忿りを懲らし欲を窒ぐ、怒りと欲望は損しかないね。③
「くあああああああああああっ」
趙武が身を丸め、床を掻きむしりながら叫んだ。根性のある彼は、甘美の夢想にも自傷の欲求にも耐えながら、気が狂わんばかりに咆吼をあげている。贄の場所から逃げださぬのは上出来だ、と士匄は内心褒めながら言上を続けた。
「蹇とは難なり。物もって難に終るべからず。故にこれを受くるに解をもってす。而の拇を解く。朋至りて斯に孚あり」
良からぬものとの交友を断てば良き友の信頼を得る。
北山二首、賢人の大きな顔が幻影の饕餮を越え、士匄へと向かった。蛇の胴がゆったりとうねり、ちらりと鱗が光る。消えかけていた陽気が一瞬だけ戻った。
咎なし、と大音声が響くと、山神は玄天へ勢いよく昇っていく。その大きさをもってしても見えぬ彼方へ消えたとき、陰気の闇を分け入るように、陽光と共に天にある全ての光が降り注がれた。月、そして満天の冬の星である。山神として、饗応に預かったと、返礼の恵みであった。
「我が儀を礼を、恵の礼を以てお返しいただくこと、わたしの喜びといたす。我らもはや睽あらず、氏族国人乖かず、蹇は要らず。動けぬ蹇はただ解くのみ。おおいなる主がお帰りになった以上、お客でなければお引き取りを。この場に留まるは法を侵す咎人なり。堯の一族、舜の主として、礼無き者を見ばこれを誅す。いにしえより法を破るは賊、賊を匿うは蔵、財を盗むは盗、国の財を盗むは姦、その全て行うものを大凶徳と申し、汝ら咎人を指す」
饕餮のもたらす陰が空を暗く覆い、山神の置き土産の陽が日と月と星の光を瞬かせる。この、狂気じみた空間が保たれているのは、士氏の巫覡が察し、支えているのであろう。
「大凶徳、常に刑ありて許すこと無し、九刑にありて我ら忘れず」
九刑はこの中原、周の刑法であるが、概念は堯帝まで遡る。士匄に巫覡の技は無い。しかし、言葉には力がある。堯帝という饕餮の上位者、周という天命降りた統治者の言霊は、皐の踊りを止めた。足がもつれ、腕が空を掻き、どお、と倒れる。この巫女はいじらしくも立ち上がろうとするが、手足に枷でもつけられたように動けず、おああっと吼えた。
「こ、の! あんたなんかにぃ!」
皐という女――少女にも近い、この巫女は、士匄がなぜ邪魔をするかなどわからぬ。ただ、権威権力を以て皐の善意を貶め踏みつぶし、義務を蔑み鼻で笑っているのだ、と怒り憎んだ。出会った時、荀偃がはにかんだ微笑で、快く食べたいと望んだ。夢に見た貴人は、巫覡にとって主に等しい。言祝ぎ、吉兆をもたらさねばならぬ。皐の方法は、欲を満たしてやるという一点に特化していた。人は欲のまま生きるものである。生き抜くためには、他者を貪りつくして一人立つしか無い。
確かに、士匄の皐を見る目は、侮蔑そのものであった。彼女の言葉ひとつも、尊ぶに値せぬと思ってもいた。
が、ことここにあたって、そのようなことを思うことも考えることも、士匄はしなかった。それどころではないからである。この場にいるのは、士氏という法と礼を尊ぶ家の嗣子と、法を犯した礼知らぬ咎人のみである。法に侮蔑も憤怒も憎悪も邪魔であった。情を越え理の先に礼がある。
「負い且つ乗る、寇の至るを致す。貞しくとも吝」
能も無いのに高位につくは姦をひきよせるのみ、その心正しくとも分不相応は羞じよ。
ぐふ、と腹でも踏みつけられたかのような声をあげたあと、皐がゲホゲホと嘔吐した。狍鴞があえぐように倒れ、痙攣している。皐が狍鴞を御せなくなっているのだ。そして、饕餮は狍鴞と繋がっている。
「ぎゃあああああああああああああっ」
皐が激痛に悲鳴をあげた。饕餮の欠片は、最初の餌である皐の指をまた食い始めたのである。ちまちまと食われ続け、末端の敏感な神経ごと削られていく。第一関節まですりつぶされたとき、皐の絶叫は天に鳴り響いた。場を覆う饕餮の圧力が皐へと傾く。趙武が少し息をついていた。彼のすぐ隣で見守っていた男は影となり、瘴気に戻って霧散する。士匄は静かに息を整え口を開こうとした。そのわきを、羊が、駆けていった。
人面の羊は皐に近づくにつれ、人となった。やせこけた骨と皮ばかりの男が、皐の傍で座り込み、かかえ上げて抱きしめる。――荀偃であった。
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