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冥冥に視、無声に聴く。人間、見えないものを視て聞こえない声を聴けたら立派だね③

趙孟(ちょうもう)ほどの美貌の持ち主も、この者の前でそのような顔をする。いや、わかる。天が全ての祝いを与えたような女だ。だがしかし、人妻だ。手を伸ばしても掴めぬ星、湖面に映るがすくい取れぬ月。まあ、夫が出かけているので、縁があって当家で預かっている」

 その預かった人妻を見世物にしてるわけだが、郤至(げきし)は悪びれない。趙武も嫌悪を超えて、女の姿に見入ってしまった。女は少し困惑した様子で、軽く身をよじらせた。その姿は(しと)やかで嫋々(じょうじょう)としながら、どこか艶然としている。

 士匄(しかい)は――士匄は、それどころではなかった。

 目の前に、瘴気の柱が現れたのである。

 女の体から大量の瘴気が溢れ、それが勢いよく天へと渦巻き続けている。まさに、一本の柱と化した不祥が目の前にあった。いっそ気絶したかったが、意地と矜持で耐えた。

 女が美しいことくらいわかる。精力的な士匄である、その蠱惑的な魅力だってわかる。が、芸術的価値があったとしても、呪われた宝など誰もいらぬであろう。魂そのものが搾り取られるような圧迫と、息も苦しくなるような澱み、怖気が走る穢れが、士匄をすりつぶしてくるようであった。

 士匄は目をそらしたかった。が、やはり人は恐ろしいもの、汚いと感じるものを見てしまう、確認してしまう生き物である。結果、趙武のように凝視した。ガチガチと歯を震わせながら、天に呪われたとしか思えぬ女を凝視した。

 女は、士匄の視線に気づいて、同じように視線を向けた。そして、微笑んだ。天上の音楽を凝縮したような笑みであった。

 あら、見えてらっしゃるの

 そのような声が、聞こえてきそうな微笑みでもあった。士匄は、叫びそうになるのを堪えるのでせいいっぱいであった。

 郤至は、この人妻を侍らしたいわけではなかったらしい。顔見せさせたあと、さっと帰らせた。そのあたりでようやく、士匄の顔色が尋常でなく悪いことに気づいた。

「酷い顔色ではないか。我が家の医者の腕は良い、薬も多くある、診させよう」

 心底労っている郤至の声を士匄は必死に制し、首を振って辞退した。士氏の嗣子が他家に迷惑をかけるなど父の面目がたたぬ云々。いつも以上に舌がよく回っていたが、言い回しに切れは無い。

「いやいや、我が家に来た客の不調をそのままに帰すは郤氏の名折れというもの」

 郤至は、本質的に爽やかで人好きのする、陽気で親切な男である。士匄が遠慮しているのだと思った。大いなる誤解である。見かねた趙武が口を出した。

「先達のお言葉に口を挟むのは僭越ですが、申し上げます。范叔はお父上に復命せねばならぬ身です。それが嗣子としての責でござい、ます。えっと……お客人としてもてなしたいお心、お体を気づかう献身、范叔(はんしゅく)も嬉しく思っているでしょう。しかし……その、責を果たすこと、我ら(けい)を目指すものの役目です」

 途中からまごつきながらも、必死に言い終わる。郤至が趙武を少し値踏みする目を向けた後、二人を解放した。

「あの……大丈夫ですか?」

 馬車に乗った途端、ぐったりとした士匄を覗き込みながら趙武が言った。士匄は、うろんな目を向けながら、ゆっくりと頷く。

「何があったんです?」

 のんきな趙武に怒鳴りかえす気にもなれず、後で、話す、とだけ言った。あの女が不祥の塊で、穢れをまき散らしていたなど、誰が信じるのか。少し見えない程度のものであれば、趙武も頷くであろう。が、許容量を超えたものが目の前にあった、と言っても首をかしげるに違いない。趙武も己も穢れに当たっている。うんざりした。

「お前、きちんと祓って貰え」

 瘴気が深くなった後輩に言うと、

「いつになく念押ししますね。ありがとうございます」

 と返される。それ以上、趙武は深く聞かなかった。特有の慎みか、それとも鈍さかと窺ったがどうも違う。何やら、ふわふわしていた。士匄は、なんとなく観察した。気が紛れる思いもあった。その視線に気づいた趙武が、頬を赤らめる。

「あ。え、なんで見ているの、ですか」

「……思春期到来かと見物している」

 バカにしすぎている士匄の言葉に、趙武が睨み付ける。美人を見て発情しているのか、と揶揄されたことくらい、オボコの趙武だってわかる。

「いえ。あの、美しい妙齢の女性など、見たことございませんし! その、びっくりしたのもあります。信頼があって郤氏に預けているのでしょうが……。あのようにお若く美しい妻を人に預けることができるのは、気が大きいのか、それとも情が無いのでしょうか、とか色々考えていただけです」

 八割、美しさに当てられていたくせに、趙武は理屈をこねた。ばつの悪そうな趙武の顔を見ながら、士匄は、へ、と鼻で笑う。

「趙孟。()氏とは、郤氏に保護を願った、()からの亡命者だ。お前は他家に疎いようだな、知らんのか」

 何をですか、と趙武が不審さを隠さずに問う。

「今、巫氏は我が晋と同盟している()に赴き教導している。まあ、楚を後ろから殴るはかりごとだ。ゆえ、妻を郤氏に預けたのだろう。さて、巫氏が亡命してきたのは十年以上前、(せい)に勝った直後だ。その時、絶世の美しい未亡人を盗んできたのだと。その未亡人、その十年前には立派な息子を育て上げていたらしい。そうなるとまあ、少なくともその二十年前には輿入れしたんだろうよ」

 十年前。それにさらに十年。そして二十年。合わせて四十年。趙武はそこまで数えて、へたり込んだ。どう見ても、三十路にいっていない、顔であった、若さであった。

「ああいうのを、化け物と言うのだ」

 士匄は、手をひらひらと振りながら吐き捨てた。


 豆知識。

 夏姫(かき)、という女がいた。()(てい)室の娘で、(ちん)国の()氏に嫁いだため、夏姫と呼ばれている。

 彼女は、夏氏に嫁ぐまえに兄と密通していたという噂がある。その兄は夭折した。嫁いだ先の夏氏も早々に死んだ。一人息子を育てる夏姫に時の(ちん)公と大臣など三人が通じ、男三人に囲われたが、陳公は夏姫の息子に弑された。楚はこの騒ぎに介入し、夏姫の息子を処刑して、陳を滅ぼし編入してしまった。この夏姫をめぐり楚は緊張し、とりあえず老臣の一人に下げ渡した。が、この老臣は戦死した。夏姫に密かに恋心を抱いていた巫臣(ふしん)は、彼女を連れて(しん)へ亡命した。それを知った楚の幾人かが怒り狂い、巫臣の一族を殺し尽くした。その後、復讐鬼となった巫臣は呉を使って楚を疲弊させている。

 夏姫は、春秋時代に生まれた、最も美しく艶やかな、中国最凶のサゲマンである。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 郤氏が出てワーイ\(^o^)/と思ったら 夏姫を抱えてらっしゃったウワア/(^o^)\アアア 夏姫何歳なの… これまで絡んだ一族を滅ぼしまくってるから、郤氏も遠からず…
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