外伝第十八話:聖家族の夜、深淵の無王
本伝第二十五話のサイドストーリー。
地王暦前十五年の物語。
外伝第十八話:聖家族の夜、深淵の無王
元老院の血の粛清から数ヶ月。聖都のシンボルである大聖堂には、天から降り注ぐ純白の光と、数万人の民衆が捧げる地鳴り狂わんばかりの賛美歌が満ちていた。
大祭壇の前にて、厳かに頭を垂れるアウグストゥス。
その白髪の頭上に、まばゆい神威を放つ黄金の冠が戴せられた。
帝政神聖タルカ法国の樹立――そして、皇帝アウグストゥスの戴冠。
この儀式を影で完璧に演出し、執行したのは、新政府の最高権力者である執政官シーザーであった。
これにより聖教会の実権は完全に盤石のものとなり、前体制の悪しき因習や貴族の利権は、シーザーの手によって徹底的に解体された。
タルカの地は、かつてないほど清浄な「聖王力」によって満たされ、そのあまりの眩しさに居心地を悪くした魔王族どもは、次々と奈落の魔王界へと敗退していった。
皇帝となったアウグストゥスは、言わば神聖なる国家の象徴。
俗世の汚れとは一線を引いた高潔な存在である。
ならば、国家が清廉潔白であればあるほど、どうしても生じる「救いようのない暗部」は誰が処理するのか。
――そのすべてを、執政官シーザーが両肩に背負うこととなった。
「……光が強まれば、影もまた濃くなる」
漆黒の官衣に身を包んだシーザーは、法の守護者として、時には冷酷無比な残虐さで反乱の芽を摘み、裏切り者を闇に葬った。
ふと、深夜の執務室で彼は思う。
もし、あの夜の悲劇がなければ、この血塗られた「影の役目」は、泥に塗れることを恐れぬ熱き男――アレクサンダーの役割だったのではないか。
そして、自分こそが光の皇帝として表舞台に立つべきだったのではないか。
それこそが、かつて二人が夢見た理想の形だったかもしれない、と。
だが、シーザーは魔王母に敗北し、聖王力を失った。
しかし、その敗北という名の泥を這ったからこそ、彼は陰謀という武器を手に入れ、タルカの清浄化を成し遂げたのだ。
アウグストゥスは今一歩のところで魔王母を取り逃したものの、シーザーの巧みな情報統制により、「魔王母撃退」の英雄譚は劇的に国民へ知らされた。
民衆もまた聖性に目覚め、法国は今、確かな理想国家へと歩みつつあった。
戴冠式の華やかな祝宴が続く中、シーザーは息を切らせて愛馬を走らせ、自らの邸宅へと滑り込んだ。
彼には、何よりも優先すべき戦いがあった。最愛の妻、ミリアムの出産である。
「シーザー…………っ」
寝台の上、大量の汗を浮かべ、苦痛に顔を歪ませながらも、ミリアムは夫の姿を見て安堵の笑みを浮かべた。
度重なる世界の激動と、胎内の神聖な命に体力を削られ続けた、過酷極まる難産の末――部屋の静寂を破り、元気な産声が響き渡った。
五体満足な、美しい女児であった。
シーザーは甲冑の胸当てを外すのも忘れ、生まれたばかりの我が子を震える腕で抱き上げ、涙を流して喜んだ。
「……リーヴィス。この子の名は、リーヴィスだ」
長女リディアに続き、次女リーヴィスの誕生。
今やタルカの民から「聖母」と崇められるミリアム。
そして、わずか四歳にして信じがたいほどの神聖な奇跡を顕現させ、早くも「聖女」と呼び声高い長女のリディア。
日中、冷酷な「黒い執政官」として血に手を染めるシーザーにとって、この邸宅の中で妻子のぬくもりに包まれる時間だけは、紛れもない「聖家族」としての純粋な幸福であった。
夜、すやすやと眠る二人の娘を愛おしそうに見つめるミリアムの隣で、シーザーはぽつりと呟いた。
「友よ……」
かつて共に競い合い、別々の泥に塗れて生き別れたアレクサンダー。
その名を呼んだシーザーの口から、それ以上の言葉の続きはついぞ出てこなかった。許しを請うべきか、あるいは、己の幸福を誇るべきか。
だが、そっと夫の肩に頭を寄せたミリアムは、その沈黙のすべてを理解していた。
言葉にならずとも、彼らの魂はあの激動の過去を共有している。
傷だらけのシーザーとミリアムは、あまりにも長い回り道を経て、ようやくこのささやかな幸福を我が手につかみ取ったのだ。
……しかし、光が極まるタルカ法国から遥か遠く、混沌と硝石の臭いが立ち込める魔王界の最果て。
地を這うような烈風が吹き荒れる荒野に、一枚のボロ切れを纏っただけの、うだつの上がらない男がいた。男には家も、家族も、名前さえなかった。
ただ、現地を支配する魔王族どもから、彼らの言語で「無」を意味する「ネヴェル」という蔑称で呼ばれているだけの、無力な乞食であった。
何の取り柄もなく、ただ今日を生き延びるだけの哀れな肉塊。
ある激しい嵐の夜、ネヴェルは自分のねぐらである薄暗い洞窟の入り口で、全身に悍ましい火傷を負った「女」が倒れているのを見つけた。
髪は焼け落ち、顔の皮膚はただれて肉が露出し、今にも息絶えそうな、死体一歩手前の無惨な姿であった。
普通であれば見捨てるか、恐怖して逃げ出すところだ。
しかし、ネヴェルは何を思ったか、その温もりすら失いかけた哀れな女を細い腕で抱き上げ、洞窟の奥へと運んだ。
そして、僅かに開いた女の口元へ、濁った川の水を一滴ずつ垂らしてやった。
死を待つばかりの女は、濁った瞳を微かに動かし、ネヴェルの耳元で、今にも消え入りそうな虫の息で囁いた。
「……私を……抱いて、欲しい……」
ネヴェルは、生まれてこの方、女を抱いたことなど一度もなかった。
ましてや、全身が炭化しかけた化け物のような女を抱くなど、正気の沙汰ではない。
だが、この憐れな女の最期の望みくらいは叶えてやろうという、奇妙な慈悲が芽生えた。
いや、それ以上に――女の身体から漂う、男の理性を根底から狂わせる未知の香気に、ネヴェル自身、自らの底辺に眠っていた生々しい欲望を抑えきれなくなっていた。
「……ああ」
男は、焼け爛れてボロボロと皮の剥がれる女の肌に触れ、恐る恐る、その肉体の奥深くへと己を挿入していった。
その瞬間、世界の理が反転した。
男が腰を動かすたび、じゅくじゅくと音を立てていた女の火傷が、内側から凄まじい速度で癒えていく。
ただれた皮膚は抜けるように白い絹の肌へと生まれ変わり、焼け落ちた髪は、夜の闇よりも深い漆黒の長髪となって溢れ出した。
気づけば、体勢は完全に入れ替わっていた。
この世のものとは思えぬ、神々しいまでに妖艶な美貌を取り戻した女が、ネヴェルの身体を押しつぶすように跨っていた。女は狂おしく長い髪を振り乱し、洞窟の壁を震わせるほど淫らで不敵な声を上げると、その背中から、肉を裂いて巨大なコウモリの翼を大きく広げた。
「――ふふ、あはははは! 素晴らしいわ、心地よい生命の昂りだこと!」
圧倒的な存在感に、ネヴェルは恐怖のあまり指一本動かせず、ただガタガタと震えるしかなかった。
女はそんな男の顎を、鋭い爪の生えた指先で優しく持ち上げる。
「優しい人間よ、そなたの望みを叶えてあげましょう」
「この世のすべてを、ひれ伏させ、支配する力を……」
「望みのままに……さあ、受け取るが良いわ!」
完全に生気を取り戻し、絶大な魔力を滾らせた女は、洞窟の天井を突き破らんばかりに大空へと舞い上がった。
月夜の光に照らされたその姿は、あまりにも美しく、そして残酷な世界の敵。
「私はメルフェレーン。魔王母メルフェレーン! そなたに、我が究極の魔王力を与えよう。すべてを従え、その肥大した欲望を満たすが良い!」
高らかな、そして呪わしい笑い声が、夜の闇の彼方へと消えていく。
残された男、ネヴェルの身体には、魔王母の抱擁によって注ぎ込まれた絶大なる、破滅の魔力が濁流となって渦巻いていた。
彼の瞳は、かつての乞食のそれではなく、すべてを無に帰す深淵の輝きを宿す。
男は立ち上がり、自らの失われた過去と、手に入れた無限の力を呪うように、新たな、そして最凶の魔名を名乗った。
「――我が名は、無王ネヴェラード」
聖なる光がタルカを照らす裏側で、世界を再び混沌へと叩き落とす闇の王が、ここに誕生した。
歴史の歯車は、次なる世代の血戦へ向けて、静かに、しかし確実に狂い始めた。
地王暦前十五年のことである。
(第一部外伝・完結)




