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叔や伯や、駕さば予ともに行かん。誰でもいいわ、迎えに来てくれたら私はあなたのものになる③

 士匄という青年はこのようなとき、相手を再起不能にするまで殴り続ける。虎が獲物を痛めつけるように嬲り続けるのだ。冷たい視線とともに、舌なめずりするような気配を趙武が察し、口を開いた。

「舜典(しゅんてん)の第二ですね。舜帝の大いなる決めごとのひとつです。十二の州をとりきめ、十二の山を定められた。世の境界を決められ、治水を極められました。……とても、とても大切なことです」

 趙武が少し含みをもって言うが、晋女には分からず、二人の顔を見る。彼女は詩を諳んじることができ、字もわかり、書ける。かつて彼女は貴婦人たれと育てられたのである。それ以上を求められてはいなかった。

「趙孟。はっきり言ってやれ。そのように待ってやってもそこの女に意味はわからぬ。わかっておれば、賢しらに字を書きちらし、人に咒(しゅ)など振りまかぬ」

 咒!? と晋女が叫んだ。趙武が少しため息をついたあと、口を開いた。

「十二の州と山を定められたということは、名を与え役目をお決めになられたということ。州は人の住む場所、治める土地となりました。山は形を持ち、祀れるようになりました。名を与えるということは、字を刻むということは、極めて重い行いです。物に役割を与え、人を縛り支配します。あなたは、名付けと言わなかった。それは責を放棄、いいえ、わかっていない者の言葉です。知恵に溺れ、ただ己を誇示したいという理由で人に名を与え、それを字として残した。これは、咒となります。私は二人の女官に出会いました。二人とも、様子がおかしかった、あなたに名を与えられた者です。あなたが、無自覚に、名を付け、支配していた。あなたは誇りを教えられ気高くたれと育てられたのでしょうが、他者を見下さないと保てぬものは矜持ではございません。卑屈というものです。……いえ、これは私の私見ですから、卑しいとは限りませんね、本題ではない」

 趙武の声はぞっとするほど暗い。鋭さはないが、地下から這い上がってくるような冷たさがあった。晋女が怯えた顔を、趙武に向ける。趙武の言葉は続いた。

「あなたは名を与えていた。范叔が仰るに、女官の行いが異常なのだそうです。あなたは、彼女たちに恩恵と称して何を仰ったのですか。名を与え、形を定め、そして何を吹き込んだのです。あなたの咒が、女官たちの死と無関係とは思えません」

 晋女が少し考える顔をしたあと、顔を青くしていく。何か、思い当たるところがあったらしい。首を小さく振った後、士匄を縋るように見た。

「名を、付けよう、などとは」

 震える唇は、品良く柔らかそうな紅色であった。

「女に責は問わぬ。言え、お前は名を付けたものどもに何を言った。仕入れ先と仕入れ日で戯れに名をつけ、何をふきこんだ」

 罪を問い刑を量る声音で士匄が静かに言った。そこに嬲る気配は無くなり、厳正な法制家の姿がある。強欲で傲岸不遜な士匄のもう一つの顔であった。

「……みな、鈍くて頭の悪い娘ばかりだった、私に仕えたはしために比べると酷いほど。だから、道を示してあげたのです。だから――この宮の中にいるものは、全て役に立たなければならないのよって」

「しかし、お前は奴隷が嫌だとわたしに媚びて抜けようとした、と」

 士匄の言葉に、晋女が、媚びていない、と叫んだ。

「君公はまつりごとにご興味なく……ええ、はっきり申し上げましょう、人として器の小さな方です。亡びた家を再びなど私だって思いません。でも、自分よりバカに仕えるなんて、耐えられない。ええ、奴隷というものはそうだとあなた方は思うでしょう、私だって幼いころは思っておりました。……卑しいものどもがバカなのは、耐えられました。父の顔も忘れかけ、何度も売られ、耐えていることも忘れそうになっておりました。でも、私は晋に戻って、我が家を滅ぼした男の息子に仕えることとなった」

 時折、ガチガチと歯が鳴った。激情の現れであった。

「せめて、貴い血筋に見合ったおつむでしたなら、私も覚悟ができたというもの。私は、他の女官とは違う。みな、ここにいるなら役に立つべきです。それが職分ですもの。私もここにいる間は尽力しましょう。でも、私はここにいるような者ではございません。あんな、どこの馬の骨とも知らぬ女たちと一緒にされたくはない。……君公から逃れるためには、相応の方に買われるしかない。そして私にはその価値がありましょう。字が読めて書けて、古詩を知り、大夫の音曲を奏でることができる女官が他におりましょうや」

 一気に吐き出すと、晋女が趙武と士匄を伺うように睨み付けた。品の良い顔が歪んでいた。士匄はそれをはじき返すように、醒めた目を向ける。

「だいたい、わかった。その勢いで他のものを圧していたなら、その願望も漏れ垂れ流しであったろうよ。知らず、口に出していたかもしれん。趙孟、女官らは、この女の我欲に当てられたわけだ。名を付けられ、外に出るべきという欲に支配され、そのためにお役に立ちますと縋る。古今東西、女というものは考えなし、特に知恵のついた女はどうしようもない。淫祠(いんし)以下ではないか」

 士匄は、しょうもない気持ちを込めて、言った。宮中に淫祠ははびこっていなかったが、バカが咒を振りまいていた。指向性が無いだけに、始末に負えない。後で殺してしまった方が早い、とも思った。

「でも范叔。女官がどこかおかしかったことはわかります。しかし、それだけでは説明できません。二人、惨たらしい最期を迎えました。そして、私たちがここを出ることあたわず。彼女が女官たちに名付けをして咒で縛っていたこととこれは、繋がらない」

 趙武の言葉に、士匄が、そうそれだ、とまた言った。だからそれはなんだと、趙武が再び士匄を見る。晋女はうつむいていた。

「おい女。お前の持ってきた菊酒だ。それを仕込んだのが誰か、お前はわからんときた。その酒の清らかさは強すぎる。趙孟の穢れが一気に消えた。わたしはそれを飲んで昏倒した。清浄が強すぎて、当てられたのだ。巫覡でさえそのようなものは作れまい。誰が、こんなものを仕込んだ」

 菊の香りが強すぎる酒を指す。強い薬が毒になるように、あまりに強い祓いは人の気を食う。士匄は敏感すぎて、一気に食われた。趙武も飲み過ぎれば昏倒したかもしれない。晋女は、必死に考えた後、頭を抱えるような仕草をした。

「誰……。あの娘は、誰だったのかしら。この生薬が良いのです、と言っていた。みなさまのお役に立つ酒になります、と言っておりました。……そういえば、誰だったのかしら」

 呻くような声に、趙武は戸惑いを隠せず、士匄は厳しい顔をした。

 そうして、三人の若者が困惑しているその時分。韓無忌は菊の咲き乱れる庭で女官に迎え入れられた。

「また、菊茶でございましょうか」

 うやうやしくかしずく、菊の女官は、やはり花のような形であった。韓無忌はその姿に目を向け、静かに口を開いた。

「――あなたは、どなたでしょうか」

もうすぐクライマックスです

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