2 深い悲しみと完璧な人間
「あの方が亡くなったなんて、本当に信じられんよ」
「ああ、まったく神様もひどいことをしなさる。あんな徳のある方がこんな最期を迎えるなんて」
首都にある年季の入った宿屋の前。朝早くから宿の亭主である髭面の男と、近所で肉屋を営む小太りの男の中年ふたりが立ち話に興じていた。
宿の亭主は、読み込みすぎてしわくちゃになった大衆紙ザ・デイリー・ミラリーを広げている。
その紙面を埋め尽くしているのは、昨夜起こったウィート伯爵の事故死について報じる記事だった。
「まさかあのホテル・ザ・ロワイヤルに爆弾が仕掛けられるなんてな」
肉屋の男が大衆紙に目を向け、受け入れがたいように首を大きく振る。
ホテル・ザ・ロワイヤルは、首都有数の高級地区として知られるマイウスフェア地区にある老舗名門ホテルだ。国内でも五指に入るほど格式が高い。
亭主も鎮痛の面持ちで同意するように頷く。
「ああ、恐ろしいこった」
「伯爵はちょうどホテルに居合わせたんだって?」
「そうらしいな。ええっと──」
亭主は大衆紙に書かれている記事を読み始める。
「『ウィート伯爵は知人と会うためにホテルを訪れていた。そこへまさかの爆破予告があったのだ! ホテルにいたレストラン客や宿泊客などは外へと避難したが、幼い子どもがいないことに気づいた母親がいた! 彼女は泣き叫びながら、子どもを探すためにホテルへ引き返そうとしたが、それをウィート伯爵が引き留めたのだ。そして母親の代わりに、自らの危険も顧みず爆弾が仕掛けられているホテルの中へと入っていった。しばらくして、子どもはひとりで外へ出てきた──』、だとさ」
「子どもひとりでだと? 伯爵はどうしたんだ?」
「そこが不思議なんだが」
亭主はそう言いながら続きを口に出して読む。
「『出てきた子どもに確認したところ、ウィート伯爵が自分をここまで連れてきてくれたと泣きながら話した。しかし出入り口のそばまで来たとき、なぜか伯爵はひとりで来た道を引き返して行ったのだ! なぜだ⁉︎ そこで筆者は考える、伯爵はほかにも残された客人に気づき、救出のためにあえて戻ったのではなかろうか! 強い使命感を持っている伯爵のことだ、きっとそうに違いない──』、て書いてあるな」
「そんな! じゃあ子どもと一緒に外に出ていれば助かったんじゃないか!」
肉屋の男が悲壮感をあらわにして声を荒げる。
「ああ、そうだろうな。その少しあとに爆発が起こったらしいからな」
そう言って唸る亭主の手には力が入り、大衆紙に新たなしわが寄る。そのとき、
「はい、郵便です」
広げられた大衆紙の向こうからひょいっと顔を覗かせたのは、若い男だった。
郵便局員の紺色の制服に身を包み、愛想の良い笑みを浮かべて一通の手紙を差し出している。
「ああ、ご苦労さん」
亭主は両手で広げていた大衆紙を片手に持ち直し、手紙を受け取る。
「どこもかしこもウィート伯爵の話で持ちきりですね」
若い郵便屋は目の前の大衆紙をちらりと見やると、興味本位が混じる口調で言った。
「そりゃあな、こんな悲劇が起きちまったもんだから」
「有名なお方だからな。みんな悲しんでら」
「ウィート伯爵と言えば、あの第二次アガスタン戦争で有名になったお方なんでしたっけ?」
郵便屋は若いこともあり、ウィート伯爵についての知識が乏しいようだった。
すると亭主が嬉々として、まるで自分のことのように誇らしげに語り始める。
「そうさ! あの戦争で我が国は劣勢に立たされていたが、ウィート伯爵が敵の猛将を討ち取ったことで形勢が逆転して、勝利を手にできた有名な話だ。それからだな、伯爵のお名前が俺達庶民にまで知れ渡ったのは」
負けじと、肉屋の男も身を乗り出して口を開く。
「そうそう。あとは、さる異国の姫君が我が国に来られた際に、姫君を乗せた馬車が暴走してあわや崖に転落するすんでのところ、居合わせたウィート伯爵が馬を走らせて助けたっていう話もあるぞ」
「ああそうそう、あのときも大きな話題になってたな。ほかにも──」
亭主は大衆紙を再び両手で広げ、何かを探すように紙面上を忙しなく見回す。
どうやら爆発事故の詳細だけでなく、伯爵の生前の功績についても書かれているらしい。
「ああ、あった、これだ。ええっと、『古い歴史をもつウィート伯爵家は代々教会や孤児院などにも多大な寄付をしており、現当主のウィート伯爵も慈善家として広く知られている。さらに伯爵は領地経営手腕においても一目置かれる存在であった! 自身のウィート領の発展を常に考え、現状を良しとせずときに大胆な改革を行い、領民が豊かになるために手を尽くしていた。なんと領民思いの領主であろうか! ウィート伯爵の数々の功績は英雄伝にまとめられ、近く書籍として発売されることが決まっている──』とあるな。俺たちが知らない功績もまだまだあるんだろうよ。さすがは英雄ウィートだ!」
「本当だ!」
ガハハハと大口を開けて亭主が笑い、肉屋の男も同意して笑う。
ふたりはひとしきり笑ったあとでふと現実に引き戻されるかのように、痛ましげに地面に視線を落とす。
「……それだけに、本当に惜しい方を亡くしたもんだ」
「ああ、本当に……、残念でならんよ」
しんみりした空気が漂い始めたとき、
「あんた! なに無駄話してるのさ! さっさと手伝っておくれよ!」
宿屋の戸口から顔を覗かせたのは、亭主の妻の女将だった。目を吊り上げ、怒りをあらわにしている。
「ひえ! い、今行く!」
亭主は小さく悲鳴をあげ、急いで宿の中へ入っていく。
「おおっと……、じゃあ、俺も店に戻るかな」
肉屋の男も自分の妻を思い出したのか、そそくさとその場をあとにする。
そんな妻帯者の彼らの様子を見て、結婚どころか恋人もいない若い郵便屋は苦笑いを浮かべる。
しかしすっと表情が消え、ぽつりと言葉が漏れる。
「……でもそんな完璧な人間、いますかね」
無意識に漏れた言葉に、彼ははっと辺りを見回す。
宿屋や肉屋が並ぶ通りは忙しなく行き交う人々で騒がしかった。
郵便屋は自分が発した言葉が誰の耳にも届いていないとわかると、ほっと胸を撫で下ろす。
誰かに聞かれでもしたら、不敬罪で自分の首など簡単に飛ばされてしまうだろう。
ウィート伯爵についての英雄伝は数多くあり、首都に住む人間は手放しに称賛するが、数年前によそから来た彼はその話を聞くたびにざわりとした感触を覚えるのだった。
──本当にそんな完璧な人間などいるんだろうか。
郵便屋はふうと息を吐き、自分の考えを打ち消すように首を振る。
もう亡くなった方だ。そんな方を疑うなど死者への冒涜だろう。
気持ちを切り替えるように、彼は次の配達先へと向かった。






