1話 憧れ
俺、いま天女を見ているのか?
突風で乱れた前髪をかきあげる女子生徒の横顔。
全身にビリッと電気が走ったような衝撃を受けた。
気がつけば、すっかり目を奪われていた。
「おーい、怜己。ガン見しすぎっ」
右隣で呆れ声を発したのは、庭坂柚乃。
左隣にいる蟹沼冬牙が、俺の視線の先を確認。
「ああ、あれは汐彩先輩だな」
庭坂柚乃も蟹沼冬牙も古くからのダチだ。
「あの人……汐彩先輩っていうのか。よく名前なんて知ってたな。もしかして冬牙の知り合いだとか?」
「なわけあるか。あれだけのルックスだぞ。学年を超えた有名人だ。ただし無敵の不沈空母なんて言われている」
「物騒な呼び方だな」
「そうだとも。これまでどれだけの野郎どもが、コクって撃沈されてきたことか。去年だが、俺たちのクラスにもコクったヤツいたっけな」
「ホントか。そんな話、知らなかったぞ」
毎度毎度、どこから情報を集めてんだか。
「嘘じゃない。怜己に忠告するぜ。汐彩先輩に近づきたいなんて、ぜったい思わないことだ。天変地異が起ころうとも、お前のような凡人にゃ無縁の存在だからな」
「わかってら。俺が頑張ったところで、せいぜい柚乃レベルが限度だろうな~」
などと冗談をとばすと、柚乃がすぐに反応。
「お断りっ。あたしになんざ、百年早いってーの」
尻に蹴りをもらった。バシンといい音が響いた。柚乃はきょうも機嫌が良さそうだ。
「百年早い? へえ、そんなにも俺を待ち続けると?」
「誰が待つかっ」
ここでまた風のいたずら。
冷たい風に鼻をくすぐられ、俺はクシャミした。
その音に、あの先輩が反応した。目が合った。それだけで幸せな気分になった。しかし視線をじっと向け続ければ、変質者に思われかねない。すぐ顔をそらした。
汐彩という名はしっかりと覚えた。でも名前を覚えたところで、何かの役に立つわけではない。俺の人生にいっさい絡んでくることのない、雲の上の人物なのだから。
下校時――。
うわぁ、ドシャ降りじゃん。
校舎の玄関を出て傘をさす。おととい持ち帰り忘れたものだ。
ふと、ある人物の姿を目にした。
汐彩という人だ。
氷のように透き通った冷ややかな横顔。指先の所作から足の運び方まで、すべてがあまりに整然としていて、人間離れした気品を漂わせていた。
あっ!
なんてこった。意外なものを見てしまった。汐彩の傘だが、六本骨の一つが折れていたのだ。傘を広げたときの恥ずかしそうな顔。
凛とした外見から『しっかり者の完璧超人』などと勝手にイメージしていたのだが、実際には不完全なところもある生身の人間だったようだ。
ただし、悪いのは彼女じゃなくて傘の方だ。
彼女がサッと傘をつぼめる。それでも雨空を見あげると、壊れた傘をふたたび広げるのだった。
俺はもう一本、傘を持っていた。
鞄の中の折りたたみ傘だ。
その傘を彼女に貸すのは、物理的には可能なこと。
しかし現実的には無理というものだ。俺は面識もない赤の他人なのだから。そんなことをすれば気持ち悪がられるだけだ。
彼女は雨の中、玄関から出ていった。神レベルの美少女が格好悪い姿をさらしながら。
やっぱり……。
傘を差し出すくらいはしても良かったのではないか? たとえば『あとで二年三組の傘立てに返してもらえればいい』などと告げて。
だが彼女の姿はもう見えなかった。
その日から汐彩をたびたび見かけるようになった。
見かける頻度が急に高くなるなんて不思議なものだ。もしかすると無意識のうちに、俺が彼女の姿を探すようになったためだろうか。
いま、また彼女を発見した――。
あっ、転んだ。
つまずくような物なんてない場所だが。ある意味、器用な人だ。クールな見た目とは反対に、ドジなのか?
仲間に手を引かれ、立ちあがった。
そんな人間味を見せた彼女だが、長い黒髪を白い指で掻き払うと、すぐに凡人には近寄りがたいオーラを発した。やっぱり普通の人とは何かが違う。
ここでまた汐彩と目が合った。
俺は慌てて視線を切った。
翌朝の登校中――。
ふたたび汐彩の姿を発見。ちょうどバスから降りてきたところだ。
ドアの閉まった直後、彼女が声をあげる。
「はっ。画材ケース!」
バスに置き忘れたらしい。
ここでもまたドジッたか。
走り出すバスを呆然と見送る汐彩。
そこを通り過ぎようとした俺の足が、自然と止まる。しかし彼女のために何かできるわけではないし、そもそも俺には一生無関係な人だ。
彼女の溜息が聞こえた。
あの雨の日、俺は傘を渡すことはなかった。
この状況もほとんど同じ。ただ見守ることしかできない。
しかも今回は物理的にも、バスが行ってしまった後だ。
ちょうどそこへ、自転車通学のダチがやってきた。
庭坂柚乃だ――。彼女を止める。
「あ、おはよ。どうしたの、怜己?」
「おはよう。頼む、自転車貸してくれ」
「ちょっと、いきなりなんで?」
ワケをだらだらと話す時間なんてない。ショートケーキを奢るという約束で、急かすように自転車を借りた。
サドルを跨ぎ、片足で地面を蹴り、汐彩に寄っていく。
「画材ケース、あのバスの中ですね?」
俺、何してんだ。友達でもなんでもない人にどうして。
「そうですけど……」
下心があるとか思われた? そんなんじゃねえ。
気持ち悪がられた? 別にそれでもいいさ。
困ってる人を手助けして何がいけない。
傘を貸せなかった日のモヤモヤ感――あれが忘れられない。
ペダルを漕ぐ。
全速力で。
バスが遠ざかる。
こら待て。
うぉおおおおお!
さすがはママチャリ。
スピードが出ねえ。
マズい。
足の感覚がなくなってきた。
でも追いついてみせる。
絶対に。
バスは次のバス停をスルー。
下車する人も乗車する人もいなかったのだ。
次のバス停も同様。
だからどうした。
俺みたいな男でも、諦められないときがある。
そして五つめのバス停。
やっとここで追いついた。
学生証を見せ、事情を話し、バスの中に入れてもらった。
画材ケースを見つけた。
急いで戻る。
最初のバス停に、彼女がまだ立っていた。
荒くなった息を整え、画材ケースを差し出す。
俺、やっぱりキモいよな。でもスッキリした気分だ。
「これっすね」
「ええ。あたしの……」
頭を下げる彼女。
「……ありがとう」
氷の表情が和らいでいた。
いま天女の微笑みを見た。
そんな言葉をかけてもらう日は、二度とこないだろう。
そんな笑顔を向けてもらう日は、二度とこないだろう。
これ、一生の思い出だな。
そう思っていた。
なのに、まさか彼女が身内となる日がくるとは。




