異世界で料理するは大変です
仕留めたばかりの角付きウサギ――先輩が勝手に「ホーンラビット」と名付けた生き物が、目の前に横たわっている。食料を確保できた安堵はある。でも、ここからどうすればいいのか、見当もつかなかった。
先輩は、刃物の代わりになりそうなもの石を見つけてきて、腕まくりをし始めた。
「先輩、解体できそうですか?」
「まあ、ジビエ料理の見学には行ったことがあるからね」
「先輩は本当に、なんでもやってますね」
「作家は、体験したことしか書けないからね」
「……でも、見学しただけですよね?」
「うん。実際にやるのは初めてだよ」
「それ、大丈夫なんですか?」
「やってみないとわからないね」
「また、それですか……」
見学した記憶を頼りに、先輩が慎重に手を動かす。あたしは少し離れて、様子を見ていた。
先輩は、拾ってきた石の尖った部分を、ウサギの身体に当てていた。度か動かしてみるものの、思うようには切れないらしい。
「……先輩?」
「うん?」
「進んでますか?」
「……思っていたより難しいね」
先輩は困ったように笑った。
「無理やりやるしかないかな」
先輩はそういうと、力任せに兎の胴体から足を切り離そうとする。
ついさっきまで草を食べていた生き物だ。ウサギに似た可愛らしい顔が、まだ目に焼き付いている。それを、自分たちの食べ物にしようとしている。生理的な抵抗が、胸の奥でぐるぐると回る
「……よく躊躇なく、できますね」
「せっかく命をもらったんだから、無駄にはしたくないね」
先輩が、珍しく真面目な声で言った。いつもは小説のことばかり考えている人が、きちんと命の重さを感じている。そのことに、あたしは少しだけ救われた気がした。
「そうですよね。あたしも、手伝います」
二人で協力して、時間をかけて作業を進めた。道具が足りないせいで、思うようにいかない。何度も手を止め、ため息をつき、それでも少しずつ進める。長い時間をかけて、ようやく焼いて食べられそうな肉を確保した。量は少ない。でも、ゼロよりはましだ。
焚き火を新しく起こす。先輩は乾いた草を集め、火花を飛ばし、息を吹きかけると火が着いた。
「先輩、馴れるの早くありません?」
「作家志願者は、当然だよ」
「その理屈だと、プロ作家は超人ですよ」
「当たり前だよ」
先輩は、そう言いながら肉に枝を刺す。
倒すことに比べれば、なんてことはなさそうだった。
早速、火にかざすと。ほどなくして、肉汁が垂れてきた。おいしそうな匂いがする。
お腹が空いているせいか、それだけで期待が高まる。あたしのお腹が、小さく鳴った。
「先輩……聞こえましたか?」
「うん。いい音だね」
「いい音じゃありませんよぉ」
そんなやり取りをしていくと、ようやく肉が焼けた。二人で分けて、口に運ぶ。
「お肉がパサパサで硬くて、喉を通りません……」
「おかしいな。お腹が空いてるときに食べる料理は、絶品のはずなのに」
味が薄い。硬い。パサパサしている。わずかな臭みもある。しかも喉が渇ききっているせいで、飲み込むことすらつらい。
「小説だと、主人公達は野外で美味しそうに食べてるけど、塩がないと味気ないなぁ」
「塩どころか、ちゃんとした飲み水もないんですよ……」
それでも、空腹は本物だった。まずいからと捨てる余裕はない。何とか噛み、飲み込もうとする。異世界グルメなんて、こんなものなのか。
そのとき、先輩が突然顔を上げた。
「……あっ!」
「どうしました、先輩?」
「ひよりちゃん、いいことを思いついたよ」
「……今度は何ですか?」
先輩はあたしの水筒を取り出した。中身は、もちろん昨日確保したスライムの体液だ。透明で、見た目だけなら普通の水と変わらない。
「先輩!? 何してるんですか!」
「ちょっと味付けをね」
「それ、スライムですよ!?」
「そうだね」
「そうだね、じゃありません!」
先輩は水筒の蓋に少量を出し、焼いた肉の一部を浸して口に運んだ。しばらく噛みしめてから、満足そうに頷く。
「これなら、それなりに食べられるね」
信じられない光景だった。せっかく魔物の肉を食べる決意をしたのに、今度はスライムの体液まで一緒に食べ始めた。あたしは呆然と先輩を見つめるしかなかった。
それでも、肉を食べたことで、喉の渇きがいっそう強くなった。口の中が乾いている。唾液も少ない。肉を飲み込むたびに、喉が痛む。
日本では、蛇口をひねるだけで飲み水が出てきた。自動販売機には冷たい飲み物があった。学校に行けば、水筒を持っている友達もいた。今は、水筒の中身がスライムの体液だ。小川は濁っていた。煮沸できる容器もない。
先輩はすでに少量を飲んでいるし、今は味付けにも使った。目立った体調不良はない。でも、それは安全の証明にはならない。あたしはそれもわかっている。
「ううう……」
それでも、喉の渇きは限界に近づいている。
先輩が、静かに水筒を差し出してきた。あたしのことを心配そうに見つめている。ただ、差し出しているだけでなにも言ったりはしない。
さすがにそろそろ水分をとらないといけないことぐらい自分でも分かっている。
あたしは水筒を受け取った。中身は透明だ。揺らすと、さらさらと液体が動く。見た目には普通の水と変わらない。でも、あたしは知っている。これが、昨日まで動いていたスライムの体内にあったものだということを。
毒があるかもしれない。未知の病原体があるかもしれない。先輩が無事でも、自分が無事とは限らない。体調不良が遅れて現れるかもしれない。治癒魔法が効く保証もない。
あの半透明の生き物の中身だ。わらび餅みたいだと言った、あの感触を思い出す。見た目が綺麗でも、飲みたくない。飲もうとすると、スライムの姿が頭に浮かぶ。飲み口を唇に近づけても、身体が拒否する。何度も、水筒を口元から離してしまう。
飲みたい。飲みたくない。その気持ちが、何度も入れ替わる。「これは水だ」と自分に言い聞かせても、すぐに「いや、スライムなんですけど!」と心の中でツッコミを入れたくなる。喉は渇ききっているのに、身体が拒否する。
「無理もないよ」
先輩が、穏やかに言った。
「怖いよね」
急かさない。無理に飲ませようともしない。先輩だって、同じ遭難者だ。楽しそうにしているだけで、あたしと状況は変わらない。
もしあたしが水分不足で倒れたら、先輩はきっと自分を置いていかないだろう。あたしを守るためにトラックの前に飛び出した人だ。そんな先輩に、これ以上無理をさせたくなかった。
あたしは、怖くても自分の意志で飲むことを決めた。自分も生きたい。先輩と一緒に、もう少し先まで進みたい。
状況が変わらないのなら、先輩みたいに楽しんだ方がずっといい。
「いきます!」
水筒を口元へ運ぶ。一度目は、やはり飲めなかった。二度目も、直前で止まってしまう。深呼吸をして、覚悟を決める。
「えいっ!」
ほんの少量を、口に含んだ。
最初は、味や感触を確かめる余裕すらなかった。でも、実際に口にしてみると、先輩が言っていたように、わずかな塩気のある液体だった。不気味な味がするわけではない。思っていた味との違いに、少し驚いた。それでも、スライムの体液を飲んでいるという事実は変わらない。
何とか少し飲み込んだあと、あたしは呆然とした。
「……飲んでしまいました」
「うん」
「……あたし、スライムを飲んでしまいました」
先輩は、優しく頷いた。無理をして飲んだことを、ちゃんと理解してくれているようだった。
先輩も水筒を口にし、二人で限られた液体を分け合った。たくさん飲めるわけではない。安全性への不安も消えていない。それでも、食料と水分を少しだけ口にできた。
少しだけ前に進んだ気がした。
「未知の食べ物を初めて食べた人もこんな感じだったんでしょうね……」
「うん。うん。なるほどね」
先輩は、しきりに頷きながら、手帳にメモしている。
「……先輩、何をしてるんですか?」
「スライムの体液についての、ひよりちゃんの感想を記録しようと思って」
「絶対に書かないでください!」
先輩は苦笑して、手帳を閉じた。
「もう書き終わったよ」
「もう! 私のしんみりした気持ちを返してください!」
相変わらずの先輩の態度で、いつもの空気が戻ってくる。
魔物の解体。味付けもない野外料理。そしてスライムの体液。昨日まで普通の高校生だったあたしたちには、考えられない出来事ばかりだ。先輩の取材に付き合っているうちに、自分もずいぶんと変な経験を積んでしまった。こんなこと、誰に話しても信じてもらえないだろう。
それでも、先輩は相変わらず楽しそうに小説のことを考えている。あたしは呆れながらも、少しだけ笑った。
未知の危険はまだ残っている。それでも、あたしたちは今日を生き延びるために頑張った。




