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怒りの個室


午後の病棟は慌ただしかった。


ナースコールが鳴り、点滴交換の時間が重なる。土屋希望はカルテを確認し、点滴一式をワゴンに載せて廊下を歩いた。


向かう先は、この病棟で最も高額な個室__通称「VIPルーム」。


扉には、田中誠一と書かれたネームプレートが掛けられていた。


58歳、進行性肺がん。


抗がん剤治療を続ける会社経営者だった。


希望は軽く息を整え、ノックをした。


「失礼します。点滴の交換に伺いました」


病室へ入ると、窓際の椅子に座っていた田中がゆっくりと顔を上げた。


鋭い目だった。


「おい」


低い声が部屋に響く。


「ちょっと来い」


希望はベッドサイドへ歩み寄った。


「田中さん、点滴を交換しますね。体調はいかがですか?」


その瞬間だった。


「最悪だよ!」


怒声が飛んだ。


「この病院の飯、どうなってるんだ!」


希望は思わず肩を震わせた。


「抗がん剤のせいで味なんかほとんど分からない。それなのに毎日同じような飯ばかり出しやがって」


田中は食事のトレーを指差した。


「がん患者なんて、この病院に山ほどいるだろ? 味覚障害の患者が多いことくらい分かるはずだ。だったら食事を工夫しろよ」


希望は静かに頭を下げた。


「申し訳ありません。栄養士にも相談してみます」


「相談?」


田中は鼻で笑った。


「そんな悠長な話じゃない」


拳でベッド柵を叩く。


「俺は会社を経営してるんだ。残された時間だって限られてる。なのに今日の抗がん剤だって、ダブルチェックとかなんとかいうので三十分も待たされた」


希望は何も言えなかった。


「効率が悪すぎる」


田中は吐き捨てるように言う。


「看護師一人一人がちゃんとしてれば、あんな確認なんていらないだろ」


希望は唇を噛んだ。


ダブルチェック。


薬剤事故を防ぐために絶対必要な手順。


それでも患者にとっては、「待たされる原因」にしか映らないこともある。


「……申し訳ございません」


田中はさらに腕を差し出した。


「それに、朝の看護師」


留置針を睨みつける。


「二回も刺しやがった」


「俺は注射が嫌いなんだ」


「どこの病院でも一回で終わってた」


「ここの看護師、おかしいんじゃないのか」


希望はカルテを確認した。


朝の穿刺は自分ではない。


それでも自然と頭が下がっていた。


「つらい思いをさせてしまい、申し訳ございません」


田中は眉をひそめた。


「お前じゃないんだろ?」


「だったら何で謝る」


その言葉に、希望は返す言葉を失った。


田中はため息をついた。


「まあいい」


「この病棟、みんなくそくらえだ」




病室を出ると、希望は廊下で立ち止まった。


足に力が入らない。


まただ。


胸の奥で、あの日の雨が降り始める。


――私のせいだ。


香織さんの時もそうだった。


私がもっと早く気づいていたら。


もっと経験があったら。


母の声が頭の奥で響く。


『あなたは悪魔』


『あなたじゃなかったら助かったのに』


違う。


そんなこと、母は言っていない。


それでも、その言葉は何度も夢の中で繰り返され、いつしか現実よりも鮮明になっていた。


「私が……ちゃんとできてないから」


希望は小さく呟いた。


夜勤の休憩時間だった。


病棟の窓を叩く雨音だけが、静かな休憩室に響いている。


希望は紙コップのコーヒーを両手で包み込みながら、小さく息を吐いた。


田中の怒鳴り声が、まだ耳に残っている。


「この病院、みんなくそくらえだ!」


――私は、本当に看護師に向いているんだろうか。


そう思うたびに、いつも一人の少女の顔が浮かぶ。


高校時代の友人、友美だった。


当時の希望は、クラスでもほとんど誰とも話さず、昼休みも一人で本を読んでいた。


母から「悪魔」と呼ばれ続けた言葉は、自分には人と関わる価値がないという思い込みになっていた。


そんな希望に、ある日、友美が笑顔で話しかけてきた。


「希望、一緒にご飯食べようよ」


人気者だった彼女が、自分に声を掛けてくれた理由は今でも分からない。


けれど、その日から希望の高校生活は少しずつ変わっていった。


友美には夢があった。


「姉ちゃんが救急の看護師なんだ。


私も絶対、看護師になる」


彼女はそう話すたび、本当に嬉しそうだった。


そして、ある日の放課後。


二人で歩いていると、一人のおばあさんが突然倒れた。


激しく嘔吐し、苦しそうにうめいている。


希望は足が止まった。


助けたい。


でも、怖い。


体が動かない。


その横を、友美は迷わず駆け抜けた。


「大丈夫ですか!」


周囲に救急車を頼み、自分はおばあさんの手を握る。


「もう大丈夫ですよ。私がそばにいます」


その姿は、高校生には見えなかった。


まるで、本物の看護師だった。


救急車が走り去ったあと、希望はぽつりと呟いた。


「……かっこいい」


友美は照れくさそうに笑った。


「あの時、私も本当は怖かったよ。

でも、誰かがやらなきゃって思っただけ」


その一言が、希望の人生を変えた。


私も。


誰かの「怖い」を支えられる人になりたい。


その日、希望は看護師になることを決めた。


しかし今――。


患者一人救えず、怒鳴られて立ち尽くいている自分は、本当にあの日憧れた看護師になれているのだろうか。


雨はまだ降り続いていた。



勤務終了後、同期の宮田桃が、希望を見るなり声をかけた。


「田中さんに怒鳴られたんでしょ?」


希望は苦笑した。


「やっぱり私、対応が悪かったのかな……」


宮田は首を横に振る。


「違う違う」


「田中さんが怒ってる相手は、希望ちゃんじゃない」


希望は顔を上げた。


「抗がん剤で味覚障害が出て、ご飯も楽しめない」


「会社も思うように動かせない」


「病院は予算不足で食事改善も進まない」


「ダブルチェックにもイライラする」


宮田はコーヒーを一口飲んだ。


「それにね、朝の点滴も、田中さんの血管が細くなってるから難しかっただけ。CVポートを勧められたけど、感染が怖いって本人が断ったらしい」


希望は静かに聞いていた。


宮田は優しく笑う。


「希望ちゃん、あなたが若くて優しかったから、言いやすかっただけ。怒りのぶつけ先になっただけだよ」


希望は頷いた。


けれど、胸の奥の痛みは消えなかった。


「……それでも、私がもっと上手くできていたら


宮田はため息をつく。


「新人看護師ってね、よく患者さんの怒りまで全部背負おうとしちゃうの。でも、それはあなたの仕事じゃない」




翌日。


希望は先輩看護師の佐々木遥に昨日の出来事を話した。


遥は記録を入力する手を止め、穏やかに笑う。


「患者さんはね、病気に怒ってるの。病院に怒ってるの。そして、自分の人生に怒ってるの」


少し間を置いて続けた。


「でも、その怒りを受け止めてくれる人が近くにいると、その人にぶつけちゃうことがある」


希望は黙って聞いていた。


「土屋さん、全部、自分のせいだと思わなくていい」


その言葉は温かかった。


それでも希望の胸の奥には、まだあの日の雨が降り続けていた。






田中の病室を出た後も希望の胸の奥には重たいものが残っていた。


ナースステーションへ戻ると、そこには別の慌ただしさが広がっていた。


「えっと……採血ラベルって、どこから出すんでしたっけ?」


研修医の佐藤祐太郎が、電子カルテの前で困ったように立ち尽くしている。


二十六歳。


今年入職したばかりの研修医だ。


長身で端正な顔立ちだが、その表情には自信のなさが滲んでいた。


「土屋さん、ちょっと教えてもらえませんか……?」


希望が声をかけようとした、その時だった。


「佐藤先生、またですか?」


ベテラン看護師の鈴木春奈がため息をつく。


「ラベル印刷、この前も教えましたよね?」


「す、すみません……」


祐太郎は申し訳なさそうに頭を下げた。


「何回も聞かれると仕事が止まるんですけど」


ナースステーションの空気が、一瞬だけ凍りつく。


祐太郎は何も言い返せず、画面を見つめたまま立ち尽くしていた。


その姿を見て、希望の胸が痛んだ。


__数ヶ月前の私だ。


入職したての頃、電子カルテの操作一つ覚えられず、先輩に何度も聞いては謝っていた。


「また土屋さん?」


「一年目なんだから、自分で考えて」


そんな言葉を浴びるたび、自分が病棟にいる資格なんてないと思った。


希望は祐太郎の隣へ歩み寄る。


「佐藤先生」


「採血ラベルなら、この画面です」


画面を操作すると、すぐにプリンターが動き始めた。


「あ……そうか」


祐太郎はほっとしたように笑った。


「ありがとうございます」


その笑顔は、どこか子どものように素直だった。


「覚えが悪くて、本当にすみません」


希望は小さく首を振る。


「私も入職してすぐは、何回も聞いてました」


「そうなんですか?」


「はい」


二人は少しだけ笑った。


その様子を見ていた鈴木は、小さく肩をすくめる。


「土屋さんは優しいね」


その言葉が褒め言葉なのか皮肉なのか、希望には分からなかった。




佐藤祐太郎は、誰もが羨む経歴の持ち主だった。


国内有数の中高一貫校を卒業し、現役で都内トップクラスの医学部へ進学。


国家試験も上位で合格した。


両親は開業医。


幼い頃から「将来は医師になるもの」と言われて育った。


誰もが順風満帆な人生だと思っていた。


だが、病院では違った。


「佐藤先生、まだ終わらないの?」


「カルテ、また書き直しですよ」


「もっと早く動いてください」


指導医から叱責され、看護師から急かされる。


医学生時代には優秀だった彼も、現場では”できない研修医”という烙印を押されていた。




夕方。


祐太郎は希望と一緒に田中の病室を訪れていた。


診察を終え、病室を出ると、彼はぽつりとつぶやいた。


「土屋さん、さっき、あんなに怒鳴られてましたよね」


希望は苦笑した。


「聞こえてました?」


「はい、……全部」


しばらく沈黙が続く。


やがて祐太郎は言った。


「どうして、あそこまで言われても怒らないんですか?」


希望は廊下の窓から外を見た。


雨はまだ降り続いている。


「怒ってるんじゃないと思うんです」


「え?」


「田中さんは、私に怒ってるんじゃなくて……」


希望は静かに言葉を選んだ。


「病気が怖いんです」


「抗がん剤の副作用で食事も楽しめない」


「会社にも思うように行けない」


「先のことも分からない」


「その苦しさを、誰かにぶつけたくなる気持ちは……少し分かるんです」


祐太郎は黙って聞いていた。


希望は続ける。


「だから私は、怒鳴られたことよりも、田中さんがちゃんとご飯を食べられているかの方が気になります。…食べられなかったら、体力も落ちますし。少しでも食べられる方法があるなら、一緒に考えたいんです」


祐太郎は思わず立ち止まった。


そんなふうに患者を見ている看護師を、彼は初めて見た気がした。


「……土屋さん」


「はい?」


「あなたって、不思議ですね」


希望は首をかしげる。


「普通、あんなこと言われたら患者さんを嫌いになりませんか?」


希望は少しだけ笑った。


「嫌いになれたら、もっと楽なんでしょうね」


その笑顔はどこか寂しかった。


祐太郎は胸の奥が締めつけられるのを感じた。


この人は、人一倍傷つきやすい。


それなのに、自分より先に患者のことを考えてしまう。


だからこそ、自分を責め続けてしまうのだ。


その日から祐太郎は、土屋希望という看護師が少しずつ気になり始めていた。


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