第8話
執事部屋を出たセグレトは、ルーティン通り一日最後のお伺いに伯爵の部屋へ向かった。
手には貿易ギルド関係者の手紙の束があった。
貿易税を下げてくれ、管理費を下げてくれ、事業改善はいつ行われる?、私達との話し合いの場を設けてくれ、貿易管理の責任者を辞めろ……どれも「二度と私に見せるな」と言われた内容だ。
これを渡せばまず間違いなく、また鞭で打たれるだろう。手紙を取る手が震えたが、伯爵の心を変える、これが最後の機会だと思い持って来たのだった。
ノックをして名乗ると、すぐに入れと声がした。
カールした茶髪に黄色い瞳、ドレススーツの上着を脱いだ格好で、伯爵はいつものように足を組んで長椅子に座っていたが、なにか考え事をしている風だった。
セグレトは長椅子の端に近づいた。
「旦那様、ご用はごさいませんか?」
「そうだなぁ……」
どこか上の空だが、その目がセグレトの持つ手紙をとらえると、キッと鋭くなった。
伯爵はその目つきのまま、セグレトを睨みあげた。
目が合ってもセグレトに恐怖はなかったが、傷を受けた体は自然と強張り、手紙を持つ手に力が入った。
伯爵はセグレトより小柄で細い、しかし、雇い主の立場と残忍な行いが絶対的な主従関係を作っていた。
セグレトがその気になれば抜け出せるが、彼はまだ主人を信じていたかった。
最後の望みをかけて、手紙を差し出した。
「旦那様」
「それどころではないのだ」
長椅子にふんぞり返った伯爵を見て、セグレトの胸はギリギリと痛んだ。差し出した手は急激に力を失った。
「チェリーナがえらくご機嫌ななめでな。なんとかしてやらねばならん」
実際はご機嫌ななめどころではなかった。
「お父様!! クラリオン伯爵に酷いことされたの! 私が開いてあげたパーティーを途中で帰ったのよ!? それに、それに……あの人の存在自体許せないの! なんとかしてぇ!!」
そう泣きつかれて、弱り果てていた。
娘を泣かされたのはもちろん許せないし、自分だって若造伯爵がチヤホヤされていて不愉快に思っていた。しかし、さすがに存在を消すわけにはいかないし、できないし、どうしようかと盛大にため息をついた。
そして、セグレトを見上げた。
「とりあえず、娘の欲しいものでも聞いて与えよう。すぐに用意するんだぞ」
「はい、承知いたしました……それから、パーティーが途中でお開きになってしまったお詫び状を、お客様方にお出しいたしますか?」
詫び状はセグレトが代筆していた。
筆跡は極力真似たが、バレていていつか非難されないかと心配していた。
幸い、セグレトの真心のある詫び文のおかげか、どこからも文句が来る気配はないが。
「フンッ、パーティーがお開きになったのは、クラリオンが帰ったせいだろう! なんで、こちらが詫び状を出さねばならん? 放っとけぇっ」
「……」
苦悩顔で返事をしないセグレトを、伯爵は歯を見せて睨んだ。
噛み付く前の犬のようなその顔は、鞭を振る前の顔だった。ハッとして動揺したセグレトに、伯爵はニヤリとして言った。
「今晩は、お前に構っている暇はない。もう、下がれ」
セグレトは何があるのかと眉をひそめたが、伯爵はそれには応えずフンと目を閉じてしまった。
このまま引き下がるか、それとも。
やはり今一度。貿易関係者のためと己の不甲斐なさから食い下がろうとしたが、ソフィアの心配する顔が浮かんだ。
“伯爵に関わらないでください”
その言葉に引き止められた。
「失礼いたします……」
退出して執事室に戻ったセグレトだったが、胸騒ぎがして机の前から動けなかった。
♢♢♢♢♢♢♢
それから一時間ほど後、メイド部屋で寝支度をしようとしていたソフィアはエンリカに呼び出された。
「なんでしょう?」
薄暗い廊下、ランプの明かりに浮かび上がるエンリカの顔は、恐ろしく強張っていた。
魔女か魔物のようで、ソフィアはビクビクと怯えた。
「奥様がお呼びよ」
「奥様が!?」
若いメイド嫌いな奥様が。
チェリーナがママに泣きついたんだとわかった。
「なぜ、呼ばれるかわかっているわね? 奥様だけでなく旦那様も一緒よ。恐らく、セグレトさんと同じ目に遭う事になるわよ……」
パパにも泣きついたんだ。
そして、鞭打ち?
ソフィアの心は一瞬爆発しそうなほど緊張したが、ゆっくりと冷静になっていった。
子供っぽいチェリーナが両親に泣きつくのは納得だ。
鞭打ちは嫌だ。
「大丈夫よ」
深刻な表情のソフィアに、エンリカはいつも通りに言った。
「私が鍵を開けてあげるから、上手いこと扉の方に行って逃げ出すのよ。縛られないようにね」
「ありがとうございます……!」
意外な救いに輝いたソフィアの眼差しを受けて、エンリカは背筋を伸ばした。
「かと言って私も、危ない目には遭いたくないから、護衛を連れてきたわ」
「護衛?」
エンリカがちょっと顔を後ろに向けた。
暗がりに大男が立っているのがぼんやり見えて、ソフィアはさすがに悲鳴を上げそうになった。