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叔や伯や、駕さば予ともに行かん。誰でもいいわ、迎えに来てくれたら私はあなたのものになる②

 さて、他の女官にはどこかなまりもあり、儀もたどたどしい。しかし、この女官の発音は美しく、言葉遣いも堂に入っている。そして、(しん)のイントネーションはどこか無骨であり、彼女もその例に漏れない。(しゅう)や東方の貴人であれば、もっと柔らかいアクセントであったろう。

 指摘された女官――例によって晋女(しんにょ)としよう――は趙武(ちょうぶ)を睨み付けた。それは、憎々しさを隠さぬものであった。初対面の、しかも大貴族の長に向けるような目つきではない。趙武が怖じることなく、真っ直ぐに見返す。士匄(しかい)は好奇心を隠さず、晋女と趙武を眺めた。

「……私は同病相憐れむという趣味はございませんし、あなたに共感も同調もいたしません。あなたは私に対して運が良かったとお思いではございませぬか」

 そうして、趙武は趙氏(ちょうし)以外の、晋公(しんこう)に族滅された貴族の名を言った。晋女は唇を噛みしめた。図星だったらしい。その一族は士匄が物心つくころに亡んだ、それなりに歴史ある名門であった。はっきり言えば、趙氏や士氏(しし)より家格は高かった。確かに世が世であれば、他国の(きょう)へ嫁ぐ女である。

 しかし、だからどうしたというのか。負ければ、家など亡ぶ。かつて、晋公の娘でさえ内乱に巻き込まれ他国の婢となったのである。たかが大夫の娘、君公の女官など破格の待遇であろう、と士匄は鼻で笑った。

 晋女は士匄の嘲弄に気づいていない。趙武の言葉に怒りをあらわに眉をつり上げる。

「あなたは運が良かったのでしょう。本来は捨て置かれ、放逐される孤児がたまたま助かった。それだけのこと。私はその運がございませんでした。父はしばらくは身を潜め復権の機会を窺っておりましたが、為せず果てました。残った私は手を差し伸べられる前に放たれ、売られた。我が一族が、祖が、晋公のためにつくした全ても、なんの助けになりませんでした。あなたが売られ奴隷となり、そうですね、去勢され君公に侍っておられぬのは、たまたまではございませんか」

 地を這うような声音に、趙武が笑みを返した。それは、どこか枯れた笑みであった。

「運ではございませんよ。いえ、ある意味運かもしれませんね。あなたが女で私は男でした。それだけです。私は女であれば、生まれてすぐ殺される予定でしたから」

 晋女がうつむいた。己ら以外の一族郎党、男は殺されたと聞いている。己は女だから運が悪く奴隷になったのか、女のくせに運良く生きているのか。どちらにせよ、晋女のどうしようもない愚痴と八つ当たりを趙武は堂々と受け、一度も同情しなかった。

「辛気くさい、やめろ」

 場の空気の悪さに、士匄がさすがに怒鳴った。暗い言葉に雑霊(ざつれい)が寄ってきていた。宮中とはいえ二度も凶事が起きたのである。瘴気(しょうき)はわくし雑霊も漂う。趙武にいたっては不祥をひっかぶったのである、穢れがまとわりついていた。

趙孟(ちょうもう)。そういった、くさくさした話をするな。酒も不味いし、穢れが濃くなる」

 手で示しながら指摘すると、趙武が顔をこわばらせて、体を手で叩いた。ちょっとした雑霊が驚いたように逃げるが、その程度であり、穢れが消えるわけではない。

「その酒で消えぬのであれば、もうすこし良きものを。この菊酒は体が清々しくなると伺っております」

 晋女がなにごもとなかったかのように如才なく動き、趙武に酒を注いだ。菊の強い香りが部屋に漂う。刺々しい雰囲気は霧散し、そこには有能な女官と大貴族の青年がいるだけであった。家が亡んだものどもの気持ちはわからん、と士匄は思い、頬杖をついた。

 趙武が菊酒を口にしたとたん、まとわりついていた不祥、穢れ、雑霊が霧散した。士匄は持っていた杯をぽとりと床に落とした。あまりのことに、茫然としたのである。

「これは、その……先ほどの凶事のあとにいただいたものと同じ。清々しい気持ちとなりますね。ありがとうございます」

「いえ、職分として当然のことでございます」

 そらぞらしささえある二人のやりとりなど、どうでも良かった。士匄は、晋女を突き飛ばすようにして持っている酒器を奪う。倒れそうになる晋女を趙武が慌てて支え抱いた。

范叔(はんしゅく)、何を!」

 強い非難が込められた趙武の声を、士匄は無視して、菊酒を嗅ぐ。清々しく芳しいその香り、なされる生薬の調合に眉をしかめた。

「これだ。これ。おい、女。この菊酒は誰がこしらえた」

「誰とおっしゃられても……。きっと、酒の係のものです。食を作るは男、酒を作るは女と古来からのしきたりです。女官の誰か……。そうね、菊の香りが強いものがおりましたもの、そのものでしょう。誰だったかしら」

 士匄の勢いに押され、晋女が素直に答えるうちに、首をかしげた。士匄は酒器を床に置くと座り直し、

「それもだ、それ」

 と言う。それってなんだ、と趙武と晋女は首をかしげて士匄を注視する。そうなると美少女と美女がイケメンを凝視しているようであった。絵面だけなら、見応えのある風景である。

「おい女。まず、お前が片っ端から名付けをしてやったのは、なぜだ。女主人きどりか」

「……名付けというほどもございません。私が庭の美しさを愛で……そうね、詩を書いていたら『素敵な模様』などと言うのですもの。民に価値はわかりませんけど、その恩恵だけでも与えてやるのは貴き家を出た私の責務というもの、それだけです」

 名付けではないと言いつつ、女主人きどりを否定しない晋女である。趙武から身を離し、美しく座りながら挑戦的な笑みを浮かべた。趙武はそんな晋女を見て、少々引きつった。

 (てき)の女、()の女、そして晋の女。今日、いきなり一気に、たくさんの女性を見てしまった。趙武の中で女性というものは、ぼんやりとした霧の中にいる幻影に近かった。己よりかよわく守らなければならないらしい、存在。もしくは不貞の母である。が、可憐さとしたたかさを見せてきたり、肉の匂いでからめとろうとしてきたり、あでやかな高慢さを見せつけてきたり、している。その全てに、不思議な繊細さと怖ろしさがあった。こんなものどもを己は嫁にせねばならぬのか、とも思った。

 まあ、趙武の怯えはともかく、である。士匄は真っ直ぐと背筋を伸ばして答える晋女を睨み付けた。小賢しさよりも虚勢の色が濃いこの女は、侮蔑に値する、と目を細める。

「十有二州を(はじ)め、十有二山を封じ、川を(ふか)くす。舜帝(しゅんてい)の偉業のひとつだ。この意味がわかれば、恩恵などと軽々しく言えまい」

 士匄の言葉に、晋女が戸惑う顔をした。彼女は、士匄の言わんとしていることがわからなかった。

③に続きます

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