第9話
エンリカに教えられた部屋についた。
ご夫妻のプライベートエリアだ。ノックして名乗ると、扉が少し開いた。
「失礼いたします」
ソフィアが扉を開けると、伯爵がニヤニヤして迎えてゾッとした。その手には、やはり馬鞭が握られている。
初めて伯爵を間近で見る。自分とそう変わらない体格で助かった。それに、貴族特有の線の細さがある。
鞭さえ気をつければと、ソフィアは冷静さを保てた。
「椅子に座れ」
伯爵が背後に行くと、バタン、ガチャリ!と音がして、ついビクリとしつつも部屋を観察した。
シャンデリアに照らされた赤い絨毯の広い部屋だが、家具は真ん中にある粗末な椅子とそばに落ちた縄、横の壁際の奥様が座る長椅子だけだった。
奥様は金髪をアップにして、色白の細身に黒のナイトドレス、ソフィアを見すえる緑の瞳、ニヤつく赤い唇と鋭い爪、魔女か吸血鬼のようで全身から血の気を引かせた。
「さぁ、座れ!」
甲高い声に振り返ると、伯爵が鞭を乱暴に振った。
「逃げ回ってもいいぞ!」
「おほほ、間違って私を打たないように気をつけてよ」
楽しげな奥様にカチンときて、思わず横目に睨んだ。
その間も、伯爵は素振りを楽しんでいるのが視界に映る。
こんな狂った人達に、一秒も付き合いきれない。
エンリカさんの言う通り、上手く逃げないと。
「よくも、娘を騙したな! 罰を受けるがいい!」
そんな時に、伯爵がソフィアをハッとさせることを言った。
これも、親心なのね。
罰を受けねばという気に少しなってきた。
いけない。こんな罰を受けては。
「さぁ、どうした、座れ! それとも逃げるか!?」
伯爵が迫って来たので急いで後ずさり、奥様の方を見た。
奥様はおほほほ、おほほほほと笑いのツボにでも入ったのか。なんにせよ、スキだらけだ。
奥様を盾にしようか?
それは気が引けて、伯爵をかいくぐり扉に向かうことにした。
考えている間に体に当たりそうになった鞭から逃げて、椅子の後ろに走ると伯爵は追ってきた。
「くっ……」
「待て待て!」
部屋を回って扉につき、急いでノブを回すと開いた。
夢中で出ようとすると大男にぶつかった。
刈り込んだ茶髪と髭の丸い顔、肉付きのいい筋肉質な体、シャツとズボンにブーツまではち切れそうだ。
エンリカの護衛改め、力仕事担当の使用人チェーザレだ。
彼はエンリカから旦那様の置かれた状況を聞くと「巻き添えはごめんだぜ」と、その場で仕事を放り出してセグレトに退職を申し出に行き、今はもう出ていくだけの身だった。
ソフィアが脇によけて、チェーザレは部屋に入った。
「キャアアアアー!!」
突然の大男の登場に奥様が悲鳴をあげた。
そして、笑いと悲鳴で酸欠になりハァハァと苦しげに呼吸しながら倒れた。
「おお!? お前、しっかり!」
伯爵は長椅子に横たわった妻の肩をゆすった。
そんな伯爵が落とした鞭を拾うと、チェーザレはそっと忍び寄り、前かがみになりこちらに向いた伯爵の尻に鞭を振り下ろした。
「どりゃ、どりゃ、どりゃ!」
「アウッアウッアウッ!!」
伯爵は鞭打たれる度に体を跳ねさせた。
それから転がりまわり、鞭を振り上げているチェーザレに気づくと床を這いずって逃げはじめた。
体格に似合わない、つぶらな瞳の大人しい性格だから雇ったのに、今のチェーザレは興奮して肌は赤くなり眉も目もつり上がって獣のような呼吸をする荒くれ者になっている。
「伯爵よ、今までのお返しだ。スッキリしたぜ」
「ヒ、ヒドイ奴だ、ヒイヒイ、ゴロツキめ。このままで済むと思うな」
「俺になにかしようってんなら、伯爵様は尻を鞭で打たれて喜ぶ人だと噂を流しますぜぇ?」
この切り返しは、エンリカに耳打ちされたものだ。
「ヒ!? そんなの、嘘だ!」
この返しにも、エンリカは返答を用意していた。
「嘘でもなんでも、そんな噂がチェリーナ様の耳に入ったらどうなりますかね? 嫌われるでしょうなぁ。チェリーナ様の将来にも関わるでしょう」
「ヒ! チェリーナ!? それだけは……」
倒れながらも伯爵が伸ばした手を、チェーザレは強く握った。
「では、今晩のことは、ふたりだけの秘密にしましょうや」
「うんっ……」
伯爵はほっとして気絶した。
倒れた夫妻を眺めたチェーザレは、満足して扉に向かった。
開いたままの出入り口から、エンリカがしっかりと一部始終を見物していた。
その隣で、ソフィアは目を閉じて震えていた。
「私も打ちたかった」
エンリカの呟きにはチェーザレも震えた。
チェーザレは扉を閉め、エンリカが鍵をかけた。
「やってやりましたよ。エンリカさん」
「あなたがこんなに頼もしい人だったとはね。ありがとう」
「ええ、これで思い残すことなく出ていけます……大丈夫か?」
チェーザレに声をかけられて、ソフィアはようやく目を開けた。
「は、はい」
「すまなかったな、最初から俺が行っとけばよかったんだが、まさか女にまで暴力を振るうとは思わなかったんだ。怖い思いをさせたな」
優しい声と肩におかれた温かい手に、ソフィアは涙が出てきた。
「い、いえ。助かりました……」
お辞儀して、涙を急いで拭いた。
「かわいそうに」
チェーザレは同情顔をソフィアに向けた後、憎き鞭をへし折り廊下に放った。
「さて、おふたりが気づく前に戻りましょうや。ん?」
チェーザレが廊下の奥を見たのでソフィアも顔を向けると、角からチェリーナが顔を出してこちらを見ていた。
「様子を見に来たようね。早く寝るように言ってあげて」
「はい」
エンリカの命に、チェーザレはズンズンとチェリーナの方へ向かいながら両手を上げてドスドス走り出した。
「グオオオー!! 早く寝ねえとー! 食っちまうぞーオオオ!!」
「アギャアアァー……!」
チェリーナの姿が消えた後も、悲鳴が絶え間なく響き渡った。
ぼう然とするソフィアとエンリカの元へ、チェーザレが楽しげに戻ってきた。
「気絶しなかったのは驚きだ」
「だけどこれで、夜中に彷徨くのはおやめになるでしょう」
三人がほっと一息ついた時、バタバタとふたりの男がやって来た。




