其れゆるく其れゆるくせんや、既にすみやかならん。逃げるときはのんびりせずにさっさと去ろう!①
異常にかけつけた寺人たちはすみやかに趙武を回収した。身を清められ、衣服を改められ、なすがままになっている趙武が、士匄の前に運ばれてくる。
「趙氏の長が凶事に合われたよし、我らの口からは詳細を申し上げるわけには」
などと、逃げ口上で寺人たちは逃げていく。その間も趙武は、魂が抜けたように目の焦点が合っていない。
士匄は、その顔を覗きこみ、目の前で手を振ってやる。洗っても、血の臭いというものはなかなかに抜けない。適当に水を絞ってむりやり結いあげた髪からも微かに血腥さが漂っていた。
「おお、趙孟。男ぶりがあがったのではないか?」
おどけたような士匄の声音に、趙武の視線が確かになっていく。
「あ。え? は! ……今度は、なにやったんですか、范叔……」
趙武が地の底からわきあがるような声を出し、睨み付ける。常人であれば茫然自失トラウマPTSDである。我に返るあたりかなり図太い。
「は? わたしのような、品行方正で儀礼正しいものが何をするというのだ」
本気でのたまう士匄に、
「このような時に冗談はおやめください。女官とはいえ、人が亡くなっているのです」
と、趙武がやはり本気で返した。士匄はひそかに傷ついた。
「私はあなたが凶事にいきあったこと、何故か宮中からお出にならぬことをうかがいました。韓伯がとてもご心配しておりました。私は代わりに様子を見に来たのですが……まさか、あんな……うぇ……」
真摯に話していた趙武の顔が、最後には嘔吐をこらえるものとなった。両手で口を押さえたまま、う、う、と呻いた後、なんとかこらえたらしい。半泣きであった。
「わたしが見たのが一人、お前が一人、か。子細を知りたい、話せ。こういったものは口に出して他者と共有したほうが楽というもの、全部話せ」
めずらしく、先達としての度量を見せながら士匄は言った。趙武は頷き、ひとつひとつを順番に話していく。
「私は韓伯の名代も兼ねてこちらに向かいました。女官のかたが三名、介添えくださりました。みなさま今回の凶事にご不安で、えっと、己の死後へのご不安が強くて私に訴えておりました。そのうち――」
趙武は普段の会話はともかく『弁』が下手である。今回も己の体験、記憶を順々に語っており、他者からすれば要領を得ない。随所随所に自分の感想、その時の気持ちを挿入するのであるから、普段の士匄であれば早々に打ち切らせたであろう。が、この時は要所要所で合いの手を入れ交通整理をしてやり、最後まで辛抱強く聞いていた。
「と、いうわけです。あの女官は、私が蘭を望んだから、死んでしまったのでしょうか。そうであれば、悔やんでも悔やみきれません。あのような、惨い死に方をさせてしまった」
ゆうに十分以上、趙武は話し続けた。士匄は聞きながら、
『女官にナンパされた』
『受けずに適当にしたら、勝手に死んだ』
の二行で終わると思った。時間にして約五秒。鈍くさい後輩だと思いつつ、口を開く。
「そこまで細かく覚えているお前だ。その女官の首飾りに文字はあったか?」
士匄の問いに、趙武が目を丸くした。
「首飾り……はあったような気もします……けど、文字? ですか……?」
「己の都合の良いものは見え、どうでも良いものは見えておらん。女の本音にもさっぱりわかっておらん。お前、女にもてんぞ」
首をかしげる趙武を、士匄は嘲笑いながら諭した。とたんに趙武が不快をあらわにする。
「女人の飾りをしげしげと見るなど、失礼ではないですか。それに女官が文字を身につけるわけがないです」
趙武の言葉に士匄はオボコくさいと言いそうになって、奇跡的に飲み込んだ。舌禍の彼と思えば本当に奇跡である。ここで趙武を弄くっていれば話が進まないと気づいたのである。先輩である荀罃が見れば、成長を言祝いだに違いない。
「読めぬものに文字など不要。お前の言葉は正しい。しかし、新たに入った女官に文字のはいった首飾りをするものが、いるようだ」
それがなにか、と趙武が言おうとしたところに士匄はさらに言葉を続けた。
「まあ、それが何というわけではないが、気になるだけだ、文字があったかどうか。あとは好奇心だな、何が書いてあるか」
隣に死体があった、木の上に死体ができた。その惨劇と首飾りの文字に関係するかなど、士匄にはわからない。しかし、好奇心はある。もし、文字が全て生産地と入荷日であるのなら、なかなかに趣味が悪く、小賢しい女官が何を思っていたのか興味深い。
士匄の感慨深そうな顔を、趙武が呆れた目で睨む。趙武からすれば首飾りや文字以前の話である。
「あのですね! こちらはあなたに何が起きたのかもわからないんです。この宮中で、惨たらしい殺人が起きたと窺いました。そのため、あなたはお出にならない。本来であれば、凶事に行き合った不徳を君公に詫び、速やかに辞して自邸にて謹慎するのものでしょう。それが礼であり儀。法制のお家を誇るあなたがなさらないということは、事情があるのでしょう。繰り返し申しますが! 韓伯もご心配! されておられました! ……我らどころか韓伯の手さえ余る状況ならば、知伯にご相談なされるよう、進言いたします」
「やめろ、バカ! いや、やめてくれマジやめろ!」
趙武の強い宣言に、士匄はあわてふためき怒鳴った。その怒鳴り声にも怖じることなく、趙武が平然と座って睨み付けてきている。
②③に続きます




