第39話「ナノマシン、初の人間治療」
その話は、突然だった。
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「患者がいます」
一条朔也の声は、いつもより低かった。
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九条本邸。
空気が変わる。
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「どこからだ」
業真が問う。
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「関係者です」
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一拍。
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「分家筋」
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業高が眉をわずかに動かす。
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「状態は」
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「進行性」
一条は短く答えた。
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「既存医療では厳しいと判断されています」
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沈黙。
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それで十分だった。
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業継は、その話を聞いていた。
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「……人体実験対象、いたの」
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ぽつりと呟く。
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ナノマシン。
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条件付きで可能。
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だが、
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“まだ使っていない”。
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その段階だった。
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「やるか?」
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橘智紀が聞く。
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短い。
だが、重い。
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業継は答えない。
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頭の中で、すべてが繋がる。
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成功率。
再現性。
リスク。
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そして――
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命。
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『現状評価を提示』
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アークが表示する。
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『成功確率:高(条件一致)』
『リスク:中』
『代替手段:なし』
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一拍。
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『倫理判断を要求』
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初めての表示だった。
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業継は目を閉じる。
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助けられる。
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でも、完全ではない。
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失敗すれば終わり。
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だが、
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やらなければ――
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確実に失う。
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「……やる」
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静かに言った。
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橘は頷く。
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「条件は」
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「全部合わせる」
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一切の妥協なし。
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本邸・地下医療区画。
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初めて使われる場所。
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完全隔離。
完全管理。
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ベッドの上には、一人の人間。
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若い。
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だが、その体は弱っている。
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「説明は済んでいます」
一条が言う。
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「同意も」
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業継は頷く。
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逃げ場はない。
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「始める」
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ナノマシン準備。
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最適化済み構成。
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動的適応。
同期制御。
免疫回避。
終了条件。
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すべてを統合。
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「投入」
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体内へ。
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流れる。
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血流。
温度。
圧力。
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すべてが違う。
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動物とは違う。
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「……来るな」
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免疫反応。
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だが――
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「抑えてる」
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擬態が効く。
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完全ではない。
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だが、十分。
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「対象位置」
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特定。
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ナノマシンが集まる。
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「同期維持」
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ズレなし。
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ここまでは想定通り。
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「お願い成功して」
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分解開始。
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ゆっくり。
確実に。
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異常細胞を削る。
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「状態はどう?」
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「安定」
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橘が答える。
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だが――
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一瞬。
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「……ズレた」
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業継が言う。
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局所環境の変化。
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代謝の揺れ。
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ナノマシンの一部が乱れる。
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「補正して」
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即座に調整。
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同期回復。
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「戻った」
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橘が低く言う。
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だが、緊張は消えない。
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「続行」
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削る。
削る。
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時間がかかる。
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だが――
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止めない。
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「……消えた」
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異常細胞。
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完全消失。
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だが、終わりではない。
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「維持」
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再発チェック。
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免疫反応。
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副作用。
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すべてを見る。
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数分。
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変化なし。
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さらに数分。
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安定。
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「……終わった」
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業継が言った。
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静寂。
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誰もすぐには動かない。
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「……成功だな」
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橘が小さく言う。
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業継は、何も言わなかった。
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ただ、
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ベッドの上の人間を見ていた。
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呼吸。
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安定している。
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数時間後。
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状態確認。
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「……転移などはありませんでした」
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一条が言う。
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「明確に改善しています」
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その一言で、
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すべてが決まった。
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業継は、ゆっくり息を吐いた。
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「……できた」
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『はい』
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アークが答える。
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ナノマシン。
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それはついに、
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人間を治療した。
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夜。
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業継は一人で座っていた。
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「人に使っちゃったね」
『はい』
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「もう戻れないよ」
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『はい』
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それは、はっきりしていた。
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一度使った技術は、
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もう“なかったこと”にはできない。
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「……どうなると思う」
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『外部影響の増大が予測されます』
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当然だった。
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この技術は、
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隠せない。
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「だよね」
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業継は小さく笑う。
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怖さはある。
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だが、
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それ以上に――
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「あの人は助かったね」
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『はい』
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それがすべてだった。
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ナノマシンは、
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ついに“人間を救った”。
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それは奇跡ではない。
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技術だ。
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だが――
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世界は、それを奇跡と呼ぶ。
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そして、
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奇跡は必ず、
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奪われる。
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九条業継は、その中心に立っている。
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もう、後戻りはできない。




