52.公女、手を引く。
ニコラが演奏を終えると、夕闇が覆う中庭は静寂に包まれた。
風のざわめきが、微かに響く。
パチパチと、最初に拍手をしたのはパトリスだった。
それが村娘たちに広がり、兵士たちも堰を切ったように手を打ち鳴らす。
わたしもそうだし、兵士たちのほとんども、この地の生まれではない。ニコラが演奏してくれた曲は初めて耳にしたものだ。
だけど、蘇ったこの地の旋律に言葉も出せないほどに心を震わせ、ただ拍手を贈る村娘たちの感動が、無性に嬉しかった。
『ハーディングフェーレ』という楽器をジッと見詰めて動かないニコラに、わたしも拍手を贈る。
カトランが親指で目元を拭った。
「……この曲を覚えているか、パトリス」
「う~ん……、なんとなくです」
「そうか。……兄さんが、好きだった」
「……はい」
カトランのお兄様とはパトリスの実の父親だ。カトランを逃がして帝国軍に突撃し、命を落とされた。
わたしの知る限り、カトランがパトリスに、お兄様の話を聞かせたのは初めてだ。
やがて、村娘たちもヒソヒソと、兵士たちに昔話を聞かせはじめた。
普段は荒っぽいふる舞いも目立つ兵士たちが、ただ黙って頷き、村娘たちを優しげに見詰めて、その話に耳を傾けている。
きっと、おなじ思い出を抱える村娘同士で話したのでは、ツラすぎるのだ。
楽しげな輪舞の旋律。
胸に蘇るのは、かつての平和な村であり、そこにいた今は亡き人々なのだと思う。
ただ黙って聞いてくれる兵士たちの存在が、村娘たちの心の救いになっていた。
慈母のような微笑みをたたえた王太后陛下が、そっとニコラの隣に立たれた。
「……このニコラは民族音楽を研究しておったのだ」
それで、この地で失われた旋律を再現できたのかと、皆が感慨深げに頷く。
といっても、みんなもわたしも『民族音楽を研究』が何なのか、分かっているわけではない。
なんか……、すごそう。
といった程度の認識なのだけど、いま実際に目の前で演奏してくれたのだ。すごいに決まっているではないか。
王太后陛下がパンッと手を打たれた。
「ま、そんな小難しい話はあとにして、早く踊ろうではないか! ……弾いてくれるな? ニコラ」
ニコラがコクリと頷くと、みんなの瞳がキラキラと輝く。涙を拭って立ち上がり、お衣装を整えはじめる。
ソランジュ殿下が、わたしに歩み寄られた。
「……ニコラは宮廷楽士でした」
「はい」
「ですが……、王都の退廃的な夜会で、貴族夫人たちから『愛玩動物』のように扱われそうになって逃げ出し……。私が離宮に匿って、それから、お祖母様のご領地に逃がしたのです……」
「そうでしたか……」
「……事情も説明せずに、突然申し訳ございませんでした」
「いいえ、みんな喜んでいます」
きっと、ニコラが実際に演奏できるのかどうか、王太后陛下も直前まで確信を持てなかったのだろう。
だから、突然の紹介になってしまった。
いまはソランジュ殿下から、かいつまんだ事情だけをご説明いただいたけれど、それだけニコラが王都で受けた心の傷は深かったのだろうと思う。
カトランがソランジュ殿下に威儀を正した。
「なによりの贈り物を賜った。後ほど、王太后陛下にもお礼を。楽士殿にも何か褒美をとらさせていただきます」
「恐れ入りますわ。……こちらの不躾なふる舞いをお咎めになられなかっただけでも、充分な返礼を頂戴いたしました。ニコラにはどうぞ何曲か演奏する機会を賜れば幸いにございます」
「それは、こちらも望むところ」
丁重な挨拶を交わし合うふたり。
あのとき――、ソランジュ殿下が初めてこの地にお見えになられたとき、このふたりの姿に、わたしは『やきもち』を焼いていたのかもしれないし、なんだか自分が小さく、消えてしまいそうに思えたものだった。
それを、いまは感じない。
どちかといえば……、憧れる?
こんな風にカッコいい挨拶を交わせる、カッコいい『大人』に、わたしもなりたい。
ソランジュ殿下が、わたしに微笑まれた。
「さあ、アデール様も参りましょう。皆と一緒に踊られますわよね?」
吸い込まれるように優美で大人な、貴婦人の笑顔。なにより、わたしの大切な『お友だち』の笑顔に、微笑みを返した。
「はいっ! ソランジュ殿下も」
「ええ、ぜひ」
「……アデールは、養父上の手を引いてあげるべきだよ」
パトリスの声にハッとする。
「……え?」
「手を引いて、輪に連れていってあげるといいんだって」
パトリス監督のまっすぐな眼差しと、ソランジュ殿下の上品で優美な『ニマニマ』とに挟まれ……、カトランと目が合った。
スッと、カトランが右手を差し出す。
「で、では……、カトランも……」
「ああ、いこう」
カトランの手をそっと握る。大きくて分厚くて、傷だらけで、温かい手を引く。
日が落ちて、いくつかのランタンの明かりが照らし始めたみんなの輪の方へと向かって、ふたりで歩きはじめる。
どんなに夜の闇が深く大きく覆いかぶさってきたとしても、明るく温かいものを絶やさぬようにと願いながら。
カトランが、手を握り返してくれた。
Ψ
ニコラの演奏は素晴らしく、涙に追い付かれないようにだろうか、村娘たちはみんなとびきりの笑顔で踊った。
参加者もお世話係も、みんなで輪になって踊る光景は、この温泉郷での一日の締めくくりに、とても相応しい。
わたしはずっと『温泉地』と呼んできたのだけど、ソランジュ殿下が仰る『温泉郷』の響きが素敵なので、気負わずにそのまま拝借することにした。
――いつか、領民や兵士、みんなの寛いだ笑顔が集まる『郷』になればいい……。
という願いも込める。
ニコラの演奏が呼び覚ました、村娘たちから満ち溢れるような万感の思い。ガビーの笑顔もどこか大人びて見える。
兵士たちは、それを慈愛の眼差しで受け止め、心に寄り添うように踊る。
いつもより各段に『男前』に見える彼らの佇まいに頬をゆるめ、ふっと気が付く。
――兵士たちも……、ともに戦った戦友を亡くしながら、戦争を生き抜いたんだわ。
村娘たちの胸のうずきも、よく理解し、共感するのだろう。
ニコラが奏でる楽しげな調べに身を任せ、ロングジレ姿でステップを踏む彼らは、包容力あふれる立派な紳士だった。
疲れ果てるまで踊って、みんなで地面に身体を投げ出した。
大きな笑い声が満ちる。
「私、こんなにバカみたいに踊ったの初めて」
「はははっ! 俺もだよ」
村娘と兵士が、なんの垣根も、てらいもなく、息を切らしながら笑い合っている。
やがて、彼らは連れ立ってニコラを囲みはじめる。
「……とてもいい演奏でした。ありがとうございます」
口々に感謝を伝える村娘たち。
よく見ると、兵士は村娘たちが誘ってニコラのもとへと歩み寄っていた。
――村娘のお姉様たち……。兵士がニコラに「やきもち」を焼いちゃわないように気を使ってくれているのね。
苦労を重ねてきたお姉様方の、細やかな気遣いに感心させられる。
お姉様方は演奏を褒めたたえ、楽器について質問し、ニコラがボソボソと小声の早口で答えると、大いに感心してみせる。
そして、この地にかつてあった楽器について伝え、ニコラの知見を引き出す。
「……四角い……」
「そうそう、こんなくびれはなくてね」
「それなら……、リュラ……。いや、ヨウヒッコかな?」
ニコラが枝で地面に描いてみせ、村娘たちが歓声をあげる。
「そうそう! こういうの、こういうの! ……私らはカンテレとかカンネルとかって呼んでたんですけど」
「なら、間違いないですね。カンテレとヨウヒッコは……」
徐々にニコラの口も滑らかになって、早口で聞き取れないと、お姉様な村娘たちが眉を寄せて笑う。
王太后陛下とソランジュ殿下は、そんなニコラを微笑ましく見詰めている。
わたしの隣に腰を降ろしたカトランが呆れたように、だけど心地よさそうに呟いた。
「……音楽も復興せねばならんな」
「ええ、そうですね」
「ふふっ、やらねばならんことばかりだ」
「はい、楽しみですわね」
「……俺の代で、すべてを元に戻せるかどうか……、先は長いな」
「それはきっと、パトリスが」
「そうだな。……後を任せられる者がいるな、俺には」
カトランが目をほそめる。
焦点を合わせず、この光景のすべてを受け止めようとするかのような微笑みに、わたしも包み込まれるみたいだった。
そのとき、スッとあたりが静まり返り、ニコラの声だけが響いた。
「うん……。やはり、この調べには国境を接する帝国の影響が見受けられます……」
軽く楽器をかき鳴らす。
周囲の空気が凍り付いていることに、ニコラだけが気付かない。
「……この旋律の跳躍。間違いなく帝国の古い東方音律の影響です。国境を越えて文化がこのように根付いているとは、なんと素晴らしい音楽的奇跡でしょうか……」
村娘たちには、帝国軍に侵略され、蹂躙された過去がある。
そして、兵士は死力を尽くして帝国軍と闘い抜いた。
――帝国の影響……。
その言葉を、村娘も兵士も受け止めることができず、興奮気味に早口で語るニコラを、ただ見詰めていた。
本日の更新は以上になります。
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