外伝第一話:落日の揺り籠、青き日の残照
外伝第一話:落日の揺り籠、青き日の残照
石造りの古い修道院の教室に、午後の柔らかな木漏れ日が差し込んでいた。
窓の外からは、乾いた風が運ぶ草原の匂いと、小鳥のさえずりが聞こえる。
そんな平和を絵に描いたような静寂の中に、シスター・エレーナの慈愛に満ちた、しかし凛とした声が響いていた。
「……いいですか。『聖王力』とは、単なる破壊の力ではありません。それは、私たちが持つ他者への慈しみ、平和を願う心から汲み出される、清らかな祈りの結晶なのです」
エレーナは黒板に描かれた天王界の図を指し示し、三人の子供たちを等しく見つめた。
「その純粋な力を天に捧げ、天使様と契約を交わすことで、私たちは初めて『天王力』という守護の力を授かります。二つの力が混ざり合い、魔王族の闇を退ける盾となる。これは、この地を守る聖騎士としての、最も重要な規律なのです」
最前列で、十歳となったシーザーは背筋を定規で測ったように正し、一言一句を漏らすまいと熱心に羊皮紙へペンを走らせていた。
その横顔には、幼いながらも既に「法」を背負わんとする峻厳な覚悟が漂っている。
その背後では、同じく十歳のミリアムが、祈るように両手を組みながら静かに話を聴いていた。
彼女の瞳は深く、澄んでおり、その身には既に聖なる輝きの萌芽が兆している。
そして――。
「……むにゃ……あと、一切れ……」
教室内で唯一、不協和音を奏でる音が響いた。
アレクサンダーである。
彼は机に頬を押し付け、開いた教本をよだれで汚しながら、幸福そうな寝息を立てていた。
「貴様……いい加減にしろッ!」
シーザーの我慢が限界に達した。
彼は椅子を蹴るように立ち上がると、隣に座るアレクサンダーの頭を拳で力任せに叩いた。
「ぐわっ!? 地震か!?」
「地震ではない、私の鉄拳だ! 聖騎士の基礎を説くエレーナ様の講義中に居眠りとは、それでも聖王力の継承者の一人か!」
「ふぁーあ……なんだ、シーザーか。そんなに怒るなよ。だってよ、聖王力がどうとか天王界の契約がどうとか、もう飽きちまったぜ」
アレクサンダーは大きなあくびをしながら、乱れた黒髪をガリガリとかいた。
「飽きただと? 我らが魔王族から人民を守る盾となるための、血肉となる教えなのだぞ!」
「難しいお勉強はシーザーとミリアムに任せるよ。俺は理屈より、剣技を磨く方が性に合ってるんだ。盾がどうとか言う前に、敵をぶっ飛ばせば解決だろ?」
「……その腐った、規律を軽んじる性根……今ここで叩き直してやる。表に出ろ、アレクサンダー」
「おう! 望むところだ! 座学よりよっぽどマシだぜ!」
アレクサンダーは待ってましたと言わんばかりに椅子を蹴り飛ばし、窓から中庭へと飛び出した。シーザーもまた、怒りに肩を震わせながらその後を追う。
「まぁまぁ、今日も元気だこと」
シスター・エレーナは、いつもの光景に困ったような笑みを浮かべ、止める素振りも見せなかった。
彼女は、この正反対な二人の衝突こそが、互いの魂を研磨することを知っていたからだ。
ミリアムはといえば、争いには興味がないようで、机の上の教本を丁寧に閉じると、穏やかな眼差しで窓の外を見つめていた。
「まったく貴様という奴は、規律というものが――」
中庭へ向かう廊下、シーザーが振り返りもせずに小言を並べ立てていた。
その瞬間、背後から鈍い衝撃が走った。
「ぐっ……!?」
アレクサンダーが不意打ちで放った蹴りが、シーザーの腰に突き刺さったのだ。
「ほうら、シーザー様! 戦場じゃ正攻法だけじゃ生きていけないぜ! 油断する方が悪いんだ」
アレクサンダーはニヤリと不敵に笑い、地面を蹴って距離を取る。シーザーの顔が、瞬時に沸点に達した。
「……今日という今日は、断じて許さんぞ!」
シーザーは訓練用の木刀をひったくるように掴むと、猛然とアレクサンダーへ殴りかかった。
「おっと! 遅ぇ!」
「逃げるな、卑怯者!」
「卑怯じゃねえ、『戦術』と言え!」
二人の少年は、泥だらけになりながら中庭を駆け回った。シーザーの鋭く正確な刺突を、アレクサンダーは野性的な勘だけで回避し、隙あらば体当たりや足払いを仕掛ける。
やがて、体力の限界に達した二人が、荒い息を吐きながら地面に倒れ込んだ。
そこに、音もなく歩み寄る影があった。ミリアムである。彼女は二人の傍らに膝をつくと、小さな手をそっと差し出した。
「……『癒やしの滴』」
ミリアムの掌から溢れた淡い光が、二人の擦り傷を塞ぎ、疲労を和らげていく。彼女は一言も発することなく、ただ「さあ、続きをどうぞ」と言うかのように、静かな身振りで中庭の端へと戻った。
「……はぁ、はぁ……ミリアム、お前……容赦ないな……」
「くそっ、これではいつまでも終わらんではないか」
アレクサンダーが立ち上がり、シーザーもまた木刀を構え直す。
その後も、打ち合いと癒やしが数回繰り返された。日が傾き始め、中庭が黄金色に染まる頃、アレクサンダーが肩を大きく上下させながら音を上げた。
「……ぜぇ、ぜぇ……おい、今日はこれくらいにしておこうぜ。腹が減って力が出ねえ」
「……貴様が、己の不勉強と敗北を認めるならな」
「……なんて嫌な野郎だ、お前は」
「ふん。まあ……今日のところは引き分けとしてやる。決着は明日だ」
シーザーは木刀を鞘に収めるような仕草で、気高く(しかし足はガクガクさせながら)宣言した。
「食事の準備ができましたよ! 今日は焼きたてのパンとシチューです!」
修道院の扉から、エレーナの温かな声が響く。
「シチュー!? 一番乗りだ!」
アレクサンダーは脱兎のごとく駆け出し、シーザーが「待て、列に並べと言っているだろう!」と声を荒らげながら追う。
ミリアムは、その二人の騒がしい背中をしばらく眺めていたが、ふっと口元に微かな笑みを浮かべ、その後をゆっくりと歩き出した。
この時、三人はまだ知らなかった。
この穏やかな夕暮れも、泥だらけの拳の温もりも、すべては間もなく訪れる過酷な嵐によって、二度と戻らぬ「神話」の彼方へと消えてしまうことを。
今はただ、シチューの香りと共に、少年少女たちの無垢な笑い声だけが、落日の修道院に優しく響き渡っていた。




