易に太極、是れ両儀を生ず、宇宙から全て生まれてきました!①
「中行伯! どうして!」
趙武が目を見開き、叫ぶ。その声が聞こえていないのか、荀偃が痛ましげな顔をしながら、ただ皐を見て撫で、泣きだした。
「皐。無茶しちゃあ、だめだよ。ああ、指が痛々しい。どうしたらいい? 私はたくさんご飯をいただいたから、次は皐を労りたい」
善意の欲が、荀偃の口からヘロヘロと出た。伯さま、いいえ、いいえ、と皐が泣きながらむずがる。
ここで、士匄が理性を蒸発させなかったのは、集中しすぎていたからに他ならない。目の前の茶番で怒り心頭になれぬほど、彼は脳みそを総動員して言上を行っていた。すっと息を吸う。
「君子維れ解くことあれば吉なり。小人に孚すことあり」
君子は君子と親交すべし、小人がおらぬが良し。
荀偃が皐を放り投げるように腕から落とした。正確には、皐が弾かれ落ちた。愚鈍な荀偃は、自分がうっかり落としたのだと慌て、皐に駆け寄ろうとしたが、何故か手が止まる。巫覡がほどこした朱墨の護符が、皐との繋がりより強くなったらしい。つまり、皐と荀偃の夢を介した主従関係に亀裂が入っているのである。
饕餮を士匄一人で消すことなどできない。が、饕餮を呼び出したものに責を取って貰えば良い。皐が荀偃から狍鴞を引きはがすか、皐と荀偃の主従関係が消えるか。そうなれば、荀偃の問題は終わる。ついでに皐と狍鴞が切れれば饕餮も一旦は引くであろう。贄でしかなくなった皐が狍鴞に食い尽くされても、誰も損はしない。巫覡を失った狍鴞も山に帰るだけである。
「范叔、私は、私は大丈夫ですから! 皐は私のためを思ってやったんです、許してあげてください!」
状況がほとんどわかっていないくせに、荀偃が引きつった叫びをあげ、請うた。ここで、皐は荀氏の客人である、と言わなかったことが奇跡のようなノロマさである。もし、そのようなことを主張すれば、荀偃と皐の関係は再び強まっていた。が、荀偃は自己主張が下手くそであった。ただ、士匄に詫びて許してあげてと言いつのった。
「あんな、やつらに、あたしの護符、とられ、て。痛ましい、ごめんなさい、あたしが未熟で、伯さまっ」
主人に助命嘆願される従者ほど悲しいものはない。皐は首を振って、荀偃を止めようと手を伸ばした。が、弾かれて衣さえ触れない。
「――解は、西南に利あり、往くところなければ其れ来り復って吉なり」
士匄は静かに言葉を紡いだ。動き進めぬ困難は、解き放たれなければ消えぬ。北山から見て晋は西南。動く必要無ければ、いるべきところに帰るが良い。
「往くところあれば、夙くして吉なり」
問題あらば、早く動き終わらすが良い。
「往くところ物事、難に終わるべからず、故にこれを受くるに解をもってす」
士匄は拝礼しなかった。神威あろうが君でなきものにぬかずく理由はなく、法を侵す咎人を許すことはない。貪欲という難を背に乗り込んできた巫女に、士匄は場の解を命じ、要無きもの帰れと言い渡した。それは、私怨でも攻撃でもなく、法と礼に則った宣言であった。饕餮がもたらす陰気は、山神と士氏の巫覡による陽気と拮抗し、天地陰陽、全て中庸である。
士匄の言上は終わった。終わったはずであったが、するりと口から何かが出てきた。
「天の命これ性、性に率うこれ道、道を修むるこれ教え。すなわち中庸、知も愚もあたわず」
――何を言った。
士匄は、唇を噛み切って気を失うのを防いだ。気力を削りに削って、異形どもの重圧にも耐え出し切った言上に、余計なものが何故か足されたのである。閉じた言上がまた開いたと、腹の底が抜けるような怖気が走った。視界に星が降ってくるさまが見える。陽気が閉じるのか、となり、そして。
「星が、流れて、えっと、え」
趙武が間抜けな声をあげた。
②、③に続きます