何ぞ彼の穠たる唐棣の華。嫁ぐ姿は、あの美しく盛んに咲き誇る艶やかな花のよう②
腹の中がよろしくないと知った地精は、それを潰して潰して、取り払った。そうならば、この女も役に立つ女官となるだろうと考えていたのだが、なんと動かなくなり、どうやら死んでしまった。
「私たちは、弱きものが処分されると、死ぬなどと知りませんでした」
「私たちの弱いところも死んだかもしれませんが、それで私たちはお役にたてます」
狄女は薬草を摘みながら、趙武のおめがねにかなわなかった己を役立たずだからだ、と自嘲した。
楚女に関しては、まあ読者はご存じであろう。
趙武は、士匄の腕の中で声を失っていた。自嘲、自己嫌悪の一言が、そのまま死刑執行書とされるなど、これほど理不尽なことがあろうか。口に出すことで、己から祓われるものもあったろう。しかし、地精は烙印と見た。
「范叔……このひとたち、いえ、ひとじゃないのでしょう。あなたは、わかっているのですか」
「菊の地精だ。あのバカ女が名を与え、役割を教えた。それもわからんのに、まあお前はよく耐えたな」
士匄は素早く答えると、場を見渡した。晋女が動こうとするのを手で制す。あの女が地精を鎮めるのが手っ取り早いが、その胆力があるとは思えぬ。そもそも、きちんとした咒を紡ごうとして途方にくれるであろう。式を知らず適当に書いた解が当たっただけの女である。
地精どもは、今はおとなしく見てきている。これらは女官たちの動きをトレースしてそれを『役に立つ』と思っているふしがある。宴席で働いていたのもそれであろう。が、地精自身で『役に立つ』ことを作り出しかねない。実際、役立たずを殺すという暴走をしている。この、おとなしいうちにケリをつけねばならなかった。
士匄が、晋女を気にしつつ、囲んでくる地精どもに目をくばらせ、趙武をしっかと抱き――離れればさらに見ねばならぬものが増えるからである――脳内をフル回転させていたとき、その声は聞こえた。
「范叔、趙孟。私は何をすればよい?」
内宮の外であった。菊園に、韓無忌がいた。女が一人立ちはだかるように立っている。それも地精だ、と気づいた。他の地精とどこか違う、と士匄の勘が働いたが、それよりは韓無忌である。彼がこちらを認識している、そしてこちらから見えているということは、地精に取り込まれかかっている可能性がある。菊茶の女か、と士匄は思った。つまり、一番早く地精に目を付けられたのは韓無忌ということになる。
手伝って貰うか、と士匄は思った。趙武では補強できぬ部分を、韓無忌は支えてくれるであろう。士匄が即興で作る咒を聞いて、即座に対応するに違いない。
「そうだな、まず――」
士匄が口を開いた瞬間。
「何もしないでください! 来ないで! 逃げて! 逃げられないのでしたら、動かないでください!」
趙武が身を乗り出すようにして韓無忌を見ながら叫んだ。士匄は、甘ちゃんめ、と舌打ちをする。先達に迷惑をかけるわけいかぬ云々、だいたいそんなところであろう。
「趙孟。韓伯に逃げろとはどういう了見だ。離れれば、二度とこちらに来れぬであろう。お前よりよほど役に立つ。この場を解放するに、一人でも役に――」
「うるさい!」
士匄の理屈を、趙武が四文字で遮った。ここまで無礼な後輩など見たことはなく、士匄は唖然とした。韓無忌が趙武へと顔を向ける。その目は、遠い異界を見ているようであった。――本当は、ほとんどの世界が見えていないのであった。
「趙孟。私は汝ら先達だ。私には様子はわからぬが、ざわついた気配、悲鳴、緊張はわかる。范叔は才あるが、巫覡でなく只人。一人では荷が重いと思ったまで。それを、一人で逃げろとは、私に卑怯者となれというか。導かねばならぬものを見捨てろと」
何が起きているかなど、詳しいことはわからない。内宮の状況がそのまま韓無忌に見えても聞こえてもいない。水の中で響く、くぐもったような音であった。しかし、異常が起こっていることくらいわかる。范叔と趙武の声とかたちを見た時、韓無忌は先達として、年長としての責任を思ったのである。が、趙武がそれを撥ねのけた。
撥ねのけ、そして、さらに叫んだ。
「あなたは、何もできない、足手まといです!」
血を吐くような声が、場に響き渡った。士匄は息を飲んで趙武を見た。
趙武は悔しそうに泣いていた。尊敬する先達を傷つける言葉を吐く己が、悔しかった。他の言葉があるかもしれなかったが、趙武には見つけられなかった。
「人が! 死んでいます! 三人、いや四人かもしれません、死にました。私たちもどうなるかわかりません。あなたは、一人で走れますか、身を守れますか、安全な場所を探せるというのですか! 范叔に応じて支えるという、その時に、あなたは己に責をとれますか! 私はいま、あなたの手を引くことかなわぬのです!」
韓無忌が、手を震わせた。拳を握りしめすぎて爪が肌を傷つけ、うっすらと血が滲む。しかし、彼は表情を変えなかった。趙武の言葉は、罵倒である。障害を持つ韓無忌などなんの役に立たぬと言い切ったに等しい。手探りで文字を覚え、耳で教養を覚え身につけ研鑽し、己を律してきた韓無忌の全てを否定する言葉でもあった。
しかし、韓無忌を守ろうとする言葉でもあった。誠実すぎる趙武らしい、身を切るような悲鳴であった。この、謹厳実直で真面目で、不器用な青年は、肩を落とすことなく士匄と趙武を見た。
「私は、汝らに背を向けて逃げるようなことはできない。私はそのような生き方はできぬ。しかし、趙孟の言葉は理あり。私は范叔を満足に支えることできぬ。私は、ここから動けぬだけのものになった。私は、役に立たない」
士匄は息を飲んだ。己を全否定しながらも、堂々と立つ男に飲まれた。韓無忌の中に諦念はあるかもしれぬ。悔しさも、もしかすると趙武に対する憎しみも生まれたかもしれぬ。しかし、彼は常のままの顔で、声で、己は立ってるだけの役立たずだと言い切ったのである。腕の中の趙武が歯を食いしばって泣いていた。この、異常な状況をなんとかせねばならぬのが第一義である。だからといって、韓無忌を傷つけて良いわけではない。趙武は、己の至らなさが苦しかった。狄女の痛みも分からず、楚女の不安にも気づかず、死なせたのは己ではないかとも、思った。
うかつなことに、士匄は一瞬、集中をゆるめた。趙武はとっくに感情が乱れている。彼は、未だ未熟である。ゆえに、場の変化に気づくのが遅れた。
女たちの視線が、全て『外』に向いていた。
「役に立たないのですか、大夫さまですのに」
「この宮の中にいるものは、全て役に立たなければならない」
「大夫さまは――」
表情のない女たちが――地精が、韓無忌に向かい歩き出す。
「ち、そちらは、宮の中ではなかろうが!」
士匄は幾度めかの舌打ちをした。あの地精どもは、内と外を出入りしている。それは、韓無忌の前に立っている女を見ればわかる。寸分違わぬ同じ顔をしたあれも、地精である。もし、あんなものが全て出てしまえば、この宮城が菊に埋め尽くされる。
菊に囲まれた仙境に、宮城が取り込まれ、それにひもづいたもの、つまり晋は此岸から消える。夏もそうであった、山猿女のせいで、苦労したのだ。次は勘違い女のせいで苦労させられる。女難の年かよ、と士匄は歯ぎしりした。
③に続きます




