↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
77/124

其れゆるく其れゆるくせんや、既にすみやかならん。逃げるときはのんびりせずにさっさと去ろう!①

 異常にかけつけた寺人(じじん)たちはすみやかに趙武(ちょうぶ)を回収した。身を清められ、衣服を改められ、なすがままになっている趙武が、士匄(しかい)の前に運ばれてくる。

「趙氏(ちょうし)の長(おさ)が凶事に合われたよし、我らの口からは詳細を申し上げるわけには」

 などと、逃げ口上で寺人たちは逃げていく。その間も趙武は、魂が抜けたように目の焦点が合っていない。

 士匄は、その顔を覗きこみ、目の前で手を振ってやる。洗っても、血の臭いというものはなかなかに抜けない。適当に水を絞ってむりやり結いあげた髪からも微かに血(ち)腥(なまぐ)さが漂っていた。

「おお、趙孟(ちょうもう)。男ぶりがあがったのではないか?」

 おどけたような士匄の声音に、趙武の視線が確かになっていく。

「あ。え? は! ……今度は、なにやったんですか、范叔(はんしゅく)……」

 趙武が地の底からわきあがるような声を出し、睨み付ける。常人であれば茫然自失トラウマPTSDである。我に返るあたりかなり図太い。

「は? わたしのような、品行方正で儀礼正しいものが何をするというのだ」

 本気でのたまう士匄に、

「このような時に冗談はおやめください。女官とはいえ、人が亡くなっているのです」

 と、趙武がやはり本気で返した。士匄はひそかに傷ついた。

「私はあなたが凶事にいきあったこと、何故か宮中からお出にならぬことをうかがいました。韓伯(かんはく)がとてもご心配しておりました。私は代わりに様子を見に来たのですが……まさか、あんな……うぇ……」

 真摯に話していた趙武の顔が、最後には嘔吐をこらえるものとなった。両手で口を押さえたまま、う、う、と呻いた後、なんとかこらえたらしい。半泣きであった。

「わたしが見たのが一人、お前が一人、か。子細を知りたい、話せ。こういったものは口に出して他者と共有したほうが楽というもの、全部話せ」

 めずらしく、先達としての度量を見せながら士匄は言った。趙武は頷き、ひとつひとつを順番に話していく。

「私は韓伯の名代も兼ねてこちらに向かいました。女官のかたが三名、介添えくださりました。みなさま今回の凶事にご不安で、えっと、己の死後へのご不安が強くて私に訴えておりました。そのうち――」

 趙武は普段の会話はともかく『弁』が下手である。今回も己の体験、記憶を順々に語っており、他者からすれば要領を得ない。随所随所に自分の感想、その時の気持ちを挿入するのであるから、普段の士匄であれば早々に打ち切らせたであろう。が、この時は要所要所で合いの手を入れ交通整理をしてやり、最後まで辛抱強く聞いていた。

「と、いうわけです。あの女官は、私が蘭を望んだから、死んでしまったのでしょうか。そうであれば、悔やんでも悔やみきれません。あのような、惨い死に方をさせてしまった」

 ゆうに十分以上、趙武は話し続けた。士匄は聞きながら、

『女官にナンパされた』

『受けずに適当にしたら、勝手に死んだ』

 の二行で終わると思った。時間にして約五秒。鈍くさい後輩だと思いつつ、口を開く。

「そこまで細かく覚えているお前だ。その女官の首飾りに文字はあったか?」

 士匄の問いに、趙武が目を丸くした。

「首飾り……はあったような気もします……けど、文字? ですか……?」

「己の都合の良いものは見え、どうでも良いものは見えておらん。女の本音にもさっぱりわかっておらん。お前、女にもてんぞ」

 首をかしげる趙武を、士匄は嘲笑いながら諭した。とたんに趙武が不快をあらわにする。

「女人の飾りをしげしげと見るなど、失礼ではないですか。それに女官が文字を身につけるわけがないです」

 趙武の言葉に士匄はオボコくさいと言いそうになって、奇跡的に飲み込んだ。舌禍(ぜっか)の彼と思えば本当に奇跡である。ここで趙武を弄くっていれば話が進まないと気づいたのである。先輩である荀罃(じゅんおう)が見れば、成長を言祝(ことほ)いだに違いない。

「読めぬものに文字など不要。お前の言葉は正しい。しかし、新たに入った女官に文字のはいった首飾りをするものが、いるようだ」

 それがなにか、と趙武が言おうとしたところに士匄はさらに言葉を続けた。

「まあ、それが何というわけではないが、気になるだけだ、文字があったかどうか。あとは好奇心だな、何が書いてあるか」

 隣に死体があった、木の上に死体ができた。その惨劇と首飾りの文字に関係するかなど、士匄にはわからない。しかし、好奇心はある。もし、文字が全て生産地と入荷日であるのなら、なかなかに趣味が悪く、小賢しい女官が何を思っていたのか興味深い。

 士匄の感慨深そうな顔を、趙武が呆れた目で睨む。趙武からすれば首飾りや文字以前の話である。

「あのですね! こちらはあなたに何が起きたのかもわからないんです。この宮中で、惨たらしい殺人が起きたと窺いました。そのため、あなたはお出にならない。本来であれば、凶事に行き合った不徳を君公に詫び、速やかに辞して自邸にて謹慎するのものでしょう。それが礼であり儀。法制のお家を誇るあなたがなさらないということは、事情があるのでしょう。繰り返し申しますが! 韓伯もご心配! されておられました! ……我らどころか韓伯の手さえ余る状況ならば、知伯(ちはく)にご相談なされるよう、進言いたします」

「やめろ、バカ! いや、やめてくれマジやめろ!」

 趙武の強い宣言に、士匄はあわてふためき怒鳴った。その怒鳴り声にも怖じることなく、趙武が平然と座って睨み付けてきている。

②③に続きます

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。