冥冥に視、無声に聴く。人間、見えないものを視て聞こえない声を聴けたら立派だね②
「怖いのですか?」
「ばっっっか、やろう! わたしが! 怖いとか、そんなわけあるか!」
士匄は席を手でバンバン叩きながら怒鳴った。その空気が伝わり、馬が少し怯えたように耳を伏せる。御者がなだめながら歩かせた。そのような下々の苦労がわからぬお坊ちゃんは、後輩に対して万の言葉をつくし、怖くないと言いつのった。つまり、怖いのだと趙武は思った。
「まあ……先達の頼みですから、後輩としては謹んでお受け致します。郤氏の方々とは縁遠いですので、まあ、少しはご挨拶したほうが良いかもしれませんし。いや縁遠いままのほうがいい気がしますけど」
趙武はどうも、韓氏以外の一族と近づきたくないらしい。士匄とは教導という部分で近いが、一族として懇意にしようとしていない。亡びかけた氏族としての処世なのかもしれない。士匄は、処世というものをあまり考えない人間である。邪魔なものは踏みつぶしてしまえば良い。
しかし、まあ、踏みつぶせぬものもある。
士匄は、郤氏の邸で見た不祥を思い出しながら、ふと趙武に妙な瘴気がまとわりついていることに気づいた。いや、初手から気づいていたが、自然に散らぬのが気になってきた。
「趙孟。変なものにでも行き会ったか。穢れがある」
趙武が、えっ、と声を出すと、己の体を必死にはたく。が、その程度で穢れが離れるわけがない。
「いえ、別に妙なところに行ったりしてませんし、その、お悔やみ的なものもございませんでしたし!? え、やだあ。我が家の巫覡は何も言ってませんし」
途方にくれた趙武に士匄は己のこめかみを少し叩いたあと、口を開いた。
「不祥が充満し穢れ麻痺することは、多々ある。最近、いつもと違うことは無かったか」
「……まあ、はい。お体が悪いようで蹲っていたご老人を一時看病させていただきました。長く生きた方は敬わなければなりません。賢人らしく、色々ごぞんじの方でした。ご老人は良くなって、ひとつのところに留まらぬ人生だからと去っていかれましたが……」
士匄は指をならして、それだ、と呟いた。それだってなんだ、と趙武はいぶかしげな目を向ける。
「見ておらんから、まあ想像だが。そのじじいが一所に留まれぬのは、他者に不祥を振りまく性質だからだろう。そういう体質のやつが稀にいる。本人はピンピンしているが、他人を不幸にする巡り合わせのやつだ。邸中を祓ったほうが良い。巫覡も穢れた可能性がある」
巫覡が気づかぬものを何故あなたが気づいたのか。趙武は指摘しなかった。春以降のもろもろで、趙武は士匄の目を信用している。この先達は、下手すればそのあたりの巫覡よりも敏感であった。が、それだけである。趙武の不祥を言い当てても祓うことはできぬ。
「……穢れたままで郤氏に伺うのは、非礼になるのではないでしょうか」
趙武が途方にくれたまま、問うた。
「相手が気づけば祓って貰えばよい、気づかなければ非礼にならぬ。見えなければ無いと同じだ」
鼻を鳴らして士匄は感慨もなく言った。馬車はそろそろ、終点へと近づいていた。
前述したが、郤氏は先代が正卿であり、先々代も正卿という名家のひとつである。武に長け、財も多い。そのためか、邸の土壁も堂々とした威風が感じられ、いっそ人を圧迫するような強さもあった。さすがに士匄も趙武も緊張の面持ちで、門の中へ入った。極めて私的な内容であるが、家の代表として格式上の人と会うのである。友だちの家へ遊びに行く、とは大違いなのだ。
「趙氏の長と士氏の嗣子を迎え入れるとは誉れ高いことだ。いやあ、よく来た!」
声の大きい男である。儀礼爽やかな壮年で、獰猛さと少年のような無邪気さが瞳に宿っている。名を郤至といい、ほれぼれするような体軀であった。
「このたびはご挨拶をお許しいただき、感謝に堪えません。我が士氏はこのたび、邸の普請をすることとなりました。郤氏の地の隣でうるさく音が鳴り響くこと、お知らせに参った次第です。なにぶん、不調法な家です、ご迷惑おかけいたします」
士匄の言葉に郤至がからりと笑った。
「そのようなこと、わざわざ律儀にご挨拶いただかなくても気にせぬよ」
単に付き添いでやってきた趙武は口を開かない。内心、肩をすくめていた。郤至はまあ、個人としては気持ち良い人かもしれない。が、周室へ領地を渡せ、という晋公の命令をガンとして聞かなかった強さがある。陽性の人間であるが、物事を殴ることで解決するところもある。話を通さなくても良いなどと言うが、通さねば郤氏の長として気を悪くしたであろう。
用件は終わったが、はいそれで、と立ち去るのは貴族ではない。典雅な謎解きや詩の応酬など、いわば雑談を美しく飾るのもひとつの儀礼である。趙武も士匄も、郤氏の繁栄を祝う詩を送った。郤至はその喜びを詩で返す。
いきなり、ぶ、と士匄は悪寒に襲われ、全身に鳥肌が立った。唇を引き結び、身を固くする。趙武も郤至も、それに気づかない。
郤氏の臣が室に入ってきて、足早に郤至に近づき、耳打ちをした。そうか、と頷いたこの壮年は、
「せっかくだ、連れて来い」
と言った。そうして士匄と趙武を見回し、にっかと笑う。五十にもう手が届こうとしているくせに、青年のような笑顔であった。
「ちょうど良い時に来られた。我が家の預かりものをご覧にいれよう。はっきり言おう、人妻だ。若いものには目の毒かもしれんが、後学と思えば良い」
郤至の言葉に趙武が頬をひきつらせた。嫌悪を必死にやりすごし、なんとか拝礼する。妻を他者に預ける夫もたいがいであるが、その人妻を見せびらかすという行為は悪趣味としか思えない。趙武は一気にこのおっさんが大嫌いになった。ちなみに、この当時、未婚の女は顔を見せることはないが、結婚した女は人前に出ていることが史書にて確認されている。
趙武の所作に気づいて、士匄も拝礼した。人妻などどうでもいい。とんでもない不祥の気配が、身を刺す。悪寒で吐きそうであり、全身の鳥肌は膨れあがる。席を立って逃げだしたいくらいであった。が、士爕の名代としての責を思い、ねじ伏せる。これに気づかぬあほう二人が憎いほどであった。
衣擦れの音とともに、一人の女がしずしずと室に入り、拝礼した。指先まで優雅な仕草であった。その姿、二十半ばを越えた程度の若い女である。
「お呼びと伺い、まかりこしてございます。巫氏の妻でございます」
その顔、その姿に趙武はあっけにとられ、返礼を忘れた。
一言で表せば、芸術品であった。輝くような白い肌は瑞々しく、唇は椿のように紅い、髪が絹糸、瞳は閉じられた星空、などと言うも陳腐である。言葉が無くなるというのはことのとだろう。趙武は己の顔が極めて美しいことを知っている。それはうぬぼれではなく、事実である。が、自分の美しさなど、目の前の女に比べれば地を這う毛虫だ、とまで思った。
そして、趙武がオボコであるため、気づいていないが、美しさと共にどうしようもない艶やかさがある。男であればその目を向けてほしくなり、唇に食いつきたくなり、その腕を撫で腰を掴みたくなるような、香り立つ女でもある。
茫然とする趙武を見て、郤至が笑った。その反応が欲しかった、という態度があからさまであった。
③へ続く




