毖たる彼お泉水、亦た淇に流る。湧きでた泉の水は川に流れ着くのに、私は帰ることができない②
澄み切った秋の空は、魚の鱗のような雲が天高く流れている。川面が広がって青さを溜めているようだ、と趙武は思った。
「菊の匂いが凄いですよね。このあたりにたくさん植えられてます、きれいですね。あとは蘭」
もはや、敬語を忘れた女官がはしゃいだように言う。趙武は主役面で咲き乱れる菊に見たあと、ひっそりと咲く花の群れに顔を向けた。この『蘭』は現代で言うランではなくフジバカマのことである。古代において菊や芍薬と合わせて愛された、花であり薬草である。当時、フジバカマは菊と並んで秋の代表格であったらしい。
菊の色とりどりで重ねられた花弁によるあでやかさは、確かに美しい。しかし、フジバカマの小さな花々はいじらしいかわいさを感じる。また、菊より生薬として幅広く使われているところも良い、と趙武は思った。実務家の彼らしく、そして女にもてる思考回路ではない。
「きっと、お役目の方々がしっかり面倒をみているのでしょうね」
とりあえず趙武は女官に言葉を返した。男の、なんとなくとりあえず生返事というものに女は聡い。
「大夫さま、お庭は気分転換になりませんでしたか?」
女官が、しょんぼりした顔を隠さずに言った。かすかに手が震えている。彼女は、下心は多少あったが、趙武の緊張をほぐしたいという思いも真実であった。女性に慣れていないらしい青年、と気づき、一息つかせたかったのである。まあ、下心はあったのであるが。ただ、趙武が不満であったり不快であれば、己は余計であり不敬である。良かれと思ったことが裏目に出るのは申し訳なさが強い。そして、自分は断罪されるやもしれぬ。
趙武はこの女官の下心以外は察した。未成熟であるが鈍いわけではない。
「いえ。良い庭です、空も気持ちいい。ただ……私は庭の木々や花々より、天然自然にあるものが好きなのです。山の生い茂る木々の中を歩くのも好きです。今は錦秋、道も美しい落ち葉で彩られてきれいなのですよ」
育ての親である程嬰と共に山を歩き木の実を採った日々を思い出しながら趙武は照れ笑いをした。貴族とあろうものが山歩きが好きだなどと、恥ずかしいことこの上なかった。未だ山は異界である。文明人は基本的に足を踏み入れない。
趙武の言葉に、女官が笑みを浮かべた。少々幼い、親愛の笑顔であった。
「私も山が好きです、あの、いえ。……私は、山を見ながら点々と生きてました。山の向こう、遠くに日が落ちていくのはとてもきれいで、夕暮れの山を大夫さまに見せてあげたいです。ひとつところで生きなきゃいけないのはもう諦めましたが、山で死ねないのは残念です。埋葬なんていらないです、山で弔ってほしい」
「……あなたは狄の方なのですね。狄の方々は年に何度も移動し、獣を追い山の恵みを祀り、皆で穀物を分け合っておられると聞きます。山に廟があるのですか?」
春に山で見た社を思い出しながら、趙武は問うた。狄とは周の文化圏から外れた移動民族たちである。遊牧民族や狩猟民族が近いであろうか。この女官、狄女はカラカラ笑いながら、まさかあ、と言う。
「ここでは黄泉が土の下にあると聞きます、廟って土の上にあるんでしょう。私たちは山から天に昇って、黄泉へ向かうんです。きっと黄泉てたくさんあるんでしょうね。鳥はご先祖さまのお使いです。鳥に連れていってもらうために、山に体を置いてもらうのですよ」
「そうですね、鳥はご先祖さまの魂でもあります。ああして天を飛んで我らを見守り見張ってくださっている」
狄女の言葉を受けて趙武は空を見上げた。雁が群れをなして飛んでいた。
――飛んで帰りたい
狄女が小さく呟いたのを、趙武は聞かなかったふりをした。この、戦争で狩られたのか人減らしに売られたのか分からぬ異文化の女を、趙武は救うことなどできない。彼女は君主の財産である。
が、まあここで、何事も無かったようにさらっと動けぬのが、未成熟の若者である。一人の青年として女の子の心を明るくしたい、という気持ちが生まれた。女官たちを見て思ったのが、女子というのは柔らかそうで小さく、そして笑顔のほうが見ていて気分が良いということであった。
「あなたは狄の方。山の恵みには香草も薬草もございます。きっと良き目利きなのでしょう。私のために蘭を見繕ってきてもらえませんか。もちろん国君の財産でございますので、後で私からきちんとお許しを願います。匂い袋ていどです、量はいりません」
趙武の言葉に、狄女は頷いて駆けていく。彼女は、どこかに買い取られないかぎり、晋公所有の女官として生きていかなければならない。そのためには己の得意分野を意識してほしく、もっといえば誇りを忘れて欲しくないという気持ちをこめて、趙武は頼んだ。不器用な励ましであったが、彼の精一杯である。
衣擦れの音、草をかきわける音がかすかに聞こえる。真剣に選んでいるのか、声も聞こえない。趙武は静かに待った。彼女が強引に庭へ連れてきた理由はわからない。のびのびと好きなものを話したのは、趙武に威圧が無いからであろう。そして弱音をもらしたのは趙武を信じたからであろう、きっと。
「……弱い立場の方の声を聞いても、何もできないのでは一緒ですね」
趙武は自嘲しながら、呟いた。そうして、しばらく。いやかなり待つ。空を眺めたり、雲の数をかぞえたりと、子供のような暇つぶしにも限界がある。ふと、狄女の気配が、無くなっている気がした。
「もし」
フジバカマのあたりまで歩いてみれば、狄女はいなかった。座っていた形跡はあるが、趙武に渡すための花も置いていない。
「お役目の方々に見つかって、連れて行かれたのでしょうか。私がぼんやりしていて、気づかなかったのかもしれません。悪いことをしてしまいました……」
女官が勝手にいなくなるとは思えない。おおかた、フジバカマを世話するものに見つかり、罰を受けているのではないか。趙武は己の浅はかさを責めた。俯いてとぼとぼと歩き、近くの木に寄りかかる。その立派なブナは、美しい黄葉にそまり、ちらちらと金色の葉が落ちてくる。趙武の頭にも、一葉、かさりと落ちた。その後、ぼっとりと落ちてくるものがある。
「え?」
己の頭になまぐさいもの、生温かいものが落ちてきたと、趙武はとまどいながら上を向いた。
木の枝から、どぼっと、血の塊が落ちてきて、趙武は顔にひっかぶった。凄まじい臭気、なまぐささである。血の中にあった、何かが口に入ってしまったため、慌てて吐き出した。
己の心臓の音がうるさい。とても大きくうるさい。頭がガンガンと痛くなってきた。逃げだしたく、そして逃げだすべきだと思っていたのに、趙武はこわごわと、もう一度木の上を見た。
宮中の庭で、いつも木の実や虫、トカゲを食べているであろう、鳥が、いた。たくさん、いた。血まみれのそれをつついて、少しずつ食べているようであった。頭を半分かち割られたそこから、脳みそが垂れてきている。趙武はこれをかぶったらしい。
「ひっ」
腹も手足も裂かれ、頭が半分潰されて、首がのけぞってドロドロとボタボタと流れ、落葉と共にふわふわとフジバカマも落ちてくる。
「い、やああああああああああああああああああああああっ」
趙武は狄女の血と脳みそと脳漿をひっかぶりながら、悲鳴をあげた。
女の子と初めてのデート、強い思い出になりましたね。引き続きお楽しみに。




