女あり春を懐う、吉士之を誘う。恋に憧れる少女は素敵だね、と男は手を伸ばす①
「――あなたは、どなたでしょうか」
韓無忌の目の前にいるのは、昨日も今朝も菊茶をふるまった女官である。そう、他者が見れば断言するであろう。しかし、韓無忌は問うた。大輪の花が咲いたように広がる衣、常のように美しく座すその女官に、お前は誰だ、と問うた。
「……菊の係のものでございます。あなたが、そう仰ったのでございます」
女官が、しずしずと言った。少し冷たく、心を感じられない声音であった。韓無忌は首を振り手で制した。
「私が菊の係のものと問うたは、あなたではない。私の目にあなたは花のように見えるが……目元……そうですね、覚えのある目元です。もしかすると、彼女とそっくりなのかもしれませんが、あなたではない。同じ職分であるのなら、己の責を果たしなさい。私は今、私人です。議を終え散策しているだけのもの。君公の女官が饗応するものではない」
滔々と諭し、韓無忌は女官を拒絶した。昨日の朝、彼はこうすべきであった。いつもなら、郤至にも女官にも職分と公私の別を言い、菊茶など飲まず、菊など受け取らず去った。彼はまるで、仕切り直しているようであった。
女官が立ち上がり、身をよじった。
「いえ、いえ、あなた、あなたさまは、私たちを菊の係のものだと、おっしゃった! 私たちは女官としてお役に立たなければなりませぬ。私は私たちなのです。なぜ、私を拒まれます!」
惑乱したように叫びながら、韓無忌につかみかかろうとした。それは、女官としてあるまじき行動である。韓無忌は、逃げられなかった。弱視の彼は、常に崖の上で歩いているようなものである。身を翻して避け、逃げるなどできようがない。
白く細いその腕は、韓無忌に届かなかった。どこからか現れた、もう一本の腕によって掴まれ、止められていた。
菊の女官が、菊の女官を制していた。ぼやけた韓無忌には、同じ花がもう一輪、現れたように見えた。同じ姿形にも見えた。
実際、女たちは寸分違わぬ姿をしていた。若干、制した女のほうに情のようなものが、見えた。
「大夫さまはいらぬと仰いました。そこを引くのも、お役に立つということなのでしょう。あなたは私ですが、大夫さまは、私となさらぬのです。貴き方は、私たちには計り知れぬほどの深いお考えがございます。私たちを私と思わぬ何かがあるのです」
「私たちは人のお役に立てと生まれたのです、この方は私たちを菊の係とおっしゃいました。その責務を果たせず、私は私たちとしてどうしたらいいのですか。いやよ、あなただけお役に立つなんて、私なのに」
意味のわからないやりとりに、韓無忌は立ち尽くすしか無かった。ただ、菊の女官がやってきた、と思った。優しく思いやりのあるかんばせが、憂いを帯び、焦っているのが痛々しかった。労りたいと思ったが、指先ひとつ、動かなかった。
「菊茶のあなた。あなたの職分を私は侵しているようだ。そこの、女官の職分も。先ほども申し上げたが、私は、私人として、極めて私的な理由で菊の園に来たまでです。おかまいなく、お戻りを」
あなたの顔が見たかったのだ、という言葉を韓無忌は丁寧に飲み込んで粉砕しながら、言った。
「ねぎらいのお言葉、大切にいたします。私たちは女官として、職分を全うせねばならぬものども。私……へのお言葉、大切にいたします」
菊の女官が少し、頬を染めて言った。それは、初めて見せる貌であった。なんの作用か、韓無忌の視界には、それがはっきりと見えた。うすぼやけた世界の中、それはくっきりと鮮やかであった。恥じ入りながら喜び、いじらしい表情であった。
「どうして!? 私たちへのお言葉でしょう!? あなただけが受けたとなされるの、私たちなのに、あなたは、どうして、あなたなのぉ! 大夫さま、私にも、お言葉を。私たちに、お言葉をください。お役に立てと、職分を全うしろと、同じお言葉をください!」
菊の女官に引きずられるように連れて行かれながら、女官が叫んだ。韓無忌はその異常さに険しい顔をした。凶事、戻らぬ士匄と趙武、同じ姿の、同じ香りの女官。菊の女官と、もう一人の、狂態を見せる、女官。
韓無忌は杖をよすがに歩き出した。内宮への入り口に向かう。庭にある、常に閉じられている垣根である。寺人や女官だけが鍵を開けることができる、君公の住居へ向かう。
菊の女がむりやり暴れる女官を垣根の向こうへ押し込めると、遮るように立ちはだかった。
「大夫さま。私はあなたに菊茶を奉りました。二度、あなたのために捧げました。その時、私は君公の女官でなく、大夫さまに仕えるものとなっておりました。しかし大夫さま。私たちはこの内宮にて仕えるものなのです、大夫さまは外の方です。中に入れば取り込まれます。お帰りを。お願いです、帰ってくださいまし。あなたに仕えたはしためとして、伏してお願い申し上げます。――おいでにならないでくださいまし」
拒絶と断絶が、韓無忌の手を払い、足を止めさせた。先達として、士匄と趙武が心配なのは本当である。いずれ卿になるべき身として異常を収めねばならぬという責務も、本心である。しかし、奥底に菊のように清々しい女性の憂いをとりはらいたいという想いはあった。たった二度顔を合わせただけ、昨日知ったばかりのこの女官の手を韓無忌はとりたいと思ってしまっていた。
己の至らなさ、浅ましさに目を伏せた韓無忌を、菊の女は見つめた。韓無忌はわかったとも嫌だとも言っていない。この女は、韓無忌が虚無に陥ったことに気づいていない。弱視の青年を労ることができても、そのような、心の襞がわからないものであった。
「私は、私たちではないの、私たちはお役に立たなければならないのでしょう、でも私はお役に立てなかった、私は、お役に立てなかった、私は、私たちではないの、役立たず!」
琴の調音に失敗したような悲鳴をあげて、女官が身をよじっていた。尋常とはいえぬ言葉と姿であった。きれいに結いあげた髪は乱れ、顔を爪でひっかいている。その奇声は、邸内にまで響くほどの、大きさであった。――士匄たちがいる室にまで、かすかに響くほどの。
②に続きます