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「帰る?」


 レントゲンを撮影した後、ベッドの上に腰掛けた佐々木直人は、青白い顔に虚ろな表情を乗せながら、そこだけははっきりと口にした。昨夜遅く、彼が親友に付き添われてこの診療所を訪れてから、かれこれ五度目になる診察だった。


「もう大丈夫だから、家に戻る」


 彼の喉から搾り出されるようにして発せられたその声音はひどく嗄れていて、そして消え入りそうなほどに小さかった。だが、確固とした意志が滲み出ていて、薬王木は無意識に溜め息をついていた。


 昨夜から続けている抗生物質の点滴、そしてベナンバックスの吸入により、症状は随分と落ち着いてはいる。だが、バイタルサインが今のところ安定しているからと言って、今現在の患者の容態を見る限り、自宅に帰るという選択肢はできれば拒否したいところだった。


 それに、朝一番で強行したレントゲン検査の結果も気になる。


「せめて、血液検査の結果だけでも待ちませんか?」


 内心の苛立ちや行き場のない感情を、なるべく顔に出さないように気をつけながら、薬王木は患者を刺激しないよう穏やかな声音で問いかける。もう何度目になるとも知れない問いかけだったが、患者の意思は変わらないようだった。


「これ以上、入院するような金がない」


 それを言われると、薬王木は口にできる言葉を極端に制限されてしまう。ギリギリの状態まで病院に罹らなかったのは、金銭的な理由だったのかと、ようやく察しがついた。思えば、昨夜の彼はどう考えても睦月啓介に引きずられながら来院したように見えた。


 ベッドを降り、患者はどこかふらつく足取りで出口へと向かい始める。薬王木は何とも言えない気持ちでそれを見守った。


「なあ、先生。母ちゃんに、連絡ついた?」


 ドアの近くで、少年はふいに立ち止まったかと思うとそんなことを聞いてきた。


「あ、いえ……何度か連絡してみたんですが……」


 咄嗟にありのままの事実をそのまま答えると、少年はどこかほっとしたように表情を緩めた。そして、困惑したような、それでいてどこか縋るような表情で、彼を見上げてくる。


「今月末に、バイト代が入るんだ。先生には、悪いとは思うんだけど……その……」


 予想通りの言葉が、乾燥してひび割れた唇から紡がれる。薬王木は、敢えてその場を笑顔で取り繕った。


「診療代はいつでもいいです。ただ、体は大事にしてください」


 彼がそう答えると、少年はあきらかにほっとした顔で軽く頭を下げた。そしてそのまま、本当に病室を出て行ってしまった。薬王木ははっとして、慌てて追いかけた。


「しばらくは、絶対に安静にしてください。間違ってもバイトに出たりしないように」


 背後からかけられた声音に、少年は億劫そうに振り返りつつ、困ったように笑ってみせた。


「無理。バイトしないと食うモンがねえ」


 働かなければ生きていけない。二十一世紀の日本で、未成年者が口にするそんな言葉に、薬王木は激しい憤りを覚えた。やりきれない思いは行き場をなくし、その場に立ち尽くすしかなかった。



 テレビのコマーシャルで頻繁に見かけるピエロのマークのファースト・フード店であるが、それを実際に口にしたのは矢沢にとって初めての経験だった。興味がなかったわけではない。話のタネに一度、と思ったこともある。


 だが、彼にとってそのファースト・フード店は、どうにも若者向けというイメージが強く、彼のような年代には高級レストランよりも敷居が高く感じられてしまうのだ。


「なかなかイケるな。しかし、腹にもたれる」


「矢沢さん、本当に普段、ロクなもの食べてないんですね」


 上司に向かって平然とそんなことを言ってきたのは橋口である。心の底から可哀相な顔でそう返されて、矢沢は言葉に窮していた。放っておいてくれ、というその一言が、咄嗟に出てこない。こんな時、矢沢は苛立つ自分を自覚していた。


「しかしまあ、最近は本当に世知辛い世の中ですね。つい最近死体で発見された田中邦彦は、もとは優秀な技術者だったって話じゃないですか。それが、退職したら二年もたたないうちに孤独死ですよ。最初の被害者にいたっては、夫からは暴力を受け、子供には見捨てられ、宗教にはまった親戚に悩まされ、国保の取立てに頭を痛め」


「最近に限った話じゃねえだろう。今も昔も人間がやることは変わらんよ。何が問題になるかってだけでな」


 早乙女の言葉を軽く受け流した後、矢沢はアイス・コーヒーを飲み干した。気持ちを切り替え、ホワイト・ボード一杯に広げられた故郷の地図を険しい表情で眺める。


 地図に赤いピンで印が付けられた箇所には病院の名前と、そして患者の氏名、年齢、性別、住所が書き込まれている。つい二、三日前まで元気だった人間が突然ウジだらけになって発見され、慌てた家族あるいは知人が一一○番通報する。今年になってから、そんな事例が四件ほど報告されていた。


 彼らが所有していた診察券を参考に、矢沢、黒木、早乙女そして橋口が朝から聞き込みに行っていた。守秘義務があることを理由に、診療所は情報提供を拒むかと思われたが、意外にも聞き込みに出向いたすべての診療所は、快く情報を提供してくれた。


 結果、矢沢たちは、被害者が死亡する直前に病院に通っていた記録はない、という情報を得た。


「つまり、急死した理由は不明ってことだな」


 一言で纏めてやると、朝から歩き回っていた部下たちの表情が一瞬曇ってしまう。そんなものだ。数百回の空振りを食らい、ようやくひとつの有用な情報を得られることもある。まだ年若い彼らにはそういった現実を身をもって知ることも重要だ。


「普通に考えりゃあせいぜい死斑程度なものだろう。それがどうして、被害者の体はウジだらけになっていたのか。本題はここだな」


 溜め息交じりに言えば、矢沢に向かって黒木が手を挙げた。


「日本では報告されていない症例ですが、ハエが生きた人間の体に卵を産み付けるハエウジ症という病気があります。被害者がもともとハエウジ症に罹っていた可能性はないでしょうか」


 彼女の言葉を聞いて、男たちは一様に顔色を変えた。恐ろしいものでも見るような顔をしている矢沢たちに向かって、黒木は淡々と説明を始める。死体に涌いたウジなら数え切れないほど目にしてきたが、生きた人間に寄生するハエがいることは初耳だった。


「なるほど。体調不良で動けなくなっていたところにハエが産卵してウジが涌いたってことか。しかし、その推測には無理がないか? なぜなら、死体が発見される数日前まで元気そうだったって話がある。四番目の被害者、坂下詩織に至っては死ぬ直前まで元気そうにしていた。ついでに、いくらハエとはいえ、二日かそこらであれほど成長できるモンかね」


 矢沢に言われて、黒木は俯き加減で言葉を濁した。そこへ、早乙女が声をあげる。


「しかし、警部。死体発見の直前まで元気そうな姿を見せていた、と言っているのは被害者の知人だけではありませんか?」


 彼に言われて、矢沢は僅かながら視線を宙に向けた。四番目の被害者である坂下詩織。彼女が避難していた実弟の家族の姿を思い浮かべ、彼は小さく呻いた。


「嘘をついてる印象はなかったが……。早乙女と橋口は、被害者の人間関係を中心に洗いなおせ。元気そうだったと言われている日付が狂うかもしれん」


 頷いた二人が同時に立ち上がり、後片付けもそこそこに早々と聞き込みに出向いていった。


「黒木、お前は俺と来い。専門家に情報提供してもらいに行く」


 了解、と短く答えた黒木が立ち上がる。


「あるいは、その専門家が何かやらかした可能性もある」


 矢沢が低く呟くように言った時、それまでじっと口をつぐんで彼らのやりとりを聞いていた村迫課長がふいに声を上げた。


「分かんねえなあ。なんでウジが涌いたら人が死ぬんだ? うじゃうじゃいるって言ったってよ、しょせん体の上の方の話じゃねえのか?」


「それを聞きに行って来ます」


 苦笑交じりに言って、矢沢はコートを羽織った。



 物憂げな照明が投げかける光の下、壁際に飾られたアンティークの人形が静かに微笑みかけていた。エアコンが稼動する静かな音が聞こえてくる。ホコリひとつ落ちていない床は、一分の隙もなくワックスがかけられ、まるで鏡のように啓介の姿を映していた。


 アロマの優しい香りと、煮物の匂い。花柄の明るいカーテンに、色とりどりの熱帯魚が泳ぐ大型の水槽。天井近くに飾られた、祖父の名が記された賞状。この家は昔から変わらない。家具の位置さえも。


「まるで外人さんね」


 食事を終えた孫のために紅茶を淹れた祖母は、記憶にある姿よりも少しばかり頭に白いものが増えたような気がする。彼女は、穏やかな表情のまま明るい金色の啓介の頭を見て笑っていた。


「その頭、もう元に戻らないの?」


 やや不安そうな顔で聞いてくる彼女に、啓介は曖昧な笑みを浮かべてみせる。


「いや、戻そうと思えば戻せるけどね」


「そうなの? しっかりワカメを食べなさい。啓介くんは絶対に黒髪の方が似合うわよ」


 ワカメを食べても髪は黒くならない、という反論は寸でのところで飲み込んでおいた。祖母相手に常識で挑んではならないのだということは、長年の付き合いで身にしみて知っている。


 紅茶をいただきつつ、さりげなく時計を見上げた啓介に気付きもしない祖母は、ワカメという単語から国民的アニメを連想したらしく、今日の放送の内容についての批評を勝手に始めてしまった。


「啓介! お待たせ!」


 穏やかではあるが、どこまでも一方的な祖母の話に付き合わされることにそろそろウンザリし始めた啓介は、玄関から響いてきたその声音に、浮かしかけた腰を再びソファに沈めた。


 時計の針は午後十時。啓介が東京に到着してから、ちょうど半日が経過していた。


「あら、あなた。おかえりなさい。夕ごはんは?」


「いや、いらん。大学で学生から差し入れがあって……」


「夕ごはんは?」


「ああ、腹が減ったなあ。今日の夕飯は何かなあ」


 どこまでも笑顔の祖母と、冷や汗をかきつつ腹のあたりをさすっている祖父。二人のやりとりも、記憶のままだ。着ていたコートを脱いでダイニングのテーブルに腰掛ける祖父を見やり、啓介もまた紅茶のカップを片手に持って祖父の傍へと向かった。


「啓介はもう飯は食ったのか?」


 そんな質問をしてくる祖父に、啓介は無言で頷いて見せた。突然の孫の訪問に気を良くした、というよりむしろ気を高ぶらせた祖母が大量に作った夕飯を食べさせられたのは三十分ほど前のことだ。今はもう米粒ひとつ見たくない。


「それで、どうしたって?」


 変人で有名な祖父だが、見た目は至って普通である。むしろ、六十代で甘い香りの香水を纏い、流行のストールなどをお洒落に使いこなす祖父はロマンスグレーの呼称がふさわしいかもしれない。食卓につき、慣れた手つきでワインのグラスを傾ける様子もなかなか様になっている。


「友達が、なんか変なのに寄生された」


 寄生、という単語を口にしたその瞬間、祖父の目つきがガラリと変わった。


「ハエの幼虫が背中に涌いてたんだ。半分は今、俺の部屋で羽化を待ってる。じいちゃんには、コレ、何か分かる?」


 荷物の中から、密閉した容器に入れた問題のウジを取り出し、食事中の祖父に手渡した。容器の中で蠢く大量のウジを目にした瞬間、祖母は悲鳴をあげて台所へ逃げ出し、祖父は学者の顔でじっとウジを見つめていた。


 ウジたちは二人の視線にさらされながらも、互いが互いの体を食い合っている。直人の背中からウジを除去した啓介は、その数が随分と減っていることをはっきりと自覚していた。


「ラセンウジバエに似てるな」


 自分と同じ答えを導き出した祖父を見て、啓介は少しばかり愉悦を感じた。


「もしラセンウジバエの成虫が大量に入って来たとなると、アメリカの協力が不可欠になるなあ。不妊虫を生産しているのは、世界中でもアメリカだけだ。まあ、今のところアメリカとは友好関係にあるから大丈夫だろう。たぶん。うん……これでまた日本はTPPに参加させられる可能性が高くなったか……」


「じいちゃん。そんなことより、聞いてくれよ」


「“そんなこと”……」


 僅かながら複雑そうな顔をする祖父を無視し、啓介は初めて幼馴染の背中からウジを除去した時から今日に至るまでの経緯を簡潔に語った。


「他に症状は?」


「肺炎っぽい感じ。昨日はレントゲンを撮るどころじゃなかったから、確定はしてないけど」


 啓介の答えに、祖父は曖昧に頷いていた。啓介は紅茶をテーブルに置き、身を乗り出すようにして話を続ける。


「肉食のハエに寄生されて、それが原因で敗血症を起こすって症例はあるだろ?」


 少しばかり考え込んだ後で、祖父は肯定した。不思議そうな顔をした啓介に向かって、祖父はゆっくりように口を開いた。


「……ハエウジ症が原因で敗血症を発症するまでには、それなりの時間が必要になる。それだけの間、友達は背中の寄生に気付かなかったのか?」


 啓介は答えに窮した。直人は、自分の生活費は自分で稼いでいる。多少の不調があってもバイトには出るだろう。実際に背中が痛いと訴えるまで、彼が何らかの変調を感じていた可能性は充分にある。


 だが、体調が悪いからと言ってバイトを休むという選択肢はまず考えられない。結果として、耐え切れなくなるまで放っておいた挙句に病状が悪化してしまったと考えるのが普通だろう。


 それに、幼い子供ならまだしも、直人は十八歳で、自立している。保護者である母親がそこまで彼のことを気にかけるとは思えない。


 ついでに、まだ高校に席を置いている啓介の両親も、ほとんど家には帰ってこないし、顔を合わせても必要最低限の連絡事項以外、言葉を交わすことも無い。そんなものだ。


「昨日の夜になって急に調子が悪いって言い出したんだけど、それまでは普通だったと思う。少なくとも、俺には直人がそんなに具合が悪そうには見えなかった」


 どこか罪悪感を含んだ啓介の言葉を聞きながら、祖父は仕草だけは優雅にワインを口に運んだ。


「実際に見てないから何とも言えないが、通例的に見れば、ウジの寄生が原因で肺炎が引き起こされた可能性は充分ある」


 思いがけない回答に、啓介は僅かながら目を見開いていた。


「それ、どういうこと? ハエウジ症が原因で肺炎?」


 意外そうに聞き返す啓介を見やり、祖父は真剣な顔で祖母の手料理が乗った皿を、脇に押しやった。


「お前もよく知ってると思うが、肉食のウジってやつらは、とにかくタチが悪い。まず、ハエウジ症が原因で敗血症が起こる。そして、敗血症を引き起こせば、もともと免疫力が低下している場合が多いから、常在菌由来の感染症が出現することがある。もともと風邪をひいていて、それをこじらせたのかもしれない。あるいは、日和見感染かもしれない」


 祖父の言葉を黙って聞いていた啓介は、表情もなくただ頷いていた。日和見感染、と聞くと後天性免疫不全症候群という言葉が頭に浮かぶ。彼の母親を知っているだけに、可能性がないとは言い切れない。


 治療法が確立されていない病を思うと、心には不安が広がっていく。啓介のそんな心情を他所に、祖父は腕を組んで視線を落としていた。


「しかし、不思議な話だな。あまり考えたくはないが、寝たきりで放置されたとしても、日本でハエウジ症が起こるとは考えにくいぞ。今が夏ならまだしも」


 言いながら、祖父は手の中で興味深そうにウジの詰まった容器を回転させ始めた。淡いライトを浴びて、プラスチックがキラキラと光る。まるで特別なものでも入っているかのような印象を受けるが、中身はおぞましい死肉食らいだ。


 しかも、今回は生き人の肉を食らうという暴挙に出た虫である。啓介自身、興味はあるが愛着は全く沸かなかった。


「この虫、大学で分析してみよう」


 いろいろと考えを巡らせていた啓介に向かって、祖父の頼もしい一言がかけられた。安堵の表情を浮かべる啓介とは対照的に、祖父は険しい顔を崩すことはなかった。


 常人であれば見ているだけで嫌悪感を催してしまう、大量のウジ。それが詰まった容器を真剣そのものの表情で眺めている祖父を見ていると、身内でありながら一線引いた付き合いを心がけようと決意した父の気持ちが分からないでもない。


 だが、啓介は物心ついたころから滅多に家にいない両親よりも、博識でユーモアもあり、寄生虫学のために海外にも連れて行ってくれる祖父の方が好きだった。


「場合によっては、大事になるかもしれん。啓介、余計なことは喋らずにおとなしくしてなさい。分かってはいると思うがな」


「分かってるよ。俺、じいちゃんと違って変人扱いされたくねえし」


 揶揄を含んだ啓介の言葉に、祖父はバツが悪そうに笑って誤魔化した。そして、どこか心配そうな眼差しを啓介に向けてる。


「ほとぼりが冷めるまで、その友達には近付かない方がいい、と言っても無駄だな?」


「ムダ。あいつの変な病気は俺が治す」


 啓介としては本気で言った言葉だったのだが、なぜか祖父には爆笑されてしまった。ひとしきり笑った後、あけすけにむっとした顔をしている啓介の肩を、祖父は力強く叩いた。


「しっかり頑張れ、少年医」


 啓介が眉をひそめた時、祖父の携帯電話がけたたましい音で鳴り始めた。

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