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 午前八時のコーヒーが妙にまずかった。書類が山積みにされた自分のデスクで、矢沢はせっかくの息抜きが台無しに終わったことを悟り、深く溜め息をついた。


「おい、これ、どっから仕入れたコーヒーだ。今時、自販機でももっとマシなモン出すぞ」


「お目覚めに良いかと思いまして、コーラを少々混ぜておきましたが、何か不味かったですか?」


 なんでもない顔をして言ってのけてくれたのは、前から見ても後ろから見ても、右から見ても左から見ても全く女性にモテそうにないと断言できる男、橋口だった。


 コーヒーとコーラをシャッフルすれば、それは確かにこういう味になるだろう。納得する一方で、彼は憤慨する気持ちを隠しきれなかった。


「どうしてこういう意味のないことをするんだ!? それでも刑事か、お前は!」


 怒鳴ったときには、橋口の姿はすでに消えていた。幻でも見たのではないかと疑わせるような、そんな一瞬の出来事であった。


「おい、矢沢。ちょっといいか」


 苦虫を噛み潰したような顔でドアを睨んでいたとき、ふいに頭上からドスの利いた声が降ってきた。署内で矢沢を呼び捨てにできる立場の人間など限られている。顔を見ることもなく、矢沢は声の主を察した。


「コーヒーが不味いとかほざいてたな。だったら、ちょっと出ようじゃねえか」


 捜査一課長、村迫。その迫力の前にノーと言える人間など滅多にいない。一課という激務の中、ノンキャリながら警視正まで上り詰めた村迫には独特の雰囲気が漂っている。


 貫禄がある、とも言うかもしれない。さすがの矢沢も、彼の前では自然と背筋が伸びていた。


「俺のおごりだ」


 付き合いが長い上司とは言え、村迫相手に緊張は隠せない。同時に期待しながら彼の後を付いていった矢沢だったが、村迫が足を止めたのは署内にある自販機の前だった。


「何でも飲め」


 自販機に投入された百二十円を見やり、矢沢は噂は本当だったのだと確信した。課長の夫人は大層な恐妻家で倹約家であるらしい。何でも百二十円分のホット・コーヒーを買っただけでも本日の出費として報告せねばならないのだとか。


 そう思うと、手の中の缶が妙にありがたみを帯びてくる。矢沢は熱い缶コーヒーを大事そうに押し抱いた。


「ちょっと聞いてみたいと思ってたんだがな」


 話を始めた課長にひとこと断りを入れて、矢沢はタバコに火をつけた。課長が禁煙中であることは知っていたが、相手が禁煙中だからと言ってニコチンの誘惑を我慢できないのが喫煙者なのである。


「最近、妙な死体が連続で上がってるだろ。あれ、どうなった」


 課長の口からそのことばが出るとは思っていなかったので、矢沢は少しばかり驚いていた。タバコを一口吸って、彼は軽い溜め息を落とした。


「どうなったもこうなったもありませんよ。検視官をせっついて何とか司法解剖に回したのは一件のみ。結果は所見なしと返ってきた。あとはね、司法解剖に回そうにも事件性を臭わせる決定打がない。だったら行政解剖に回せるかと言えば、こっちにその決定権はない。いつもどおり、伊藤のじいさんが適当な病名で診断書を書いて火葬場へ直行です」


 村迫は何も言わない。腕を組み、眉間に皺を寄せて、何かを考え込むようにじっと視線を床に落としていた。課長がどういう腹積もりなのか知りたかったこともあり、矢沢は黙り込んだまま彼の次の言葉を待った。


 一分待った。まだ村迫は何も言わない。寝ているのではないかと心配になってそれとなく顔を覗き込んでみたが、ちゃんと両目は開いていた。死んでいるのではないかと心配になって、それとなく顔を覗き込んでみたが、ちゃんと呼吸はしていた。


 矢沢が何か言おうとして、その前に一口タバコを吸う。その時、村迫の大柄な体が僅かに矢沢の方に傾いてきた。ようやく何か言う気になったかと思いきや、彼は控えめに深呼吸をしているだけだ。痺れをきらして、矢沢は問いかけた。


「課長、どうかしたんですか?」


 恨めしげな視線が向けられる。


「副流煙って言うんか」


「はい?」


「他人が吸ってるタバコの煙を吸うだけでも……随分違うんだよ」


 両者の間を静寂の時が流れ、やがて矢沢は黙ってタバコの箱を差し出していた。


「何日目ですか」


 ニコチンを肺の奥深くまで吸い込んで恍惚とした表情を浮かべる村迫は、黙って指を四本立てて見せた。


「健闘したほうだと思いますよ」


 寝ている時間は別として、自分ならばおそらく三時間が限界だろう。個人的に、矢沢はニコチン中毒者にとっての禁煙とは切腹にも等しいと思っている。ヤニ切れのあの苦しさは、まさしく経験したことがある者にしか分からないはずだ。村迫の禁煙生活四日間は、彼にとっては他のどんな武勇伝よりも尊敬に値した。


 フィルター直前まで灰にした村迫が、どこか名残惜しそうに灰皿に吸殻を押し付ける。そして身振りでもう一本を要求してきた。残りの本数をさりげなく確かめながらも黙ってタバコを差し出す矢沢に向かって、村迫は抑えた声音で告げた。


「一週間だ」



 火曜日の午前十時過ぎ。本来ならば、学校の教室で授業を受けている時間。しかしながら、高校は卒業できればそれで構わないという程度の気持ちしかない啓介は、自宅のベッドに寝転んでぼんやりと天井を眺めていた。


 否応なしに、啓介の脳裏には直人の姿が思い起こされる。意図的にほかの事を考えようとしても、思考は何かのきっかけからすぐに直人の方へと向かっていってしまう。


 軽く毒づいて、啓介は寝返りをうつ。視線の先には新品同様の教科書が乱雑に詰まれた机があった。机の横には本棚があって、そこには自分の手垢が目に見えるほど読み込んだ寄生虫関係の書籍が所狭しと並んでいる。啓介はベッドから身を起こし、キャスター付きの椅子に座ってその中の一冊を手に取った。


「寄生バエ……」


 本の大半は東京の大学で寄生虫学の研究をしている祖父から譲り受けたものだ。あまり気にしたことはなかったが、裏表紙にはけっこうな値段が刻まれている。祖父が何を思って自分の専門分野の書物を啓介に譲ったのか、啓介には知る由もない。


 一説によると変人の仲間が欲しかったのではないかと言われているが、実際のところは神と祖父のみぞ知る。


 啓介は、捕食寄生を行う昆虫の専門書籍の索引ページを開いた。


 一口に「寄生」と言っても、その形態や方法は様々である。


 人間と日本海裂頭条虫の関係のように、寄生虫がその本来の宿主に寄生した場合、宿主となる動物は重篤な症状を訴えることはまずないと言っても過言ではない。


 日本海裂頭条虫に限り、場合によっては、体重が減少したり花粉症が治まったり、あるいは性欲が増強したりするなどという症状が出るらしいが、大半が気付きもしない。


 なぜなら、宿主の体調に深刻な害を引き起こしてしまえば、寄生している虫の方もその生命活動が危うくなってしまうからだ。


 寄生虫による病変が起きるのは、たいてい本来の宿主ではない宿主に寄生虫が誤って寄生してしまった場合である。現代の日本で最も一般的なのが、アニサキスという体長一センチにも満たない小さな虫だ。


 この寄生虫は、半透明な白い糸状の虫で、サバなどの内臓に潜んでいることが多い。ごくまれに筋肉中に寄生していて、人がそれに気付かず生で食べてしまった場合、それから約六時間前後に猛烈な胃痛に襲われる。


 小さな虫がたった一匹、胃の壁に頭を突っ込んだ程度のことで大人が七転八倒するほどの痛みが起きるとはどうにも信じがたいのだが、この胃痛はアニサキスによるアレルギー反応だ。


 アニサキスに限らず、食品の生食は危険が多い。まさしく、生は当たるのだ、ナマは。


 ちなみに、アニサキスの本来の宿主はイルカやクジラなどの大型海洋哺乳類であって人間ではない。まさしく、寄生虫による宿主の取り違いによる被害の典型である。


 アニサキスの例に限らず、イヌやネコの回虫が人間に寄生すれば、最悪の場合、眼球に迷い込んで失明させる場合があるし、アフリカのジャングルに生息するミドリザルが保有しているウィルスが人間に感染すればエボラ出血熱という恐ろしい病を引き起こす。


 人と豚の間でライフサイクルを回した挙句、人間の体を気付かないうちに虫だらけにしてしまう有鉤条虫や、肝臓に取り付いて肝障害を引き起こす日本住血吸虫などの例もあるので一概には言えないが、寄生虫が本来の宿主に寄生する場合、宿主は目に見える病変を訴えることはないのが、ごく一般的な「寄生」である。


 一方、宿主と一種の共生関係を築いているのが一般的な寄生であるのに対し、捕食寄生の場合は大きく事情が違ってくる。


 有名なのはアオムシコバチなど、狩人バチの生態だろうか。蝶の幼虫が蛹になったはずなのに、蛹から蝶ではなくハチが出てきたというのはそう珍しい現象ではない。


 一般的な寄生と捕食寄生の違いを一言で言うならば、それは積極的に宿主の命を危険にさらしているかどうか、である。捕食寄生された場合、その宿主は百パーセントに近い割合で命を落とす。それゆえに「捕食」寄生と呼ばれている。


 そんなことを延々と考えながら、啓介は人体に寄生するハエについての記述があるページを開いていた。


 日本で生活していると信じられないような印象を受けるが、実際、ハエが人体に寄生するという症例は、熱帯ではありふれた話だ。


 啓介の祖父は、研究のため毎年夏になると必ずアフリカへ飛ぶ。寄生虫学に非常に興味を持っていた啓介は、幼いころから何度もその旅行に同行させてもらっていた。


 メジナワーム、ロア糸条虫、トリパノゾーマ、マラリア……。啓介は、様々な寄生虫症を患う人々を前に、手が足りないと訴える祖父の手伝いをしてきたが、中でも最も身の毛がよだったのは、ハエの幼虫に寄生された十代の少女の治療に立ち会った時だった。


 その女性は、乳房にウジを飼っていた。言葉通りの意味だ。乳頭の周囲に直径一センチほどの穴が六つ空き、そこから体長二センチほどのウジが何匹も顔を覗かせていた。


 治療はウジをピンセットで除去し、傷口を入念に消毒して経過観察ということになった。もし彼女が貧乳だったら、心臓までウジが届いていたかもしれない、と冗談を言って笑う祖父とは対照的に、女の乳房を初めて目にした啓介は、しばらくショックから立ち直れずにいた。


 アフリカには様々な寄生バエが生息する。中でもヒトクイバエと呼ばれる種類は、野外に干してある衣類に産卵する。アフリカで日干しした衣類にはアイロンがけは必須だ。


 彼女の場合、干していたブラジャーから感染したのではないかと祖父は推測していた。


 一般に、海外の人間は男性にしろ女性にしろ、いろいろな意味で非常に逞しい。それに比例してかどうかは知らないが、ハエの方も日本で一般的に見かけるハエよりも強烈というか、逞しいのが常だ。


 衛生環境が劣悪な場所ともなると、元来、辛抱強い性分ではないらしいハエは容赦なく生きた人間にも襲い掛かっていく。


 アフリカの難民キャンプでは、乳幼児の目元に失明を引き起こす可能性があるトラホームを媒介するハエが執拗に群がる光景は日常茶飯事だし、あちらこちらに下痢便が広がっているのも普通だ。


 臍に傷がある新生児は特に、そんなハエたちの餌食になりやすい。


 肉食性のハエは、傷口が腐ってきた臭いを数キロ先から察知し、そこに数百個の卵を産み付ける。やがて体長一ミリにも満たない幼虫が次々に孵化し、腐った肉を食らい始める。


 ハエの幼虫に食われた皮膚は、爛れて出血し、化膿し始めれば、鼻をつく異臭を上げる。すると、そのアンモニア臭に引き付けられ、本来は死肉や汚物しか食わないイエバエなどが寄ってきて産卵を始める。


 そうなれば、傷口は見るに耐えない悲惨な有り様となる。幼虫の成長は早く、孵化から数日で成虫となる。そんな肉食性のハエの代表格としてしばしば名が上がるのが、アメリカオビキンバエである。


 このハエの成虫は、オレンジ色の複眼に、緑がかった腹部を持つ、イエバエよりも僅かに大きいほどのハエだ。このハエによる被害は甚大で、アメリカオビキンバエの生息地である北アメリカ南部の地域では畜産業だけで一億ドルの被害が報告された。人体への寄生例も頻繁に報告されている。


 寝たきりで、あまり介護されていなかった老人の口の中に大量のウジが涌いたという話もあれば、寝ている間に耳や鼻の中に卵を産み付けられた、という症例もある。


 また、アメリカオビキンバエは獲物の体表を刺すことができないため、もともとこめかみにあったニキビに卵を産み付け、被害者の頭に幼虫の巣ができた、なんて話まである。


 彼らは、目や耳、性器や肛門など、哺乳類が生まれながらに有している「穴」にも産卵する。そのため、体表に傷が付いていなければ安全であるという保障はないし、健康であるということがこのハエから寄生を受けないという確証にはならない。


 アメリカオビキンバエの被害に頭を痛めたカリフォルニア州知事は、このハエの駆除を真剣に検討した。結果、あらゆる分野の専門家から、あらゆる意見が寄せられ、エックス線照射によって生殖能力を破壊したオスの固体を大量に投下するという方法が試みられることとなった。


 アメリカオビキンバエのメスはその一生で、たったの一度しか交尾をしない。不妊虫投下作戦は功を奏し、北アメリカに生息していたハエは急速にその個体数を減らしていった。この作戦が有名になり、北アメリカに生息していたアメリカオビキンバエは、その見た目からラセンウジバエと呼ばれている。


 直人の背中にいた虫は、このラセンウジバエの幼虫に姿がよく似ていた。しかしながら、似ているというだけでラセンウジバエと断定することはできない。


 そして、ラセンウジバエに限らず、積極的に人間や家畜に寄生し、新鮮な肉を食らう肉食性のハエは日本には生息していない。それに、直人は流行地に渡航していない。つまり、感染ルートがない。


 それに、つい先日、巣になっている部分から一匹残らずウジを除去したにも関わらず、その翌日には新たな病巣が二つも出現していた。


 何より不思議なのは、直人の部屋にはハエの成虫の姿が一匹も見当たらなかった。ついでに、昨日一日、直人と一緒にいた啓介には全くハエが付きまとう気配がない。


 しばらく考えてみたが、答えは見つからない。久方ぶりに頭を使ってみると、ふいに眠気に襲われた。


「じいちゃんに相談してみようかな」


 風変わりなところがある祖父だが、肩書き上は大学教授であり、医学博士ということになっている。この時間にいきなり訪ねて行っても、会える確立は低いかもしれなかった。過ぎていく時間をただ生きているだけの啓介は、自宅警備員と言っても差し支えない。


 ベッドの上でウダウダと考えていても埒が明かない。啓介は財布と携帯電話だけを手に、祖父がいる東京に向かうことにした。

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