われたくなくて、意地を貫いてきた様に思う。
しかし、それでは駄目だと気付いた。俺の弱い部分も見てもらう。それが俺の課題。誰だったか、「恋人はもたれあうもの。夫婦は支え合うもの」だと説いていた人物がいた。その言葉を聞いて、俺は気付いたのだ。弱さを見せない俺が、日奈子は不安だったのでは、と。
今日、俺は いかに自分が彼女を愛しているかを、全力で伝える。そして、今度こそ日奈子を捕まえる。
確かな決意を胸に、俺は一歩を踏み出した。
彼女に向かって。
変な所が多々あると思いますが、ご容赦下さい。