表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/124

毖たる彼お泉水、亦た淇に流る。湧きでた泉の水は川に流れ着くのに、私は帰ることができない①

 趙武(ちょうぶ)は晋公州蒲(しゅうほ)と最も年が近い大臣候補であったが、縁遠く、個人的に呼び出されたり会ったことは無い。州蒲の父が趙氏(ちょうし)を滅ぼそうとし、趙武の高祖父趙成子(ちょうせいし)に祟られたから――ではない。単に、性格が合わないのである。

 見た目の美しさに反して地道な根性マンの趙武は、享楽的で考えの浅いパリピ思考の州蒲と価値観が合わなさすぎる。また、州蒲は当時の常として女だけではなく男も好む君主であったが、趙武のような美少女タイプは対象外であった。彼は健康的で単純思考の少年を好んでいる。欒黶(らんえん)の弟がそのような青年であった。

 つまり、趙武が君主のプライベートな場へ向かうのは初めてであり、少々緊張していた。しかも、殺人が起きたのだという。趙武は気合いをひそかに入れながら、女官(にょかん)に伴われて歩く。

 君主の住居に入るにはもちろん許可がいる。趙武は門の前で端然と待った。後世で言わば、後宮への入り口である。宮中という公的な場所に私的な住居をかまえる君主というものは、偉いようで痛々しさがある。趙武は公女であった己の母を思い出した。州蒲といい、母といい、尊貴な血を持ち宮中で育ったものは、公私に歪みができるのかもしれぬ、と偏見を以て考える。

 ふと、視線を感じ見回すと、女官たちがじっと見てきていた。特に、色素の薄い女官が趙武を見てぽおっと呆けている。

「いかがなされましたか?」

 趙武は威圧せぬよう柔らかく優しく問うた。女性に対して極めて未成熟な彼は、女官がみとれていた、などと全く思っていない。仕草からまだ慣れておらぬ、新人なのだと気づき、緊張しているのだと勘違いした。

「いっ。いえ。あの、大夫(たいふ)さまというのは、みなさま美しくてかっこいいのですね。すみません、あ! 申し訳、ございません。あなたさまのとてもお美しく典雅な姿に見とれてしまったのです。女官としての立場を忘れておりました。お許しを」

 趙武より少し年下に見えるこの女官は、年相応のかわいらしさで話していたが、途中で立場を思いだし、女官の皮をみごとにかぶってしずしずと拝礼した。趙武は、女の顔がどんどん無機質になっていくようだ、と思い、少し寂しかった。

「……言祝(ことほ)ぎありがとうございます。父祖の恵みにより、私は良き姿をいただいております。その姿を裏切らぬよう研鑽する所存です。あなたがたのような民の声は天の声、大切にいたします。それに……私の顔で、緊張がほぐれたなら良かったです。とても、とてもこわばったお顔をなされてました。宮中という清浄な場所で凶事に合うなど、思いもよらなかったでしょうし恐ろしかったことでしょう」

 褒めてきた女官だけではなく、他に侍る二名にも視線を移しながら趙武は安心させるように話しかける。肉感的な女が、さようでございます、と頷いた。南方の出身なのか肌の色が少々浅黒いようだった。肌の白さを愛でる文化圏であるが、この女官の健康的な美しさも男の目を喜ばせるであろう。ただ、趙武はそちら方面のアンテナが全く育っていない。豚に真珠、兎に祭文(さいもん)とはこのことである。

 さて、肉感的な女官が口を開く。

「私たちは不浄の場を掃き清めましてございます。あの……酷い、惨い死に方でかわいそうでした。でも、それよりも、あの子は埋葬されないのでございます。祟らぬよう清め祓ったあとは、都の外に追放で、放り出されるって……」

 趙武は眉をひそめた。追放されれば、どこにも戻れぬ。いや、戻らぬように死体を損壊して捨てるのかも知れない。そうなれば、死後も荒れ果てた異界で動くこともできず、絶望の中で永遠の時を過ごす。その女官がどのようなものかは知らぬが、そこまでせねばならぬ罪を背負っているとも思えぬ。奴隷であっても、死後の幸福があっても良いではないか。

 彼女たちは、同僚の悲惨な人生を嘆いているのであろう、と趙武は憐れみを感じ口を開こうとした。十五になるまで下級大夫の元で育った彼は、貴族独特の超然とした発想があまり無い。――が。趙武の憐れみは勘違いのお門違いであった。

「それで……。私たちは君主さまにお買い上げいただき、宮中できちんとした服を貰って、ごはんもいただいて、もう酷い目に合わないのだと安心していたのです。でも、死んだら、埋葬もしてもらえないなんて思わなかったんです、それが恐ろしくて」

 女官が、苦しそうな顔を向けた。趙武の口が半開きで凍る。すかさず、色素の薄い女官が必死の顔を向けてきた。

「埋葬……というか、弔っても貰えないなんて。黄泉(こうせん)に向かうこともできないなんて、私たちはどうすればよろしいのでしょうか、大夫さま。私たち、あんなめにあいたくない、でもここから出られないです。君主さまにお買い上げされて、身の回りのお世話をするだなんて、とても幸運だと思ったのに、死んだら弔われず、荒野に投げ捨てられるだなんて、思いもしなかったのです。とても、恐ろしい」

 すがるような目で訴えてくる二人の女官に圧され趙武は顔をこわばらせる。逃げるように二人の後ろで黙っている女官を見る。地味ながら整った顔のその女は、

「……私にはなんとも……」

 とだけ言うが、なんらかの含みがあるようであった。

 他者の死に対する悲しみではなく、己の死を思っての苦しみがぶつけられるとは思わず、趙武は

「えっと、えっと……えっと」

 と必死に言葉を探した。何か、言いたいことがあるのだが、上手く出てこない。彼女たちを薄情と責められない。同僚の死によって、己の終着点を垣間見たのである。それが単なる可能性でしかないにしても。

 同世代の女性と接することのなかった趙武は、独特の極端な発言や、その裏にある罠に気づかず、どうなだめてよいのかと途方にくれた。韓無忌であれば、職分を忘れて私語をするのはなにごとか、と叱責するであろう。士匄や欒黶は無責任な言葉で適当に口説く。彼らは女が気を引こうとしていることくらい、すぐにわかる。荀偃さえも、それは大変ですね、大変ですね、と同じ言葉をくり返しながらも、女性に対する一線を引く。趙武は、同輩でもなく、己の家臣や民でもない、君公所持の『オンナノコ』の生態がわからない。何やら、山神(さんしん)四凶(しきょう)を超える怖ろしさまで感じた。

 趙武のとまどいと恐怖に気づいた女官がすかさず、

「大夫さま。私たち下々の凶事、不祥など、さぞ不快なことだったでしょう。一度、庭にでて気分転換はいかがでしょう。このあたりの庭まで来る大夫さまは少ないのです、良い木々、花がございます、案内いたします」

 と口早に言った。

「いえ。私はここでお許しを待たねばなりませんので――」

 断ろうとする趙武の言葉に重ねるように、女官がさらに口を開いた。

「全くです、大夫さまをいつまで待たせるのかしら。ねえ、あなたたち。私は大夫さまの息抜きを介添えいたします。あなたたちは、お許しの寺人(じじん)を早く呼んできて」

 こういったことは、言ったもの勝ちである。女官が言い切ると他の二人を交互に見る。そのたびに、色素の薄い髪が、柔らかく舞った。地味な女は素直に頷き、肉感的な女は少し悔しそうに頷いて、去っていった。趙武は、女官たちになんらかの緊張が走ったことは分かったが、いきなりすぎてわからなかった。その上、何故か女官と庭を歩くことになったらしい。さらに意味がわからなかった。

 物心ついてから今にいたるまで、趙武は男世界で生きている。彼の中の女性は不貞の母しかおらず、それ以外は、かよわい生き物らしい、という印象だけである。女嫌いというわけではない。本当に未成熟なのである。性的な耳年増とこれは違うものであった。

「大夫さま。秋の庭は良いものです。そりゃあ夕暮れがきれいですけど、朝もおつなものです」

 趙武は、半ば混乱したまま頷き、女官に連れられて庭へと向かった。

②に続きます

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ