南山の寿の如く騫けず崩れず、命が大切、長く生きていたいよね③
趙武は思いきりその部分を蹴り飛ばした。返ってきたものは固めた壁の感触ではなく、ぐらつく動きであった。さらに、思い切り強く蹴り上げる。
「こ、の!」
ごん、という音と共に、たった一つの石が外れ転がり落ちていった。その瞬間、山全体が、おおおおお、と大きく鳴き、迫るようであったが、趙武は怖じるしぐさひとつなく座り込み、その場で地面を掘った。袖から玉璧を出すと埋める。土を山盛りにしたあと、やはり袖から少ししおれてしまった柏をそっと挿した。
「范叔! 終わりました!」
わかっている! と士匄は返さなかった。それどころではなかったからである。己を祖霊と思い込んでいた山神が『廟』を壊されたと怒り、そのまま山津波を差し向けてきている。地にぬかずいたまま、言葉をまとめていく。
「あなたさまのお家、いらぬ陰、無駄な飾りを極めれば、それはただのうわべであり質は無くなる、ゆえにこれを受くるに剥をもっていたしました。物事すべて動き続けることなどございません、必ず止まるもの。ゆえにこれを受くるに艮をもっていたしましょう、我が玉璧はいらぬ陰を陽にかえるもの。山は天あらず、地あらず、すなわち八卦にて艮。あなたさまの誠実はこの山を守りましょう。あなたさまの温情は伺うものみな感謝を表すものです。あなたさまからの贄も合わせ儀を行い、我が邑は祁姓の治める地となりましてございます。これは縁切りの贄にて、あなたさまは神として再び威を取り戻してございます。正しい陰陽、正しい祀りの儀終わりましてございます。――其の身に艮まる。咎なし」
一気に言い切ると、士匄はゆっくりと体を起こした。視界に、止まった土石流が映る。全く不自然な止まりかたであった。流れ落ちている最中の全てが、そのままに動きを止めていた。
趙武が、は、は、と息をしていた。その背に土砂が迫りぶつかっていたが、飲み込むことなく止まっている。彼は無意識に柏を守るように座っていた。目を見開いて小さな柏を見ていたら、ぼたぼたと水が落ちていった。己の涙であった。そうやってへたりこむ趙武に、士匄はゆっくりと近づいていった。
「趙孟。終わった。わたしの不祥も消えた」
珍しく柔らかく笑む士匄に、趙武がうわあ、と泣きながら抱きついてくる。士匄は神経が焼き切れるような繊細なことをしていたが、趙武のほうが圧迫が強く死が真後ろだったのである。泣き出すのも当然であった。
「よ、よかったあ、生きてる、私たち生きてます」
びいびい泣く趙武を見ていて、士匄は少々呆れ、そして感心した。
「お前……そんなべしょ泣きして、鼻水まで垂らしているのに、全く崩れぬ顔だな。いや、本当に顔がきれいだな……」
「お褒め、いただき、ありがとうございます。この顔、大切にします」
古代、見目の良さは現代以上に重要視されている。いわば、見た目で八割は判断される時代であった。趙武は子供のような号泣をして鼻水まで垂らしているのに、憂いを帯びた百合の花のような儚さだけが浮き上がっている。女性的な美しさではあるのだが、お得な顔であった。
山鳴り全く無いまま、さあ、と静かに泥が左右を流れていった。新たな社はもちろん、士匄たちも避けて、静かに流れ、止まった。それは狂乱から静寂へ、山本来の性質に戻った姿にも思えた。神がものを言わぬそれこそを、しじまという。
「この社は略式ですから、戻ってきちんとしたものをお願いしないといけませんね」
趙武はなんとなく早口で言った。
「あ、おう……。そうだな。それもいいかもしれん」
士匄はその早口を無視するように、ゆっくりとした口調でごまかした。しん、と二人の間にも静寂が訪れた。すっと歩き去ろうとする士匄の袖を趙武は素早く取った。
「范叔……。私は鈍いので、きっと気のせいだと思うのですが、妙にこう、言祝がれているといいましょうか、祝福の力を感じるのです、いやデンパを受信しているわけではないのですよ、なんでしょう? 妙に、味方します、味方します、という圧があるんですけど?」
趙武のさらなる早口に、士匄は目をそらした。そらしたが、額の脂汗が滲み出る。祟りは終わり霊障は全くないため、士匄本人の汗である。趙武は口下手なため、弁は立たない。ゆえに、早口で同じ事をくり返す、なんでしょう、これなんでしょう、この祝福の圧力はなんでしょう、ねえなんでしょう。そういったループが10回を超えた時に、士匄は観念した。
「や、山神が、感謝の意を表してくださり、お前とわたしを守護なされる、そう……で」
必死に目をそらしながら言う士匄に趙武が絶望の顔とともに胸ぐらを掴んでくる。
「それ、祀らないと祟るやつじゃないですかああああ! いや、すっごく吉祥を感じる空気がありますけど、祀らないと祟るやつじゃないですかああああ!」
「ダイジョウブダイジョウブ。父上にお願いして、君公の巫覡や卜占の方々を総動員すれば、いけるいける! 知らんけど!」
何がどういけるのかも言わずに、士匄は乾いた声で笑った。間違った祀られかたをしたためにストーカーの地雷な神になったわけではない。元々、そういう性格だったということである。邑から切り離されたが、士匄に改めて取り憑いたわけである。ついでに趙武も巻き込まれたというわけだ。
「何が! 知らんけど、ですか!」
趙武の右ストレートが士匄の腹を抉った。趙武は細身でたいして力無く、さらに今はへろへろである。抉るといってもほとんど威力は無い。しかし、士匄は全神経を使うような集中をもって文言を読み上げていた。一句も違えることもできず、一音も外すこともできない。ゆえに、その柔らかな衝撃も、キた。
「おえええええええええええっ」
「いやああああっ、嘘おおおおおっ」
士匄は思わず趙武を掴んで、思いきり嘔吐した。身長の低い趙武はまともにゲロをひっかぶった。