7 英雄の死の真相1
「──それは確かか?」
夜の暗闇の中、ふいに木立の奥から声が聞こえた。
身なりの良い長身の中年紳士はぴたりと動きを止める。
人目を憚るように抑えた男の声色には、明らかな興奮が混じっていた。
紳士の手には、一服のために火をつけようとしていた煙草がある。
一瞬迷ったあとで、煙草をシガーケースに戻すと、気づかれないよう声のするほうへと足を向ける。
「ああ、間違いない。クラブラウンジの奥にある物置部屋、そこに保管されている置き時計の中だ」
先ほど聞こえた声とは別の男の声だった。
どうやらふたりの男がいるらしい。
長身の紳士は暗闇の中、木の影に身をひそめ、姿の見えないふたりの会話に耳を澄ませる。
「置き時計の中に、先週取り引きされる予定だった阿片がまだ隠されたままらしい。運び屋が途中で消されて、誰にも回収されずそのままあるっていう話だ」
「じゃあ、この騒ぎに乗じて先に手に入れれば……」
「ああ、ひと儲けどころの話じゃない。しかもこの騒ぎじゃ誰のしわざかわかりゃしねえだろ」
「くく、違げえねえな」
くぐもった下卑た笑いが暗闇に響く。
一部始終を耳にした長身の紳士はそっとその場をあとにすると、来た道を急いで戻り始める。
一服しようとホテルの建物から離れた庭の一角に足を伸ばしたのだったが、思わぬ話を聞いてしまった。
向こう側に見える豪奢なホテル・ザ・ロワイヤルでは、突然の爆破予告騒ぎで騒然としていた。
『ホテルに爆弾を仕掛けた。犠牲者を出したくなければ、ただちにホテルの外に全員出ろ』
そう書かれた脅迫状がホテルに届いたのは、一時間ほど前のことだ。
万が一のことを考えたホテル側は、慌ててホテルにいたレストラン客や宿泊客たちに声をかけ、建物の外にある広大な庭園へと避難させた。
夜にもかかわらず突如として外へと出された客たちは、不安げな表情でホテルを見上げている。
中には、ホテル係員に声を荒げて詰め寄る寝巻き姿の人も見える。
長身の紳士も客のひとりだった。
人と会う約束があってホテルを訪れていたところ、まさかの爆破予告に巻き込まれた。
避難するためホテルの外に出てきたあとで一服でもしようと思い、離れた庭の一角に足を伸ばしたのだが、つい先ほどそこで思わぬ話を聞いてしまったのだ。
焦る気持ちを抑えながら歩を進めていた長身の紳士は、ホテルの前まで戻ってくると、辺りをきょろきょろと見回す。ホテルの建物から距離をおいた位置に立つ数人の警察官に目を留めると、そちらのほうへと近づいていく。
「これはこれは! ウィート伯爵ではありませんか」
警察官らに指示している中年の男性は、ステッキを手に颯爽と歩いてくる長身の人物に気づくと、驚きながら帽子のつばに手を当て敬礼して言った。
「やあ、とんでもないことになったね」
長身の紳士──、ウィート伯爵と呼ばれた彼は、ステッキを持つ手を軽く上げる。
相手は顔馴染みの警部だった。
「ええ、まったくとんでもない話ですよ、ホテルに爆弾を仕掛けたなんて」
ウィート伯爵は痛ましげに眉尻を下げたあとで、話を切り出そうとする。
「ところで──」
「放してください! あの子が! あの子がまだ中に‼︎」
そのとき、突如切迫した女性の甲高い声が響き渡った。
ウィート伯爵と警部は声のするほうへ反射的に顔を向ける。
見れば、もがいて暴れる女性を警察官がふたりがかりで必死に押さえていた。
「何かあったのかね?」
ウィート伯爵がすぐさま警部に訊ねる。
「ええ、じつは一緒に避難したはずの幼い息子が見当たらないんだそうです。避難の途中に落としたおもちゃを拾いに戻ったかもしれないと……」
「何てことだ」
「しかしいつ爆発するかわからないので、ホテルの中には戻らないよう母親を引き留めているんです」
警部はどうしようもないとばかりに、肩をすくめて言う。
それに対してウィート伯爵は眉間の皺を深くし、大きく首を横に振った。
「きみ、それはいけない。もし本当にホテルの中に子どもがいるなら助け出さねばならない」
「え、そ、それはそうなんですが……」
警部はもごもごと言葉を濁す。
子どもを探したくとも、ホテルのどこに爆弾が仕掛けられているのかわからない中、うかつに近寄れないのだ。
もし爆発が起きて、ホテル内に配置されているガス管でも破裂してしまえば、それこそ大惨事だ。自分の命も危うい。
ウィート伯爵はくるりと向きを変え、泣き叫ぶ母親のもとへとつかつかと歩み寄った。
「私が探しに行きましょう。貴女はここでお待ちなさい」
ウィート伯爵は母親の前に進み出ると、安堵させるように語りかけた。その表情には、敵に囚われた味方の救出を申し出る騎士のような気高さがあった。
母親は自分よりも身分が高いであろう身なりの良い紳士のあり得ない申し出に、ただただ驚いている。
「は、伯爵! いけません!」
一瞬呆けた警部だったが、はっと意識を戻すと驚きの声をあげた。
「なに、まだ爆破予告の時刻までまだ時間がある。すぐに戻るさ」
そう言って、ウィート伯爵は手に持っていたステッキを警部に手渡す。
「すまないが、預かっておいてくれたまえ。子どもがけがをしていた場合、抱える可能性があるだろうからな」
「しょ、正気ですか!?」
「ああ、聞いてしまったからには見捨てることはできない」
「しかし貴方の身に何かあったら……。──いえ、それならば私が中へ入ります!」
警部が腹を括るように拳を胸に当てる。英雄ウィート伯爵の身にもしものことがあった場合、自分がクビになるくらいでは取り返しがつかないと思ったのだ。
しかしそんな覚悟にも、ウィート伯爵は駄々をこねる子どもをあやすような柔らかい笑みを浮かべ、やんわり押し留める。
「大丈夫だ。すぐに戻る」
彼はそっと警部の耳元に顔を近づけ、何事かささやく。
警部は一瞬目を見開く。逡巡するようなそぶりを見せたあとで、ウィート伯爵が言うならばこれ以上の詮索は失礼にあたるだろうと考え直す。
「……わかりました。そういうことでしたら」
「すまないね」
ウィート伯爵はポンポンと警部の肩を叩く。
そして涙で瞳を潤ませる母親に向き直り、深い同情を示すような慈愛に満ちた表情で言った。
「では、私が行ってこよう。ご子息の特徴を教えていただけるかな」






