第二話
昭和二十年(1945年) 八月十五日
相良衛戍地 練兵場 櫻井五郎
音が消えた。
いや、正確には消えたというよりも、巨大な真空ポンプで谷底の空間ごと「音」という概念そのものを吸い出されたような、そんな不気味な感覚だ。鼓膜を内側から圧迫されるような、ひどく不快な気圧の変化がある。
練兵場に整列した五千の将兵を見渡したが、どいつもこいつも身動き一つ取れずに立ち尽くしている。 空を見上げれば、さっきまでの突き抜けるような青空はどこへやら、毒々しい赤紫がかった病的な色合いに変貌していた。空間そのものが熱を帯びた水飴のようにぐにゃりと歪んで見える。
『あー、テステス。ん、入ってっけ? あー、聞こえる? おめえら』
耳から聞こえたんじゃない。頭蓋骨の内側、大脳皮質に直接ヤスリをかけられるような、ひどく生理的な悪寒と共に、その「声」は唐突に脳内に響き渡った。
荘厳さなんて欠片も無い。まるで少し小賢しい北関東の書生が、鼻をほじりながら拡声器に向かって喋っているような、ひどく間の抜けた訛りだ。だが、その裏に底知れぬ知性と、絶対的な上位者としての冷酷さを隠し持っているのが本能で分かった。神様にしては随分と締まらない訛りだな。
『急に音ォ消しちまって悪りぃな。おめえらの鼓膜ぶっ壊れちまうから、ちっと空間の位相をいじくったんだわ。えーと、第三三四……なんだっけ、まあいいや、相良の油屋部隊の皆さんよ。おめえら、あと数分で偉いさんのラジオ聞いて、アメ公に白旗揚げる予定だったっぺ?』
声の主は、俺たちがまさに「敗戦」の瀬戸際にいることを、昨日の草野球の結果でも語るようにあっけなく口にした。不愉快だが、事実なのだから反論する気も起きん。
『でもよぉ、そのまま放っとくと、おめえらの国、結構悲惨なことになっちまうんだわ。明日からアメ公の将軍様がふんぞり返って、おめえらの神様は「俺ぁ人間だかんな」って宣言させられてよ。まあ、そのあと車やらテレビやら作って、一回すげえ金持ちになって浮かれるんだけどな。一九九〇年くらい? そこらで経済が泡みてぇに弾けて、ずーっと三十年以上も経済が腐ってな、子供も産まれなくなって、ジジババばっかの国になってよ。最後は二〇二七年だ。どっかの馬鹿が国一つ焼いちゃう様な爆弾ロケットのボタン押しちまって、世界中ドカンドカンと撃ち合いよ。熱線と1000年消えねえ毒で、おめえらの愛した国も、地球ごとこんがり丸焼きだっぺ』
声は軽く笑った。だが、その笑い声の裏側には、人間という種族全体をシャーレの上で観察するような冷徹な視線が潜んでいる。肌が粟立つような恐怖を感じた。
つまり、大日本帝国が負けた後、一度は経済で栄えるが結局は衰退し、最後は第三次世界大戦で地球ごと滅びるというわけだ。全く身も蓋も無い。
『だからよ、オレらも暇だし、ちっとした実験をさせてもらうべと思ってな。おめえら、その相良の谷間と周りの畑んごと、別の時空に引越しさせてやったかんな。今いるとこは永禄三年……西暦だと一五六〇年だっけか? まぁ、いわゆる戦国時代ってやつだ。織田信長とか、武田信玄とかがチャンバラやってる、あの野蛮で泥臭ぇ時代よ。おめえらからすりゃ、完全な異世界だっぺ』
異世界。一五六〇年。永禄三年か。
俺の脳がその突飛な情報を処理するより早く、声は楽しげに続けた。
『あ、おめえらが生きていくのに困んねぇように、これからの歴史の流れとか、おめえらの時代から二〇二七年に至るまでの細かい情勢とか、頭ん中にパッケージにしてブチ込んでやるかんな。階級が上の方のヤツと、脳みその出来がいいヤツには、特典としてより詳細な超高解像度データを入れてあっから。……じゃ、そういうことだから。せいぜい、オレらを退屈させねぇように、好きに暴れてくろや。じゃあなー』
プゥン、という真空管が弾けたようなノイズと共に、頭蓋骨に張り付いていた不快な気配が消滅した。と、思った直後だった。
「ガ、ァァァァァァァァァッ!!」
隣にいた“氷の副官”こと乾中尉が、両手で頭を抱え込んで泥の上に転げ回った。いつになく冷静な男がこれほど取り乱すとはな。
だが、俺も他人の心配をしている余裕は無かった。
眼球の裏側で閃光弾が炸裂したような激痛が走り、視神経が真っ白に焼き切られるかと思った。そして、大質量の「情報」が、決壊した泥水のごとく脳髄へと雪崩れ込んできたのだ。陸軍大学校を恩賜の軍刀を拝受して卒業した俺の頭脳に、強制的に解凍された情報はまさに黙示録だった。
一九四五年八月十五日の玉音放送の全文。厚木に降り立つマッカーサー。東京裁判でのA級戦犯たちの吊るし首。正式な人間宣言。
そこから始まる高度経済成長の狂乱。自家用車に極彩色テレビ、冷暖房空調機……軍隊ではない「自衛隊」という組織の拡大。金が金を産み、膨らんだ泡のような経済のネオンサイン。
泡が弾けて転げ落ちる「失われた三十年」の絶望的な経済指標。少子高齢化でインフラが崩壊していく地方都市の惨状。
(あぁ、なるほど。規制を緩めて資源を集中させたツケが、未来で一気に回ってきたというわけか。経済構造の歪みは恐ろしいな)などと、妙に納得している自分がいる。
そして、二〇二七年の第三次世界大戦。東京、ワシントン、モスクワが次々と数千度の火球に飲み込まれ、地球全体が核の冬の灰に覆われるまでの、精緻を極めた滅亡の映像。
それだけじゃない。時間は逆流する。
俺たちが放り出された座標は永禄三年五月九日(一五六〇年六月二日)。ここから始まる、桶狭間の戦いの詳細な布陣図。
織田信長の台頭と本能寺の変。豊臣秀吉の天下統一と無謀な朝鮮出兵。
徳川家康が築く二百六十年の停滞した幕藩体制。
黒船来航から明治維新、そして泥沼の太平洋戦争へと至る、血と泥に塗れた日本史の完全な俯瞰図だ。
年号から人物の相関図、裏事情に至るまで、巨大な杭となって前頭葉に打ち込まれていく。頭が割れそうだ。
「……ッ、は、はは……!」
俺は泥まみれの両手で顔を覆いながら、吐き気と共に乾いた笑いを漏らした。情報過多による脳の沸騰を必死に抑え込みながら、俺は己の内に湧き上がるどす黒い感情の正体を理解していた。
やれやれ、俺たちの軍務も、献身も、息子の戦死も、完全に無意味だったというわけだ。
大日本帝国は無条件降伏し、俺たちが数百万人分の血で護ろうとした「国体」とやらも、結局は毛唐の元帥の顔色を窺うだけの見世物に成り下がり、最後には超科学の業火で消し飛ぶ。
だったら、大義なんて最初から存在しなかったんだ。
俺たちがこれから、この過去の野蛮な時代で何をしようと、誰を殺そうと、どんな国を創ろうと、未来の歴史に対する罪悪感なんて微塵も抱く必要は無い。俺たちは、歴史という名の呪縛から完全に解放されたのだ。
そう思ったら、妙に心が軽くなった。悪くない。
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昭和二十年(1945年) 八月十五日
相良衛戍地 練兵場 乾宗谷
脳みそが鼻からこぼれ落ちるかと思った。
甚大なショックに耐えながら、俺は何とか正気を保って立ち上がった。俺のような実務第一の現実主義者は、ショックを受けつつも、脳内に叩き込まれた膨大な「情報」を分類・整理することに頭を回せたようだ。だが、周囲を見渡すと、練兵場は完全に阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
一般の兵や末端の作業員たちは、「日本が戦争に負ける」「ずっと未来で世界が滅びる」「どうやらここがサムライの時代らしい」といった曖昧な概要だけを受け取ったようで、恐怖のあまり泣き喚きながら右往左往している。これくらいならまだ可愛いものだ。
最も深刻な脳の破壊を受けたのは、「国体護持」を狂信し、現人神への絶対的忠誠に魂を縛られていた皇道派系の将校たちだった。
「嘘だッ! 嘘だ嘘だ嘘だァァッ!!」
野砲第三中隊の小隊長である中尉が、軍刀を抜き放ち、見えない敵に向かって狂ったように刃を振り回していた。
「へ、陛下が人間宣言だと!? マッカーサーなどという毛唐に、陛下が頭を下げるなど……そんな未来が、そんな歴史があるはずがない! これは敵の、米鬼の電波兵器だ! 騙されるなァッ!」
彼は己の軍靴に大量の胃液をぶちまけ、顔を泥に擦り付けて泣き叫んでいる。見ていられんな。
またある大尉は、敗戦と核の冬という因果関係を自らの狂信の中で無理やり統合しようと試み、完全に精神の限界を突破していた。
「……そうか! わかったぞ! 陛下は人間になられたのではない! 二〇二七年にこの穢れた世界を浄化するシヴァ神となるため、一時的に人間の器へと身を隠されたのだ! つまり我々が送られた理由は、皇軍の力をもって織田信長を討ち果たし、天皇陛下を地球統一の真の神として……アバーッ!?」
白目を剥いて奇妙な姿勢をとったかと思うと、口から蟹のような泡を吹き、硬直してその場にぶっ倒れた。即座に高峰軍医のところに担ぎ込まねばならん。
「……副官。生きてるか」
大佐殿が立ち上がり、軍服の泥を払いながら、隣でうずくまる俺を見下ろした。その目は驚くほど冷徹で、微塵も揺らいでいなかった。陸大恩賜の頭脳は、この超常現象すらも一瞬で咀嚼してしまったらしい。やはりこの人は化け物だ。
「はっ……大佐殿。なんとか、脳みそが鼻からこぼれ落ちずに済んだようです」
俺が死人のように青ざめた顔で答えると、大佐殿はすぐに矢継ぎ早の命令を下した。
「歩兵大隊の武田少佐へ伝令。直ちに狂乱している将校たちを取り押さえろ。暴れるなら銃床で顎を砕け。武器を没収し、衛戍病院へ放り込め。高峰軍医少佐に『ありったけの鎮静剤かモルヒネを打って黙らせろ』と伝えよ」
「はっ!」
「それから、部隊の周囲に警戒線を敷け。いいか、ここがどこであろうと、我々のルールは変わらん。火気厳禁だ。狂った将校が火を放って地下タンクが吹き飛べば、桶狭間どころかこの谷ごと消滅するぞ」
「了解いたしました!」
大佐殿が命令を下したことで、周囲の古参下士官たちもようやく正気を取り戻し、狂乱する将校たちを泥まみれになりながら押さえ込み始めた。大佐殿がトップにいてくれて本当に良かった。この人がいなければ、今頃この要塞は内部から自滅していただろう。
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昭和二十年(1945年) 八月十五日
連隊本部 櫻井五郎
午後三時に航空分隊の如月大尉を呼び出し、九八直協で周辺空域の偵察に行かせた。谷底の未舗装の滑走路から土煙を上げて飛び立つ鉄の怪鳥。一五六〇年の空気を切り裂くプロペラの爆音は、この時代の人間からすれば文字通り腰を抜かす代物だろう。
一時間後、帰還した如月大尉は油まみれの飛行帽を脱ぎ捨て、酷く疲労した顔で連隊本部にやってきた。
「……大佐殿。見事なまでに、何一つありませんでした」
如月が本部の机に地図を広げ、衛戍地の周りに丸と、そこから東に伸びる細長い長方形を描いた。
「詳細は航空写真が上がって来てからになりますが、この衛戍地と油田を中心に周辺の農場や牧草地を巻き込んだ半径約三キロの範囲と、衛戍地から海側に伸びる道路から海岸の防波堤までの幅百メートルくらいの長方形の範囲が、丸ごとくり抜いて別のものを嵌め込んだ様な状態です。植生が全く違うんですよ」
「続けてくれ」
「東海道本線も、国道一号線も、浜松の飛行学校も、中島飛行機の工場も、何一つありません。空から見えるのは、鬱蒼とした原始の森と、蛇行する川、それに、掘っ立て小屋のような粗末な村の集合体がポツポツとあるだけです。……駿府のあたりに、少しばかり大きな城郭都市が見えましたが、現代の我々の基準からすれば、ただのスラム街ですね。それに天測をしようとしたんですが……金星の位置がズレていました。間違いありません。我々は、完全に時代から見放されました」
「ご苦労。ゆっくり休んでくれ」
短く労って下がらせた。
なるほど。衛戍地と油田製油所複合体、それに農場や牧草地、海岸の小規模な秘匿桟橋といった付属施設群まで、一切合財まとめてこの永禄三年の世界に放り出されたというわけだ。そりゃ天測をすれば金星の位置もズレているはずだ。状況は理解した。
そして夜。連隊本部の会議室は、重苦しい沈黙と濃密な煙草の煙に包まれていた。
集まったのは、首席参謀の黒田鉄山少佐、歩兵大隊の武田猛少佐、戦車大隊の二階堂護少佐、野砲の堤敬三大尉、海軍陸戦隊の海堂竜一中尉といった、まだ「まともな頭」を保っている連隊の中核メンバー。安定の実務家たちだ。そして、民間人でありながらこの要塞の最終的な生殺与奪の権である製油施設を握る、相良製油所複合体の所長である結城蔵人。
会議室の空気は、昼間のパニックから一転して不気味なほど冷静だった。ここにいる連中はどいつもこいつも、脳内にインストールされた膨大な歴史的情報と、現在の自分たちの戦力を天秤にかけ、水面下で思考を高速回転させているのが分かる。
「さて」
俺はテーブルの最上座から、灰皿にタバコを押し付けながら口を開いた。
「現状の認識については、各人すでに脳内で処理が済んでいるものとする。問題は、ここが永禄三年五月九日であり、史実に照らし合わせれば、約十日後に尾張国の桶狭間にて、今川義元が織田信長に討たれる歴史的事件が発生するということだ」
黒田首席参謀が、手元の計算尺を弄りながら無表情に頷いた。
「現在地、遠江国相良。今川の領内ですね。彼らの軍勢はすでに駿府を出発し、尾張に向けて西進を開始しているはずです。数万の軍勢とはいえ、我々の機動力と火力をもってすれば、側背から容易に捕捉可能です」
戦車大隊の二階堂少佐が、ティーカップの縁を指でなぞりながら、どこか狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「血湧き肉躍る戦国絵巻の幕開け、というわけですか。で、大佐殿。我々はどう動きますか? 今川義元を助けて恩を売り、東海道の覇者の客将としてヌクヌクと生きるか。それとも、未来の覇王たる織田信長に味方して、歴史の歯車を加速させるか。……どちらにせよ、我々の三式中戦車と野砲の前に、刀や槍を持った足軽など、虫ケラ同然ですがね」
海軍の海堂中尉が、腕を組んで鼻で笑った。
「陸さんは相変わらず発想が貧困ですね。どこの馬の骨とも知れない戦国大名の下について、尻尾を振るおつもりですか? 我々には、三〇〇〇キロリットルのガソリンと、百五十万発の小銃弾と、それを自給し続けるプラントがある。この世界において、我々は文字通り『神』ですよ」
「神、か」
結城所長が、丸眼鏡の奥で冷ややかに目を細めた。
「軍人さんたちの玩具がいつまで動くかは知りませんが、この油田と製油所の生産力を持続させるには、それ相応の労働力や、さらなる資源の確保が不可欠です。誰かの配下に入るなどという不安定な状況は、プラントの運営上、承認できませんな。我々自身が『主体』とならねば」
俺は黙って彼らの議論を聞いていた。皆、まだ自分たちがどれほどの力を持ち、同時にどれほどの「呪い」から解放されたか、完全には理解しきれていないな。彼らはまだ、大日本帝国の軍人としての思考の枠組みを引きずっている。
誰かの味方をする? 誰かを利用する? 馬鹿馬鹿しい。
俺たちは未来を知っている。
大日本帝国がなぜあのような無惨な敗北を喫したか。なぜ軍部が暴走し、硬直した官僚主義に陥り、特権階級が腐敗し、無垢な国民を飢えさせたか。そして何より、一九四五年の敗戦後も、なぜあの国は真の意味での民主主義を根付かせることができず、過去の栄光にすがりつき、緩やかに腐死していき、最後には核の炎に焼かれたのか。
そのすべての病巣の起源は、まさに今、俺たちが直面しているこの時代にあるのだ。『武士』という特権階級による暴力の独占。血筋と家柄による支配。そして、それを権威づけ、利用し利用される『朝廷』という現人神のシステム。この時代に熟成され完成した腐った身分制度と封建主義が、後世の日本に『天皇機関説』すら許容できない狂気のイデオロギーを生み出し、国を焼き尽くすわけだ。
だったら、俺たちがやるべきことは、歴史の改変なんて生温いものじゃない。
歴史の「破壊」だ。
俺は床に軍刀をドンと置いた。鈍い音が会議室の空気を引き締める。全員の視線が、俺に集中した。
「諸君」
俺は、かつてないほど澄み切った声で、しかし地獄の底から響くような冷酷さを持って告げた。
「明朝、改めて軍議を開く。我々がこの時代で何・者・に・な・る・か・、それを決める軍議だ」
窓の外を見た。暗闇の向こうに、製油所の炎が妖しく揺らめいている。俺たちは鋼鉄と油の怪物だ。中世の世界に放り込まれた、致死性の高い劇薬なのだ。
「よく休んでおけ。明日から、我々は徹底的な歴史の破壊を始めることになる」
俺は、ニヤリと唇を歪めた。そうだ。俺たちは過去の亡霊でも未来からの迷子でもない。この世界を俺たち流に書き換えられる存在なんだ。
これからが楽しみだな。焦らずゆっくり、いや、徹底的にやらせてもらおうか。
(第二話了)
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