忿りを懲らし欲を窒ぐ、怒りと欲望は損しかないね。②
「淫祠の乞食女ひとりで、くそ迷惑な!」
士匄は無造作に趙武の首根っこをつかむと、己の真ん前に引きずり出し、押さえつけた。趙武が、驚きすぎて、ぽかんとした顔で、固まる。元々、饕餮の圧力に抵抗するだけで精一杯であるところに、士匄の狼藉である。処理が全く追いついていない。
「……孟は一子、則ち長男、祖の全てを継ぎ祀りを繋げるもの、八卦にて震、その性状は動」
水底から響くような声が、士匄の口から紡がれていく。趙武の足から流れる血を、指にすりつけ、士匄は己の唇に塗った。
「この場、北の山々、我が国より北東の方々がお越しになられ、前に坎、後ろに艮あり我ら小さき者として蹇を以て承り、饗応とさせていただいておりまする。しかし、我が国は西、西南に利あるもの。北の方々の流儀を続けることあたわず、大きな獣の道は無知にて分からず、小さき人の道にあるもの。――獣に礼なし、法なし、進む先なし、則ち蹇とは我らにとっては動けぬ難。お引き取りの儀行うべく、趙氏長男の足を贄としよう」
士匄の言上に、趙武は一気に蒼白となった。銅剣で足を斬られる、と起き上がろうとしたが、その頭を床に押しつけられる。
「趙は歩み遅けれど、越えていくもの。小さきものであるが、動くもの。孟とは始めであり、かしらであり、公を司る。公用て隼を高墉の上に射る。これを獲て、利あらざるなし。これすなわち解。公はこちら、隼はそちら。趙孟が贄はあなたがたには相応しくなく、我らのものである。恐れ入りたてまつる、我が家に蹇は要らず、解が要」
押さえつけていた趙武がおとなしくなった。彼は士匄が害せぬと気づいたようであった。士匄はようやく、姿勢を正しいものとし、息を吸って吐いた。前座だけでとんでもなく、しんどい。二首山神が顕現したときの加護はギリギリ効いている。しかし、本体そのものが、もたない。これ以上は引き留められない。儀に則って帰さねば祟りはそちらからも振ってくる。ゆえに、きちんと帰した上で、饕餮の影、たったひとかけらを消さねばならない。そう、冷静に考えながら、士匄の腹の底は憤怒で煮えくりかえっていた。
淫祠の巫女にしても、北山の神にしても、饕餮にしても、この中原――周王朝文明下から見れば、田舎ものであり、夷でもあり、陰であり、境界の向こうにいる敵である。それが、北に座し南面するは、不遜ではないか。
――身分不相応というものだ
士匄は、言上の最中で無ければ、そう吐き捨てたであろう。
おおよそ、君主は北を背に南を見る。臣は南からやってきて拝謁する。腹立たしいことに、士匄たちは臣の位置にて出迎えるはめになっており、分が悪い。しかし、はいそうですか、と饕餮を君主と仮託し、儀を行うことなどできぬ。陽を食い尽くすようなものが、陽に向かう場所にいることが間違いである。つまり、天地陰陽の法を犯している。
「この場を任されている匄、士氏の嗣子と申す。祖は堯の同族、祁姓陶唐氏である。堯帝は明君にて賢人舜帝を見いだされ、位を譲られた。ゆえに謙譲、公平を尊び、法と礼を以て堯よりの教えを守るものである」
そもそも、四凶なんぞ、堯帝に仕えた舜が罪状に従って世界の果てに流罪としたのではないか。未だ、舜は臣であった。縉雲氏といえば、西方の駐屯軍程度であったろうが、ガキ一人を御しえず国に世話してもらうような氏族。その節度の無い欲しがりの駄々っ子が、何を上から偉そうに見てやがる。饕餮の凄まじい陰気と圧迫、欲望への誘いも、呼びつけられた山神の威圧さえも、士匄は矜持と意地と怒りでねじ伏せ歯を食いしばる。士匄は粘りも無く根性も無く、守勢にまわればすぐに腰が砕ける男である。しかし、攻勢に出れば、勝つまで殴り続ける男であった。
彼は、怒りのあまり、饕餮に攻撃をしかけているのである。正気の沙汰ではない。
「我が祖、堯の命により、舜、臣として四門に賓し」
手元に置いていた銅剣を手で弾いて遠ざける。賢人を呼び集めるなら、武はいらぬ。
「四凶の族を流し、諸を四裔に投じて以て魑魅を御がしむ」
法の下に罪人は全て世の果てへ流し、害を防ぐべし。
饕餮がこの程度でひるむか。むろん、ひるむことなどなく、陰気を深めながら己の欲しいままに貪ろうと音も無く吼えた。実体でない異形は声も出せぬらしい。が、その圧は凄まじく、骨が軋み折れそうな重さが襲った。
③に続きます