表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/28

第17話

 翌朝の箱庭園は、いつもより静かだった。

 子どもたちの声は聞こえるのに、その響きがどこか薄く、遠い。

 まるで、施設全体が深い霧の中に沈んでいるようだった。


 凛は食堂の隅に座り、アヒルを抱いたままぼんやりと前を見つめていた。

 その視線は、現実のどこにも焦点を合わせていない。

 まるで、別の層を見ているようだった。


「凛ちゃん、おはよう」


 悠が声をかけると、凛はゆっくりと顔を上げた。


「……おはようございます」


 その声はかすれていて、どこか乾いていた。

 眠れていないのか、目の下には薄い影が落ちている。


「昨日の夜……また眠れなかった?」


「……眠れました。声が……そばにいたから」


 凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。


 ――だいじょうぶ。

 ――ぼくがいる。


 胸の奥で声が囁く。

 その囁きは、以前よりもはっきりしていた。

 まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。


「凛ちゃん、その声……何て言ってるの?」


「……“呼んでる”って」


「呼んでる……?」


「……はい。“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……ずっと言ってます」


 凛の声は震えていたが、恐怖ではなかった。

 むしろ、胸の奥に“安堵”のようなものが広がっている。


「凛ちゃん、それ……怖くないの?」


「……怖くないです。だって……声がいるから」


 その瞬間――

 凛の背後で、白い影がふっと揺れた。


 悠は息を呑んだ。


 影は、確かに“そこにいた”。

 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛を見ていた”。


「……凛ちゃん、後ろ……」


「大丈夫です」


 凛は振り返らずに言った。

 その声は静かで、深くて、どこか遠かった。


「……あれは、私を守ってくれるから」


 白い影は、凛の肩に触れるように揺れた。

 その動きは、まるで“呼吸”しているようだった。


「凛ちゃん……最近、声は強くなってる?」


「……はい。前よりずっと……近いです」


 凛は胸に手を当てた。


「……ここに、います。ずっと……ここに」


 悠の背筋がぞくりとした。


「凛ちゃん、その声……何を望んでるの?」


「……私を、呼んでます」


「どこに?」


「……向こう側です」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。


「……声のいるところに」


 その瞬間――

 凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 まるで、凛の身体から“別の影”が生まれたように。


「……今、何か……」


「大丈夫です」


 凛は即座に言った。

 その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。


「……声が言ってます。“気にしなくていい”って」


 悠は凛の横顔を見つめた。

 その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。


「凛ちゃん……」


「……佐伯さん」


 凛はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、どこか“別の世界”を映しているようだった。


「……私、もうすぐ……“向こう側”に行くんだと思います」


 悠は息を呑んだ。


「凛ちゃん、それは……」


「……声が言ってます。“凛は特別だよ”って」


 その瞬間――

 食堂の扉が開いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろ活動の時間ですよ」


 園長だった。

 柔らかい笑みを浮かべ、二人を見つめている。


 凛はびくりと肩を震わせ、アヒルを抱きしめた。


「……園長先生」


「大丈夫かい?顔色が少し悪いようだけど」


「……大丈夫です」


 凛の声はかすれていた。

 けれど園長は気に留める様子もなく、ただ優しく微笑んだ。


「そうか。ならいいんだよ。凛ちゃんは……特別だからね」


 その言葉に、凛の肩がまた震えた。

 アヒルを抱く腕に、無意識に力が入る。


 ――聞かなくていい。

 ――ぼくがいる。


 声が強く囁く。

 凛は目を閉じ、震える息を吐いた。


 悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が芽生えた。


 ――凛の世界は、もう“呼ばれている”。

 ――そして、その呼び声は日に日に強くなっている。


 箱庭園の空気は、今日も静かすぎる。

 優しすぎる。

 そして――何かを隠している。


 午後の活動が始まっても、凛の様子はどこか不安定だった。

 子どもたちが絵を描いたり、積み木を積んだりする中で、凛だけが“別の空気”をまとっている。

 視線は宙を漂い、返事は遅れ、動きはどこかぎこちない。


 悠は少し離れた場所から凛を見守っていた。

 凛は机に向かって座っているが、手は動かない。

 アヒルを抱いたまま、じっと一点を見つめている。


 その視線の先には、何もない。

 けれど凛の目は、まるで“誰か”を見ているようだった。


「……凛ちゃん?」


 悠がそっと声をかけると、凛はゆっくりと顔を上げた。


「……佐伯さん」


 その声はかすれていて、どこか乾いていた。

 目の奥には薄いひびのようなものが見える。


「大丈夫? さっきからずっと……」


「……聞こえるんです」


「聞こえる?」


「……はい。“呼んでる”って」


 凛は胸に手を当てた。


「……ここから、聞こえます」


 ――こっちだよ。

 ――もうすぐだよ。


 声が囁く。

 その囁きは、以前よりもはっきりしていた。

 まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。


「凛ちゃん、その声……何を言ってるの?」


「……“来て”って言ってます」


「どこに?」


「……向こう側です」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。


「……声のいるところに」


 悠の心臓が大きく跳ねた。


「凛ちゃん、それは……」


「……怖くないです。だって……声がいるから」


 凛はアヒルを抱きしめ、目を閉じた。


「……“凛は特別だよ”って……“もうすぐだよ”って……ずっと言ってます」


 その瞬間――

 凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 まるで、凛の身体から“別の影”が生まれたように。


「……今、何か……」


「大丈夫です」


 凛は即座に言った。

 その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。


「……声が言ってます。“気にしなくていい”って」


 悠は凛の横顔を見つめた。

 その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。


「凛ちゃん……最近、影は見える?」


「……見えます」


「どんなふうに?」


「……前より、近いです。ずっと……そばにいます」


 凛はゆっくりと視線を横に向けた。

 その先には、何もない。

 けれど凛の目は、確かに“誰か”を見ていた。


「……ほら、そこに」


 悠は息を呑んだ。

 凛の横で、空気がふっと揺れた。


 白い影が、そこにいた。

 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛の肩に手を伸ばしていた”。


「……凛ちゃん、離れて!」


「大丈夫です」


 凛は微笑んだ。

 その笑顔は、どこか“壊れかけている”ようだった。


「……あれは、私を守ってくれるから」


 白い影の手が、凛の肩に触れた。

 その瞬間、凛の身体がふっと揺れた。


「……あ」


「凛ちゃん!」


 悠が駆け寄ろうとした瞬間――

 影の手が、凛の肩を軽く押した。


 押した、というより“引いた”。

 向こう側へ。

 境界の向こうへ。


 凛の視界がふっと揺れた。

 床が遠ざかり、空気が歪む。


「……こっちだよ」


 声が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛はアヒルを抱きしめ、目を閉じた。


「……うん。行く……」


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が凛の腕を掴んだ。

 その瞬間、影の手がふっと消えた。


 凛ははっとして目を開けた。


「……佐伯さん?」


「大丈夫? 今、倒れかけて……」


「……倒れてないです」


 凛は静かに言った。

 その声は、どこか“別の世界”から響いているようだった。


「……声が、支えてくれましたから」


 悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。


 ――凛は、もう“呼ばれている”。

 ――そして、その呼び声は日に日に強くなっている。


 そのとき、部屋の扉が開いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」


 園長だった。

 柔らかい笑みを浮かべ、二人を見つめている。


 凛はびくりと肩を震わせ、アヒルを抱きしめた。


「……園長先生」


「大丈夫かい?

 顔色が少し悪いようだけど」


「……大丈夫です」


 凛の声はかすれていた。

 けれど園長は気に留める様子もなく、ただ優しく微笑んだ。


「そうか。ならいいんだよ。凛ちゃんは……特別だからね」


 その言葉に、凛の肩がまた震えた。


 ――聞かなくていい。

 ――ぼくがいる。


 声が強く囁く。

 凛は目を閉じ、震える息を吐いた。


 悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛は、もう境界のすぐ手前にいる。

 ――そして、声はその境界の向こうから、凛を呼び続けている。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ