届かない言葉
その夜、希望は友美とビデオ通話をした。画面越しに、友美は変わらぬ笑顔で手を振った。
「やっほ!希望! めっちゃ久しぶりじゃん! 元気?」
彼女の明るさに、希望は少しだけ心が軽くなった。
「友美…私、患者さんを救えなかったんだ。若い方だったのに…私のせいかもしれない。それに、今受け持ってる患者にも怒鳴られて関わり全然上手くいかないし…私、看護師向いてないのかな」
涙が溢れ、言葉が詰まった。
友美は、真剣な目で希望を見つめた。
「希望、聞いて。高校の時、おばあさんが倒れた時のこと、覚えてる? 私、怖かったんだよ。嘔吐物だって、正直気持ち悪いとと思った。でも、誰かがやらなきゃ、目の前でおばあさんが死んでいくのを見てるだけになるのは絶対に嫌だって思った。そしたら、自然と体が動いていたの。あの時の希望だって、上手く動けなかったけど、助けたいって気持ちは一緒だったよね?」
希望は、頷いた。友美の言葉は、過去の自分を肯定してくれた。
「亡くなった患者さんのこと、すごくつらいよね。でも、希望が精一杯やったなら、それで十分だよ。それが希望のできる看護だよ」
「うん」
「患者に怒鳴られたって、看護師として、そいつの心の叫びを聞いただけなんだ。その場ではしっかり聞いてるふりしてなんだよコイツって心の中で反抗したっていいんだよ。希望の優しさ、絶対に誰かに届いてる。私、救急で毎日バタバタだけど、患者さんからの『ありがとう』ですごい頑張れるもん。希望も、絶対に救ってる人がいるはずだよ」
友美の声は、力強かった。
VIP個室病棟には、さまざまな患者が入院してくる。
政治家、経営者、芸術家、海外から治療を受けに来た人――。
同じ病気でも、育ってきた環境や価値観は一人ひとり違う。
新人看護師の土屋希望は、そのことを身をもって知る出来事に直面した。
担当になったのは、中国出身の患者・李さん、六十代。
日本で会社を立ち上げ、事業を成功させた実業家だった。
しかし、日本に住んで十年になるというのに、日本語はほとんど話せなかった。
病棟にも中国語を話せる医療者はいない。
唯一の通訳は、会社員として働く娘の美玲だけだった。
ある日の午後。
病室では、主治医の佐野陽子が治療方針を説明していた。
「肝臓がんは進行しています。化学療法を始める必要があります」
美玲が中国語で父に伝える。
すると、李さんはすぐに首を横へ振った。
険しい表情で何かをまくしたてる。
美玲は困ったように視線を落とした。
「……父は、化学療法は受けたくないと言っています」
「中国では、手術や漢方薬で治す考え方もあります。抗がん剤は体を壊す”毒”だと思っているんです」
その言葉を聞いた佐野の表情が曇った。
「科学的な根拠がない治療では治りません」
「命がかかっているんです」
声は少し強くなっていた。
美玲は二人の間で言葉を訳し続ける。
だが、父の思いも、医師の思いも、どちらも十分には伝えきれない。
通訳という役割は、想像以上に苦しそうだった。
希望は、その光景を黙って見つめていた。
李さんは怒っている。
佐野先生も焦っている。
そして、美玲さんは泣きそうな顔をしている。
誰も悪くない。
それなのに、誰の言葉も相手に届いていなかった。
治療の話し合いは、何度繰り返しても平行線のままだった。
李さんは化学療法を頑なに拒否し、
「西洋の薬は体を弱らせるだけだ」
と主張する。
一方、医師は、
「今の治療で最も効果が期待できる方法です」
と説明を続ける。
正しいことを伝えているはずなのに、互いの距離は縮まらない。
ある日のカンファレンス後、佐野が疲れたようにため息をついた。
「土屋さん」
「はい」
「プライマリー看護師なんだから、もう少し患者さんと話してもらえる?」
責めるような口調ではなかった。
それでも、その一言は希望の胸に重くのしかかった。
「……すみません」
謝ることしかできなかった。
話したくても、言葉が通じない。
美玲が仕事で来られない日は、簡単な身振り手振りしか方法がない。
希望は、自分の無力さを痛感していた。
それでも翌日、希望は李さんの病室へ足を運んだ。
「おはようございます」
笑顔で挨拶すると、李さんも軽く会釈を返してくれた。
希望は翻訳アプリを開き、一つひとつ言葉を入力していく。
「今日は痛みはありますか?」
機械が中国語で読み上げる。
李さんは少し驚いた表情を浮かべ、小さく笑った。
短い中国語で返事をする。
今度は希望が翻訳する番だった。
時間はかかった。
会話はぎこちなかった。
それでも、昨日よりほんの少しだけ、病室の空気は柔らかかった。
その日の夕方、美玲が病室に来ると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「父……本当は先生たちを嫌っているわけじゃないんです」
「ただ、日本では治療を急がされているように感じるみたいで……」
少し黙ったあと、美玲は続けた。
「中国では、家族みんなで話し合って決めることが多いんです」
「父は、自分の気持ちより、家族と一緒に考える時間が欲しかっただけなんだと思います」
その言葉を聞いた瞬間、希望ははっとした。
私たちは”治療”を説明していた。
でも、李さんが本当に伝えたかったのは、不安だったのかもしれない。
医学的な正しさだけでは、人の心は動かない。
相手が何を大切にして生きてきたのか。
どんな価値観で病気と向き合おうとしているのか。
それを知ろうとしなければ、「寄り添う看護」にはならない。
希望は病室を出る前、李さんに向かってゆっくり頭を下げた。
「これからも、一緒に考えさせてください」
言葉は完璧には通じなかったかもしれない。
それでも李さんは、穏やかな笑顔で頷いた。
その笑顔を見た希望は、初めて気づいた。
看護は、言葉だけでするものではない。
相手を理解しようとする姿勢そのものが、患者に届くこともあるのだと。
李さんと向き合ううちに、希望は「病気だけを見ていては、患者さんのことは分からない」と痛感するようになった。
仕事が終わると、病院の図書室に向かい、中国の医療や文化について本を読み漁った。
中国では漢方医学が身近であること。
治療は本人だけでなく、家族全員で話し合って決めることが多いこと。
日本とは、病気との向き合い方そのものが違うこと。
知れば知るほど、李さんが化学療法を拒んでいた理由が少しずつ理解できるようになった。
翌日、希望はカルテを開き、患者掲示板に小さくメモを書き加えた。
「ご家族と話せる時間をできるだけ確保したい」
「漢方の併用について、ご本人が希望されているため主治医へ相談予定」
少しでも李さんが安心して治療を受けられる環境を作りたかった。
しかし、そのメモを見た佐野は静かに首を振った。
「土屋さん」
「はい」
「気持ちは分かるけど、そこまでしなくていい。この病院には、この病院の治療方針があるから」
希望は何も言い返せなかった。
正しいことをしたかっただけなのに、それが「余計なこと」と言われた気がした。
それでも諦めることはできなかった。
夜になると自宅でも中国語の医療用語を調べ、翻訳アプリを使って発音を練習した。
休みの日には中国の医療制度や文化についての本を読み、ノートにまとめ続けた。
眠る時間は少しずつ削られていく。
疲れは溜まっていた。
それでも希望は、自分を止めようとはしなかった。
(もっと理解したい。)
(今度こそ、患者さんに寄り添える看護師になりたい。)
香織を救えなかった後悔が、その思いをさらに強くしていた。
気づかないうちに、その優しさは自分を削る”自己犠牲”へと変わり始めていた。
数日後。
六号室を訪れると、李さんは窓の外を静かに眺めていた。
肝臓がんは着実に進行し、痛みも日に日に強くなっている。
医療用麻薬であるオキシコドンによる疼痛コントロールが始まり、表情は以前より穏やかに見えたが、その顔には病気と闘う疲労が色濃く刻まれていた。
希望はベッドサイドに歩み寄る。
「李さん、お加減はいかがですか?」
李さんはゆっくりと希望を見上げ、小さく微笑んだ。
「ありがとう……だいじょうぶ」
たどたどしい日本語だった。
その一言だけで、希望の胸は少しだけ温かくなった。
言葉はまだ十分には通じない。
それでも、少しずつ心は通い始めている。
そう思えた、その瞬間だった。
数日後。
朝のバイタルサイン測定のため六号室を訪れると、李さんは何かを決意したような表情でスマートフォンを差し出した。
画面には翻訳アプリが開かれていた。
機械的な音声が、静かな病室に響く。
「土屋さん。私、中国へ帰る。治療、やめる」
希望は思わず息をのんだ。
「帰る……ですか?」
李さんは静かに頷き、再び画面を操作する。
「母、病気」
「中国、一人、母が待ってる」
「私が、そばにいたい」
「時間、もう、少ない」
希望は胸が締めつけられた。
病気と闘う自分よりも、故郷で暮らす高齢の母親を選ぼうとしている。
その思いは、希望の胸の奥に眠る記憶を呼び覚ました。
祖母・清子の最期に十分寄り添えなかったこと。
そして、大切な人を守れなかったという後悔。
李さんの「母のそばにいたい」という願いが、自分自身の後悔と重なって見えた。
希望は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「でも……李さん。今は化学療法の途中です」
「それに、お薬の調整も必要です。すぐに帰国するのは、とても危険だと思います」
李さんは何も答えなかった。
ただ窓の外を見つめ、小さく目を閉じた。
李さんが「中国へ帰る。治療をやめる」と告げたことは、あっという間に病棟中へ広まった。
化学療法の途中での帰国。
さらに、疼痛コントロールに使用している医療用麻薬の調整や、中国の病院との連携も必要になる。
前例の少ないケースに、ナースステーションは慌ただしい空気に包まれていた。
「向こうの病院と連絡は取れるのかな」
「紹介状や薬の調整も急がないと」
「無事に帰国できるといいけど……」
心配する声が飛び交う一方で、戸惑いを隠せない職員もいた。
スタッフルームの隅で、看護師の田村彩花がぽつりと漏らした。
「正直、急すぎるよね」
「日本の治療にずっと納得していなかったのに、途中で帰るって……。最初から母国で治療を受けたほうがよかったんじゃないかな」
その場にいた数人が、複雑そうな表情で黙って頷いた。
希望はカルテを整理する手を止めた。
確かに、李さんは何度も治療方針で衝突してきた。
文化も価値観も違い、医療者を困らせる場面があったのも事実だ。
それでも――。
希望の頭に浮かんだのは、病室で見せた李さんの穏やかな笑顔だった。
翻訳アプリ越しに聞いた、
「母が待っている」
という短い言葉。
異国の地で病気と闘いながら、最後まで母を思い続ける一人の息子の姿だった。
その思いは、祖母・清子の最期に十分寄り添えなかった自分の後悔と重なった。
もし立場が逆だったら、自分も同じ決断をしたかもしれない。
そう思うと、李さんを責める気持ちにはなれなかった。
その後も、病棟では李さんの話題が絶えなかった。
夜勤中、若手看護師の中川亮が書類をまとめながらつぶやく。
「医療用麻薬を持って海外へ行くとなると、手続きがかなり大変らしいですね」
「正直、調整する側は大変だな……」
別の日には、佐野も疲れたように椅子へ腰を下ろした。
「受け入れ先との調整もあるし、紹介状も急がないといけない」
「もっと早く相談してくれていたら違ったんだけど……」
その言葉に悪意はなかった。
だが、希望にはどこか、「患者の事情」よりも「病院側の都合」が先に語られているように聞こえた。
カルテを閉じながら、希望は静かに思う。
(李さんだって、好きで迷惑をかけたいわけじゃない。)
(家族のそばにいたい。ただ、それだけなんだ。)
患者一人ひとりには、その人だけの人生がある。
病気だけを見ていては、その人生は見えてこない。
そう信じる気持ちは、この日、いっそう強くなっていた。
ある朝。
ナースステーションの扉が勢いよく開いた。
「すみません!」
振り返ると、李さんの娘・美玲が立っていた。
普段は落ち着いて日本語を話す彼女だったが、その日は肩で息をし、興奮のあまり中国語が混じっていた。
「父は、中国人だから差別されていると言っています!」
その一言に、ナースステーションの空気が凍りついた。
カルテを整理していた希望も、思わず手を止める。
美玲は涙をこらえながら続けた。
「昨日の採血で、看護師さんが針を床に落としましたよね?」
「そのまま父に使ったって聞きました」
「もし感染したら、どう責任を取るんですか!」
病棟が一瞬ざわつく。
希望は昨日の採血を思い出した。
担当したのは中川だった。
中川は慌てることなく前へ出た。
「美玲さん、それは誤解です」
「確かに一度、翼状針を落としてしまいました。でも、その場ですぐ廃棄して、新しい針に交換しています」
落ち着いた口調で説明するが、美玲は首を振った。
「父は、そうは思っていません」
「それだけじゃないんです」
美玲の目から涙があふれた。
「父は、看護師さんたちが自分のことを悪く言っているって……」
「『あの中国人はわがままだ』って言われている気がすると」
その言葉に、希望の胸が痛んだ。
病棟で耳にした何気ない会話が頭をよぎる。
「急に帰国なんて困る」
「調整が大変だ」
そんな言葉の一つひとつが、異国で闘病する李さんには、自分を否定する声に聞こえてしまったのかもしれない。
やがて師長の石川真由美が静かに前へ出た。
「美玲さん、ご心配をおかけして申し訳ありません」
「採血については、使用した物品の記録も残っています。一緒に確認しましょう」
中川は記録を提示し、希望は翻訳アプリを使って李さん本人にも確認した。
「昨日の採血では、新しい針に交換しましたよね?」
アプリの音声が流れると、李さんはゆっくりとうなずいた。
そして短く入力する。
「はい。看護師さん、信じます」
その一言で、採血の誤解は解けた。
しかし、美玲の表情は晴れなかった。
「父は……看護師さんたちがカルテを見ながら何か話しているだけで、自分の悪口を言われているように感じてしまうんです」
希望は夜勤の記録を確認した。
問題になった場面では、中川と林が追加の薬剤投与についてカルテと指示簿を確認していただけだった。
「美玲さん」
希望はゆっくりと言葉を選んだ。
「看護師が話していたのは、お父さまのお薬の確認でした」
「悪口ではありません」
美玲は静かにうなずいた。
それでも涙は止まらない。
「分かっています。でも父は……、知らない国で、言葉も通じない中、一人で病気と闘っています。だから、少しのことでも怖くなってしまうんです」
その言葉を聞いた希望は、胸が締めつけられた。
異国の病院。
聞き取れない言葉。
自分だけが取り残される不安。
李さんが感じていた孤独を、希望はようやく理解できた気がした。
石川は美玲に向かって深く頭を下げた。
「ご不安な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。これからは、言葉だけでなく、お父さまのお気持ちにももっと寄り添えるよう努めます」
美玲も深く頭を下げ、小さな声で言った。
「……父のことを、よろしくお願いします」
その背中を見送りながら、希望は静かに思った。
患者は病気だけと闘っているわけではない。
言葉の壁とも、文化の違いとも、そして「理解されないかもしれない」という孤独とも闘っているのだ。
その孤独に寄り添うこともまた、看護師の大切な役目なのだと、希望は改めて胸に刻んだ。




