20.公女、しっかり支える。
カトランの真っ赤な瞳が見開かれたと、湯煙越しにもハッキリ分かった。
寒い冬の露天に立っているのに、手の平が汗で濡れる。
パトリスが、わたしの入浴衣のフリルを小さな手でキュッと握った。
わたしの腕の中で。
「……どうした、浸からないのか?」
と、湯に浸かるカトランが、顔を背けた。
「はい……、あの」
「……裸足で立っているんだ。爪先が冷える。とにかく、湯に浸かってからでいい」
かつて攻城戦ゲームで、わたしとパトリスがちょっとぶつかった姿を目にしただけで、カトランに激怒された。
そのカトランが、穏やかに湯を勧めてくれる。わたしの爪先の冷えを心配してくれていた。
腕にパトリスを座らせている。
座らせた左腕を、右手でしっかり支える方法をギオに伝授してもらった。
パトリスを胸に抱く形では、謹厳な家風を重んじるカトランの気分を害し過ぎるのではと思ってのことだ。
カトランの勧めに従い、足を滑らせないように気を付けて、ソーッと足先から湯の中に入っていく。
腕の中でパトリスが、見るからにハラハラしていて、申し訳ない。
なんとか湯の中に入り、パトリスを抱いたままで湯に身を沈めた。
「驚かせてしまい……」
「いや、……別に構わないが」
ふしだらな行いだとは思われていないのだろう。
カトランの声は、いたって冷静だった。
「実は、カトランの不在中、パトリスとゲームをしていました」
と、出来るだけ正直に、出来るだけ淡々とありのままに、カトランが不在中の出来事を報告していく。
いまのガルニエ家と、かつての大公家はまったくの真逆だ。
明るく優しかった母が、なぜ変わってしまったのか、わたしは知らないままだ。
母には母の事情があったのかもしれないのに、それを聞く前に、
――お父様と仲良くして。
と、諫言したばかりに、わたしは遠ざけられた。
あるいは姉も兄も、父も、母の事情を知っていたのかもしれない。
知らないのはわたしだけなのではと、孤独を深めていた。
ガルニエ家では逆に、わたしだけが知っている。
パトリスは、わたしにだけ悩みを打ち明けてくれた。カトランにも内緒にして欲しいとパトリスから言われて、約束した。
カトランの過去についても、わたしがマルクから教えられたことを、カトラン自身は知らないだろう。
そして、それはパトリスに伝えるべきことでもない。
母親と顔が似ていることがカトランの心の傷を刺激すると言われたところで、まだ6歳のパトリスに何が出来るだろう。
わたしが母から受けた仕打ち以上に、理不尽な話だ。パトリス本人の努力では、どうすることもできない。
慎重にパトリスの悩みへの言及を避けながら、抱っこゲームをしていたことを、カトランに報告した。
「そうか……、分かった」
と、カトランは冷静に受け止めてくれた。
なんなら、あまり興味がなさそうでさえある。
ただ、こちらを見てくれない。正確にはパトリスを見ようとしない。
「ど、どうですか? カトラン」
「……ん?」
「は……、母と息子らしく……、見えませんか?」
わたしの言葉に、ピクリと動いたカトランが、ゆっくりと顔を向けてくれた。
「……カトラン」
「なんだ?」
「わたし……、ピクニックに行きました。母と、父と……、姉と、兄と」
「ああ……」
「王都に移り住む前のことで、姉もまだ、あんな風ではなくて、意地っ張りでしたけど、わたしにも優しくて……。わたしは、ピクニックがとても楽しかったのです」
「そうか」
「だから……、思い出すと、とても悲しくなります」
カトランの真っ赤な瞳が、まっすぐにわたしを見詰めてくれていた。
「だから……、いつか、一緒に行ってほしいのです。カトランとパトリスと、ピクニックに」
「……そうか」
「上書きしたいのです。わたしにとってのピクニックを」
湯に浸かりながら、わたしの腕の中にいるパトリスがモゾモゾっと動いた。
「……ね、ねえ」
「なあに、パトリス?」
「……ピクニックって、……なに?」
「ふふっ、そうよね」
パトリスの髪を撫でた。
いまは身体に触れても、パトリスは反応しない。
落城し、森を彷徨い、山奥に匿われ、つい最近、城に引き取られた。
ピクニックなんて言葉、聞いたこともなかっただろう。
わたしの腕の中が安心できる場所だと思ってもらえることが、いまは嬉しい。
「……お出かけするのよ? 綺麗な野原とかに」
「ふうん……」
「それでね……、お茶、とか……、サンドイッチとか……、をね……、みん……な、でね……」
「もういい」
と、カトランが優しい声で言った。
「……いまは思い出さなくていい」
「はい……」
泣かないつもりだったのに、つい込み上げてくるものがあった。
パトリスにいまの顔を見せたくない。
空を見上げて、涙をこらえる。
家族で楽しいピクニック。
また、行きたいのになぁ……。
カトランが、パトリスに穏やかに語りかけてくれた。
「パトリス、春が来たら連れて行ってやる」
「はいっ、養父上!」
「なかなかいいものだ。ピクニックは」
「そうなのですね?」
「ああ、いいものだ。……俺も上書きしよう。パトリスは俺の息子で、アデールがその母だ」
「はい」
と、継母と継子の声がそろった。
カトランが何気に、自分のことを〈俺〉と言ってくれたことも嬉しかった。
知らなかったけど、きっと普段はそう言っていたのだろう。またひとつ、カトランのことを知ることが出来た。
「さて!」
と、明るい声を出した。
すこし鼻声になってしまったことは、ご愛嬌だ。
「罰ゲームのお時間です!」
「ええ~っ!? 今から~?」
と、パトリスが笑うと、カトランがすこし驚いたような顔をした。
その驚きの訳は、わたしには分からない。
だけど、それからカトランの表情がゆっくりと和らいでいったのが、なんだか嬉しかった。
「くすぐります!」
「……もう、しょうがないなぁ」
と、パトリスが、大人ぶった言い回しをするのが可愛らしくて、ぷぷぷっと笑う。
そして、左腕に座らせたまま、右手をパトリスの脇腹にあてる。
「うひっ」
聞いたことのない、パトリスの笑い声。
「こちょ、こちょ、こちょ、こちょ!」
「うひひひひひっ」
身悶えするパトリスを抱きかかえながら、カトランと笑った。
「そうだな……、くすぐるか」
「え? なにがです?」
わたしの問いに、カトランは応えてくれなかったけれど、満足そうにパトリスを見詰めていた。
そして、3人でゆっくりと湯に浸かる。
「ぷふい……」
と、笑い疲れたパトリスが、一丁前の吐息を漏らすのに、またカトランと微笑み合うことができた。
――俺も上書きしよう。
そう言ってくれただけで、きっと、一歩前進だ。
すぐに忘れてしまうことなんか出来っこない。
このままでいたら、カトランはいつまでもパトリスにツラかった記憶を重ねてしまうだろう。
ちいさな微笑みを積み重ね、心の傷の意味を変えていく。
無言の晩餐の意味が、わたしにとってすっかり変わってしまったように。
――とまあ、12歳も年下の小娘に言われても、ヘソを曲げられるだけかもしれないし……。
ということで、パトリスに協力してもらったのだ。
抱っこゲームをカトランに実演して見せたいという、わたしのお願いをパトリスが聞いてくれた。
こればかりは、話で聞く方が〈ふしだら〉な感じがするような気がしたし。
とりあえず、カトランはパトリスをまっすぐに見られるようになったようだし、丸く収まったことにしておこう。
無言で湯に浸かる時間も、空気が軽くなった気がする。
まだまだ、みんなそれぞれに傷口が開いたり閉じたりするだろうけど、そのたびに、ゆっくり向き合えばいい。
楽しみにしてた温泉旅行が、ようやく始まった気がした。
なのに、
「アデール」
と、わたしを呼ぶカトランの声は、ひどく冷たくて、まるで軍令を発するかのようだった。
「……は、はい」
「この機会なので、言っておかねばならないことがある」
カトランの真剣な表情に、湯に浸かったまま背筋を伸ばした。
本日の更新は以上になります。
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