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 街頭が円錐形の光を投げかける道を、佐々木直人は前屈みになりながら歩いていた。バイト先の居酒屋から自宅アパートまでの、通い慣れたはずの道のりが、やけに遠く感じる。


 息をする度に、胸のあたりが焼け付くように痛んだ。ついでに、体の節々が激痛を訴えている。おそらく、また熱が上がってきたせいだ。今日一日、何とか仕事を終えることができたのが奇跡のように感じた。


 居酒屋とは言え、接客業である以上、客の前で笑顔以外の表情は見せてはならないのが鉄則だ。店長に苦い顔をされながらも、厨房の仕事に回してもらえたのが幸いだったと思う。


 寒かった。普通なら、風呂に入って体の芯から温まりたいと思うところだ。だが、今はとにかく眠りたかった。たとえ一時でも意識を完全に手放すことができたなら、この苦痛から開放される。


 そう思うのに、自宅までの距離は一向に縮まった気がしない。直人は思うように動かない自分の体に舌打ちしながら、重い体を引きずるようにして歩を進めた。


「こんばんはぁ」


 ふいに眩しい光が投げかけられたと思ったら、わざとらしいほど明るい声で話しかけられた。聞き覚えのない声音に訝しげに振り返れば、そこに立っていたのは、制服姿の警察官だった。


「寒いですねぇ。お仕事の帰りですかぁ?」


 取って付けたような口元の笑み。それと対照的な冷酷な目元。警察官の姿を見止めて、直人はあからさまに表情を歪めていた。


 どう考えても、職務質問だ。この時期の職務質問はとにかくしつこい。いったん引き止められてしまえば、開放されるまでどれほど時間がかかるか分からない。一分でも一秒でも早く眠ってしまいたい直人としては、まさしく暗澹たる思いだった。


「風邪ひいて具合悪いんだよ。さっさと帰らせてくれねえかな」


 無駄と知りつつ、直人はつい本音をぶつけていた。中年と呼ぶには若い警察官は、わざとらしいほど驚いたような顔をしてみせる。


「風邪ひいてるのに、こんな時間までどこに行ってたんですか?」


「仕事に決まってんだろ、ボケ!」


 具合の悪さも相まって、警察官の問いかけに答える直人の声音には自然と険しくなる。警察の方は、余計に直人に対する不信感を増したように見えた。


「風邪なのに仕事?」


「当たり前だろ!」


 警察官は直人の言い訳に、全く納得した様子を見せなかった。そんな態度が、ただでさえ張り詰めている直人の神経を逆撫でした。自分もそうだが、仕事に出なければ明日どうなるか分からないような連中はごまんといる。


 風邪をひいたから、という理由で有給休暇を取れるような連中には、仕事を一日休むことでその先の将来が一気に不安定になる恐怖や焦燥が分かるはずもない。


「何でもいいから帰らせてくれ。マジでしんどいんだよ」


「お仕事先は、どちらです?」


 内心に渦巻く真っ赤な感情を、目の前の警察官にぶつけることさえ億劫な直人だったが、警察官の方は彼の訴えなど全く聞く耳を持っていないようだった。仕方なく、直人は勤め先である居酒屋の名を告げた。


「随分とお若いように見えますが、歳はお幾つですか?」


「十八!」


「へえ、何年生まれですか?」


「へーせー六年!」


「平成六年? 若いなあ。西暦で言うと?」


「一九九四!」


「九四年! そうかあ、ちなみに、干支は?」


「いぬ!!」


 今までの経験上、聞かれることはだいたい一緒だ。直人としては事実を答えているだけなのだが、警察官は苦笑いしただけだった。


「警官に声をかけられること、よくあるんですか?」


 曖昧に頷くと、警察官はすっと表情を無くし、その視線を下げた。


「大変失礼とは存じますが、所持品検査をさせてもらえますか」


 面倒くさいと思いつつも、直人は大人しくポケットの中のものを差し出してやった。財布に携帯電話、そして家のカギ。持っているものは、それだけだ。母親と折半することになってはいるものの、家賃の支払いが間近に迫っているため、缶コーヒーひとつ買うことができない。


 当然だが、見られて困るようなものは、何ひとつない。これ見よがしに空っぽになったポケットを裏返して見せ付けてやると、警察官の口元が僅かに引きつった。


「ところで、風邪ひいて具合悪いと言ってましたが、病院は行かれたんですか?」


「行ってねえよ。そんな金ねえし」


 こればかりは、事実を口にした方が面倒そうだったので敢えて嘘をついた。その際に、つい視線を逸らしてしまう。その行動を見止めた警察官は少しばかり目を細める。


「風邪ひいてるのに、こんな夜遅くまで仕事ですか。大変ですねえ」


 あんたもな、と嫌味を言ってやろうとしたとき、ふいに視界が狭まり始めた。ちゃんと目を開けているのに、視界の端から次第に暗くなっていく。さながらテレビの電源を落とした際の映像をスローモーションで再生しているような感覚だ。


 膝から力が抜けていくのが分かる。地面と激突するのは痛いし、打ち所が悪ければ後からが大変だ。直人は最後の力を振り絞って、一度アスファルトの上に座り込むようにしてからゆっくりと横向きに倒れた。冷え切った道路の臭いが鼻につく。


 何ともいえないその臭いを嗅いだのは、随分と久しぶりだったように思う。慌てふためいた様子の警察官が近寄ってきて声をかけてきた。だが、直人には答える気力はもうなかった。自分の肩を揺すぶっていた警察官が、携帯電話を取り出してどこかに電話をかけ始めた。


「被疑者はシャブの使用疑惑が……」


 薄れ行く意識の中で、警察官が報告していた言葉の一部がやけに耳に残った。覚せい剤なんて使ったことなどない、という思いは、とうとう口にすることができないまま、直人は意識を手放した。



 その日の診療を終えた薬王木がコーヒーを片手に電子カルテの確認をしていた時、突然けたたましい音をたてて病院の固定電話が着信を告げた。こういう時、たいていは救急車からの搬送以来だ。


 総合医療センターなどの大病院には、否応なく救急患者が集中する。それでなくとも、最近はモラルをなくした患者が待ち時間が短くて済むという理由で深夜の救急外来を受診する率が増えている。


 いわゆるコンビニ受診の増加という問題も重なり、一見して命の危険性はないが、だからと言って見過ごすこともできない患者は個人病院に搬送されることが多くなっている。


「はい、薬王木医院です」


 とっくの昔に帰宅した事務員の代わりに受話器を取れば、まさしく予想通りの内容が告げられた。電話を切った薬王木は、救急隊員からの情報を参考に、カテーテルや輸液の準備を始める。


 場所はここからそう離れてはいないようだった。待つ間もなく、宵の口の住宅街を満たしていた静寂を切り裂いて救急車のサイレンが聞こえてきた。


「脈拍、血圧ともに許容範囲内です。自発呼吸もありますが、高熱とぜい鳴の混じった咳があります」


 救急車で運ばれてきた患者の顔を見て、薬王木は思わず息を呑んでいた。


「直人君!」


 反射的に名前を呼べば、同行していた制服警官が驚いたような顔をした。


「先生、知り合いですか?」


「今朝までうちで入院していたんですよ。ああ、やっぱり。だから言ったのに……!!」


 何か言いかけた警察官を退けて、薬王木は救急隊員と共に直人をストレッチャーに乗せ、処置室へと運んだ。自分で言ったとおり、彼の治療は今朝まで続けていた。よって治療方針の目処を立てることは難しいことではなかった。


 薬材室へと向かい、カルベニンの点滴パックを用意する。すぐにカテーテルで血管へと繋ぐ。意識はないが、バイタルサインを見る限り危険な状態ではない。呼吸が苦しそうなのを見て、薬王木は昨日と同じようにベナンバックスの吸入準備を進めていく。


「入院されていた、ということですが、いつからいつまでのことですか?」


 処置がひと段落ついた後で、制服警官がそう聞いてきた。明らかに、直人に対して何らかの疑惑を覚えている目つきである。薬王木は、警官のその視線を受けて非常に不快な気分を味わった。


「肺炎の疑いで、昨日の夜中に救急で来られたんですよ。まだ入院が必要だと言ったのですが、彼は仕事を休めないと言って、自主退院されました。今朝、十時くらいのことです」


「本当に肺炎を起こしていたんですか?」


「どういう意味でしょうか」


 警察官を真っ直ぐに見据えながら聞き返せば、向こうも負けじと睨み返してきた。


「例えば、急性の薬物中毒なんかで意識不明になったりするでしょう。肺炎と間違えた、なんてことはないんですか?」


 警察官の言葉に、薬王木は開いた口が塞がらない思いがした。


「……薬物の過剰摂取によって、一時的に錯乱状態に陥ったり、意識不明になるというのは事実です。しかし、薬物中毒で肺に特徴的な陰が現れることはありません」


 ついでに、レントゲン写真は偽造が不可能だ、という言葉をさりげなく付け加えてやると、警官は苦い顔をした。


「被疑者が回復したら署に任意同行させますので、そのつもりでいてください」


「いったい何の容疑で」


「違法薬物使用疑惑です」


 警察官の態度に、薬王木は思わず握り締めた拳に爪を立てていた。医療機器が立てる音が、静かな処置室に規則的に響く。患者はまだ目を覚まさない。苦しげだった呼吸が、薬剤の吸入によってほんの少し楽になったように見えた。


「昨夜、彼の尿検査をしています。提出しましょうか」


 覚せい剤の痕跡は、その使用を中止して数日後には尿検査で反応しなくなる。回復してから、というその言葉に強い不振を覚えた薬王木は、してもいない尿検査のことを持ち出した。すると、警察官が明らかに苦い顔をした。


「彼は、本当に病気で苦しんでいるんです。薬物の禁断症状ではありえません。お引取りください」


 強い口調で言ったのだが、警察官はまだ自分の間違いを認める気になれないらしい。


「先生が、どうしてそこの患者のことをそんなに庇うのかは知りませんが、こちらとしてもですね、違法薬物使用の疑いがある被疑者を事情聴取もせずに帰すわけにはいかんのですよ。目が覚めるまでそこの待合室で待たせてもらいます」


「ご自由に」


 自分でも驚くほど冷たい声音が出た。処置室を出て行く警官の後姿を見送り、薬王木は強い疑心に駆られていた。


 最近、芸能人の覚せい剤使用疑惑が相次いで世間を騒がせたせいか、メディアが率先して薬物中毒患者の現実を報道するようになった。結果、薬物中毒患者に独特の雰囲気は、広く一般に認知されるようになった。


 風邪などによる体調不良と薬物中毒による酩酊状態では素人目にも明らかに違うと断言できる。それでもなお制服警官が患者の薬物使用疑惑にこだわるのはなぜなのだろうか。頭の中に矢沢のくたびれた顔を思い浮かべながら、彼は点滴を調整した。



 見上げた空はどんよりと暗く、厚く垂れ込めた雲のせいでいつも以上に天が近く感じられた。ふいに空気がしん、と静まり返ったと思ったら、灰色の雲の中から真っ白な雪が舞い踊り始めた。


 かつての恋人が言った。雪はまるで天使の羽だ、と。矢沢は言った。こんなに羽が抜けたら天使がハゲる、と。結果、学生時代の恋は一ヶ月で終わりを告げた。


「何してるんですか、矢沢さん。さっさと行きますよ」


 これから踏み込むことになる場所にささやかな抵抗を感じていた矢沢だったが、黒木はまるでカフェテリアにでも行くかのような軽い足取りでさっさと先へ行ってしまう。待ってくれ、とはプライドが邪魔して口にできず、彼はやや足早にその背を追いかけた。


 学生たちが行き来する朝のキャンパスは、矢沢の存在を非常に浮いたものにしていた。不振そうな、あるいは興味深そうな視線にさらされながら、彼は綺麗に舗装された舗装された構内を進んで行った。


 このあたり、高校卒業後すぐに警察官になった矢沢のささやかなコンプレックスであったりする。


 吐く息が白い。コートの襟をかき合せるようにして歩く矢沢は、粉雪が舞うキャンパスをジャージ姿でランニングしている学生たちを少しばかり羨ましげに見つめた。いつからだろうか。夏が、短くなったのは。


「もしかして、昨日お電話いただいた矢沢さんですか?」


 学び舎というものは、そこに入る資格のない者を徹底的に拒絶する要塞のようだと思う。そんな校舎に見下ろされ、つい足を止めてしまった時、いきなり背後からそんな声がかけられた。


「そうですが……」


 振り向いたそこに立っていたのは、六十代前後と思しき老年の紳士だった。やたらエネルギッシュでファッショナブルなその装いを目の当たりにして、矢沢は自分に声をかけてきた人物が誰なのか、一瞬、見失ってしまっていた。


「寄生虫学の、睦月教授ですか?」


 矢沢の代わりに、相手に確認したのは黒木だった。彼女に言われて、紳士は上品な笑みを浮かべる。


「はい、そうです。刑事さんですか? いやぁ世の中にこんなに美しい刑事さんがいるなんて、日本もまだ捨てたもんじゃあないですねえ。こないだ交通違反で切符を切られた婦警さんは、妖怪にモテそうな雰囲気だったのですが」


「婦人警官は基本的にモテるものですよ。警察官に限っての話ですけれど」


 自らに与えられた美しいという形容詞は否定せずに、黒木はさらりと受け流す。そして彼女は改めて教授に視線を向けた。


「驚きました。寄生虫の専門家だと窺っていたもので」


「そうですか? いやあ、参ったなあ」


 相手に対して、無意識に奇人変人のイメージを抱いていた矢沢は苦笑するしかない。


「それにしても、ちょうどよかったです。実は寝坊してしまいましてね、警部さんとの面会に遅刻するかと思っていたんです」


「いや、こちらとしてもちょうどよかったですよ。面倒な手続きをしなくて済みましたから」


 事実を口にすれば、教授は人好きのする笑みを浮かべた。


「それはよかった。それで、どこで話ますか? 僕の研究室でもけっこうなんですが、ちょっとばかり散らかっておりまして……」


 どこか言いにくそうに語る教授を見やり、矢沢と黒木は同時に笑みを返していた。


「けっこうですよ。たいていのものは、見慣れていますので」


 矢沢の答えを聞いて、教授はぎこちなく頷いた。こちらへ、と案内を始めたその背を見やり、矢沢と黒木は目配せしていた。


 教授に案内されるまま、二人は構内を抜けて北棟の端にある彼の研究室の前へとやって来ていた。途中、すれ違う学生たちが何事かと睦月に視線を投げかける中、矢沢は興味深そうにあちこちを見回してしまっていた。いろいろと物珍しいものがあったが、最も珍しかったのは美人な女子大生であった。


「ここです。……まあ、細かいことは、気にしないでください」


 そう言って、睦月は研究室の扉を開けた。同時に、空気が運んできた臭いに二人は思わず閉口する。そこから流れ出る臭気は、どう考えても哺乳類の排泄物の臭いだった。


「き、教授、ここで、何を?」


 一瞬、頭を過ぎったのは“こいつ、やりやがった”という思いだった。世の中にはとても理解できないような性的趣向を持っている人間など、掃いて捨てるほどいる。


 ついでに、彼の周囲には瑞々しい肉体とあどけなさを併せ持った女子大生が溢れているのだ。ビデオ鑑賞しながらの自家発電では我慢できなくなっても、不思議ではない。どうやら黒木も似たようなことを考えているらしい。睦月教授の背中を見つめるその視線が、完全に冷めていた。


「昨日、日本海裂頭状虫……俗に言うところの、サナダ虫の駆虫作業をしたんですよ。知り合いのドクターと一緒に」


「さ、サナダ虫ですか」


 どこか懐かしい響きを持ったその言葉を聞いた途端、説明されてもいないのに部屋の臭気の理由が納得できた気がした。一方、サナダ虫や回虫といった虫に全く縁がない時代に生まれ育ったらしい黒木は、依然として刺し殺すような視線で教授を睨んでいる。


「患者さんから出てきた虫は宝物ですからね、きちんと処理したんですが、昨日はプライベートな用事ができてしまいまして、それでいろいろと片付けができないままで」


 何でもないことのように笑いながら語る教授だったが、二十一世紀の日本で、トイレ以外の場所に排泄物があるという状況にはどうにも違和感が拭い去れない。


「最近はサナダ虫に罹る患者さんがとても少なくなって来ましてね。僕としては、とても残念に思います。サナダ虫は人間を終宿主にしている寄生虫ですから、先進国で飽食の時代に生きている人にはむしろ益虫でさえあるのに」


 教授の部屋らしく、室内の壁という壁には本棚が置かれ、そこから零れ出るほどに本が溢れていた。教授が宝物だと断言したサナダ虫のホルマリン漬けは、大切に保管されているのか、矢沢たちの目に留まる場所には置かれていない。


 窓の前も本棚で埋もれているため、部屋の中はとにかく薄暗い。蛍光灯の明かりの下、部屋の中央には大きめのタライが置かれ、その中には見覚えのある物体が溶けて漂っていた。黒木の目に浮かぶ嫌悪の色が、より一層濃くなった。


「そう言えば、いつの間にやら虫に罹る人はいなくなってしまいましたね。昔はよく虫を口から吐き出したとか、ウンコしてたら虫も一緒に出てきたとか、そういう話が当たり前だったのに」


「水洗トイレが普及したからですよ。でも回虫症は、また増えて来ているんです」


「そうなんですか?」


 教授はいそいそと片付けを進めながら、さも楽しくて仕方がないといった表情で語り始めた。一度は根絶に近付いたはずの回虫症が再び台頭してきたという話に、矢沢は個人的な興味を覚えた。


「つかぬことをお伺いしますが、それはまたどういった理由で?」


「回虫症ですか? 原因は有機栽培野菜ですよ。流行っていると言いますか、みなさん大好きでしょう? 有機肥料っていうのは、動物の糞のことなんでですがね、意外とそういう部分を気になさる方は少ないようで」


 教授の言葉に、黒木の顔色が変わったのが分かった。


「有機栽培野菜をきちんと洗わないまま、火を通さずに食べたりすると、肥料として使われた糞の中に混じっていた回虫の卵も一緒に飲み込んでしまうんです。回虫が大量に寄生したせいで腸閉塞を起こし、緊急開腹手術になったという例もあります」


 説明を聞いて、矢沢は妙に納得した。定位置である矢沢の左側やや後ろに立っている美しい警察官もそうだが、現代人は何でもかんでも除菌して回り、抗菌グッズで身を固め、他人を汚いもののように排除して生きる連中が非常に多い。


 一方で、動物の糞で育てられた野菜は「有機栽培だから」「無農薬だから」という理由だけでそのまま口にしてしまう。不思議なものだ。


「黒木、お前、ボットン便所って見たことねえだろ」


「ありませんが……」


「昔はどこもかしこも汲み取り式のボットン便所が当たり前だったんだよ。で、夏になったら、便所の底の方にウジが涌いてるのが見えたりしてなあ」


 回虫の話を聞いて昔のことを思い出した矢沢は、ついそんなことを語りだしてしまう。露骨に嫌そうな顔をする黒木を見るのが、妙に楽しかった。


「懐かしいなあ。そうでしたね。虫を殺す薬を入れ忘れたりすると、ウジが便所の穴を這い上がってきたりしてね」


 矢沢の昔話に、教授が乗ってきた。


「トイレの前を通ると、独特の臭いがするんですよね。夏場なんか特にひどい。明るくて清潔な今のトイレからは本当に考えられないですよ。まさしく便所、ですよね。トイレ、ではなく」


 教授の熱のこもった言葉に、矢沢は力強く頷いてしまう。


「そうそう。便所、です。それで、穴の底の方が露骨に見えないようにするためかどうか知らないですけど、どこの家のボットン便所も照明が暗くしてありましたね」


「ああ、懐かしい。そうそう、オレンジ色の裸電球で」


 汲み取り式のトイレの話で意気投合した二人は同時に笑い声を上げる。その横で、黒木はまさしく初めてボットン便所に入った者のような顔をしていた。


「田舎の方じゃあ、未だにボットン便所が多いですよ。山間部なんかだと、上下水道がきちんと通っていない地域が多くてね。もっとも、今では換気するためのファンを取り付けている家庭がほとんどなので、臭いはほとんどないそうです。ついでに、簡易水洗と言って、見た目はほとんど水洗トイレと変わらないものにリフォームする家庭も多いみたいですよ。そういう意味では、昔ながらのボットン便所はめっきり見なくなってしまいましたね」


「へえ、リフォーム? でも、溜まったウンコはどうなるんです? まさか、未だに肥料として畑に撒いているわけじゃあないでしょう」


「まさか。汚物を回収する専門の業者がいるんですよ。バキュームカーで吸い取って、そしてそれを処理施設に運ぶんです。下水道の使用料金よりは安く上がるそうですよ」


 首都に近い場所で生まれ育ってきた矢沢にとっては、このご時勢に水洗トイレがない地域があるということさえ信じがたい話だった。汲み取り式便所の話を聞いて子供時代を思い出してしまうほど、排泄物を水で流さない生活というのは前時代の出来事になっている。


「こちらへどうぞ。お茶くらいは出せますので」


 そう言って教授が案内したのは、更に奥に続く部屋だった。お茶という単語に、黒木がなぜか恐怖の表情を浮かべる。何が問題なのか、矢沢には全く理解できなかった。


 隣の部屋に足を踏み入れれば、そこは所狭しと並べられた寄生虫のホルマリン漬けで溢れていた。保管庫、という単語が頭に浮かぶ。壁際に並べられたラックには、本というよりもデータ集のようなものが多い。意図的に落とされた照明の中、部屋の隅の方に申し訳程度に置かれた応接セットが目に映った。


「ええと、コーヒーはどこにやったかなあ」


 一部の棚をゴソゴソさせる一方、教授はビーカーに湯を入れ、アルコール・ランプで下からあぶっていた。何十年かぶりに遭遇した理科の実験の光景に矢沢は驚きを通り越して感激を覚えた。


 インスタント・コーヒーを見つけ出した教授は、今度は棚の中から小さめのビーカーを二つと、ガラス棒を取り出し始めた。


「ところで教授。そろそろ本題に入らせていただいてもよろしいでしょうか」


 教授の行動を笑いながら見ていた矢沢の代わりに、中腰でソファに腰掛けている黒木がいつもより白い顔でそう切り出した。


「寄生バエについてのご意見を伺いたいんです。過去に、ハエが人体に寄生した例はありますか? それは、どのような症例でしょうか? その場合、ハエは自然発生したものでしょうか?」


 矢継ぎ早に投げかけられた質問に、コーヒーが入ったビーカーを変色した雑巾で包んでいた教授は呆けた顔で振り返る。矢沢は見た。黒木の眉間に、シワが深く刻まれたその瞬間を。


「刑事さんがどうして寄生ハエのことを調べているんですか? てっきり、うちの孫が何かやらかしたのだとばかり……」


「お孫さん、何か問題でも?」


 聞かれたことには答えず、矢沢は彼の言中に出てきた人物について言及した。すると、教授は曖昧に言葉を濁してしまった。


「それより、ハエが人間に寄生することは、有り得る話ですか?」


「それはまあ、海外に限って言えばよくあります」


 サラリと言い放った教授は、ビーカーを矢沢たちの前にゆっくりと降ろす。黒木は顔を引きつらせたまま硬直してしまった。


「症状も千差万別です。すべて説明していたら、三日後の朝になってしまいますよ。刑事さんたちが知りたいのは、どんなハエの症状でしょう」


 そう切り出されると、矢沢としては少しばかり気が重い。捜査中の事件について一般人に情報が漏洩するのは極力避けたい。無論、今回は事件性がないと断言されたようなものだが、長年の経験からどうしても説明することに抵抗がある。しかしながら矢沢とてベテランだ。内心の不快感を表に出すようなことはしない。


「どんなハエか分からないので、専門家である先生に伺いに来たんです。生きた人間にハエが寄生したら、どんな症状が出ますか」


「刑事さんたちは、何の前触れもなく今年一年でどんな犯罪が起きましたか、と聞かれて、すぐに答えられますか?」


 矢沢にじっと見据えられながらも教授は特に怯む様子を見せなかった。そして何か考え込むような仕草の後で、彼は決心したように姿勢を正す。


「実は、今ちょうど、日本にはいないはずの寄生ハエの分析をしている真っ最中なんです」


 教授のその言葉に、隣で中腰になっている黒木が腰を浮かせたのを見た。


「孫が、友達が寄生されたと言って夕べ持ってきたんです」


「お孫さんが?」


「そうです。寄生虫のことに関してだけならば、私より孫の方が詳しくなってしまいました。寄生ハエのことも、孫の啓介に聞いてもらった方が正確かもしれません」


 教授の言葉には、何かしら含みがあるような気がした。無言で矢沢に注視されて、教授は気まずげに視線を逸らす。その様子を見て、矢沢は何かある、と確信した。


「性根の優しい、いい子なんです。勉強だって、していないだけでできないというわけではない。しかし……どうにも、その……」


 言いよどんだ教授は、思いつめたような顔でソファから立ち上がると、隣の研究室から写真立てに入れられた一枚の写真を持ち込んできた。過去の一瞬を閉じ込めた四角形の中に、一生懸命背伸びしている少年がいる。矢沢は教授が言わんとしていることを察した。


「確かに、捜査に協力したという事実が、彼の自信に変わるかもしれませんね。こっちとしては寄生ハエの話をしてもらえればいいだけですから。リップサービスくらいはしましょう」


 矢沢の心得たと言わんばかりの発言を受けて、教授は感激したように丁寧な謝礼の言葉を口にした。


「それで、ぜひとも予備知識として、教授から寄生ハエについてご鞭撻お願いしたいのですが」

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