まだいるよ
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、内見
家賃が破格だった。
都心まで電車で二十分、築三十年とはいえワンルーム二十平米で、月四万八千円。同じ路線のとなり駅で、似た間取りを探せば八万を下らない。仲介の宇野という男は、契約書を差し出しながら、申し訳なさそうに言葉を選んだ。
「正直にお話ししますと、こちらは……いわゆる、事故物件でして」
佐伯結衣は、ページを繰る手を止めなかった。
「火事ですか」
「ええ。前の住人の方が、室内で。ただ、リフォームはひととおり済んでおりますし、構造そのものに問題はございません。柱もきちんと交換しております」
壁紙は新しかった。床も張り替えられている。窓の外には誰のものでもない雲が、ゆっくり流れていた。結衣は契約書にサインをした。心霊現象を信じるほど、結衣は無垢ではなかったし、信じていられるほど、暮らしに余裕もなかった。
「ご親族の方は、その後はどうなさったんでしょう」
ふと訊くと、宇野は一拍黙ってから、「お身寄りの方は、いらっしゃらなかったようです」と、書類の角を揃えた。
引越しは段ボール八個で済んだ。
実家を出て三年、転職してまた一年。結衣の暮らしは、年々、軽くなっていく。最後の段ボールを玄関に下ろしたとき、廊下の奥から、かすかに、焦げた木の匂いがした気がした。
気のせいだ、と結衣は思った。築年数の古い建物には、それぞれの匂いがある。気のせい。
夜、買ったばかりの寝具のなかで仰向けになると、天井のクロスのつなぎ目が目に入った。きれいに貼られている。きれいすぎる、とも思った。新築でもない部屋の、天井だけがこんなに白いのは、なにかを覆い隠したからではないのか。考えはじめると眠れなくなりそうだったので、結衣は寝返りを打って、そのまま目を閉じた。
朝、起きると、玄関のたたきに、結衣のものではない、女物のサンダルの跡が、薄く、ひとつだけ、残っていた。乾いた泥のような跡だった。雨は、降っていなかった。
拭き取ると、雑巾の白い繊維に、わずかに黒い粉のようなものがついた。煤に似ていた。結衣はその雑巾を、ベランダのバケツの底に伏せて、しばらく見てから、目をそらした。
二、衣擦れ
最初に気づいたのは、衣擦れの音だった。
入居して二週目の深夜、台所に水を飲みに立ったときだった。冷蔵庫の低い唸りだけが響くはずの部屋で、布が布をこする、ごく小さな音が、浴室の方から聞こえた。誰もいない。当たり前だ。誰もいないのだから、誰もいない。結衣はコップの水を飲み干して、寝室に戻った。戻る途中、もう一度、同じ音がした。今度は、自分の背中の後ろで。
振り返らなかった。振り返ったら、なにかと目が合ってしまう気がした。
翌朝、洗面所のタオルが、掛けたはずの位置から、少しだけずれていた。三センチくらい。気づかないふりをするには、ちょうど気づいてしまう距離だった。
数日経って、足音が始まった。
仕事から帰り、玄関の鍵を回す、そのほんの一拍前に、廊下の奥で、たんっ、と何かを置くような音がした。鍵が回る。ドアを開ける。誰もいない。台所のシンクに、結衣の覚えのない湯呑みがひとつ、伏せて置かれていた。底に、薄く、茶渋の色が残っていた。
洗ったのは自分だ、と結衣は決めた。決めなくては暮らせない。
それから毎晩、ほんのささいなものが、ずれ始めた。
枕の位置、本の背の角度、コップに残った水の量。冷蔵庫の卵の数を、結衣は毎朝かぞえるようになった。十個ある。買ってきたのは十個だ。けれど、ある朝、卵のひとつに、結衣の指紋ではない、もう少し小さな指紋が、白い殻のうえに薄く、ついていた。割って捨てると、黄身が、わずかに黒ずんでいた。
洗濯物を取り込むと、結衣のスカートの裾に、覚えのない焦げ穴が、五百円玉ほどの大きさで、ひとつ、空いていた。穴の縁は、まだ、乾いていなかった。
ある夜、テレビをつけたままうたた寝をして、目が覚めた。テレビの音は消えていて、画面だけが青白く点いていた。リモコンは結衣の手のなかにあった。消した覚えはない。
画面に、薄く、女の顔の輪郭のようなものが、映り込んで、消えた。年齢はわからなかった。けれど、若い、ということだけは、なぜか、わかった。
寝室に戻ろうとして、結衣は、廊下の途中で立ち止まった。
廊下の壁に、湿った手のひらの跡が、ひとつ、ふたつ、みっつ、と並んでいた。指の長さは、結衣のものより、わずかに短かった。
三、焦げ匂
梅雨が明けたころ、匂いが、はっきりしてきた。
焦げた木と、焦げた布と、もうひとつ、なにか有機的な、嗅ぎたくないなにかの混じった匂い。それが夜の十一時を過ぎると、部屋全体に立ちのぼった。換気扇を回しても消えない。窓を開けると、外気のほうが薄く感じられた。匂いの源は、部屋の内側にある。
結衣は管理会社に電話をかけた。「点検にうかがいます」と男の声が答えた。約束の日、誰も来なかった。もう一度かけると、その番号は使われていないと、女の音声が告げた。最初の電話は、誰と話したのだろう。考えると、台所の冷蔵庫の音が、急に、人間の呼吸のように聞こえはじめた。
その夜、結衣は布団のなかで、目を閉じていた。
匂いがした。焦げた、髪のような匂い。耳のうしろに、ふっと、温度の低い空気が触れた。誰かが、すぐそこで、息をひそめている気配。息は冷たく、けれど吐き出された場所だけ、皮膚がじわりと熱を持った。火傷の余熱に似ていた。
「まだいるよ」
若い女の声だった。耳元で、ひとことだけ、しずかに。
結衣は目を開けなかった。開けてはいけない、と本能が告げた。脈は早く、しかし手足は不思議なほど動かない。声は、それきりだった。けれど、消えたのではなく、ただ黙ったのだという気がした。黙って、こちらを見ている。見ている、というより、確かめている。自分の存在を、結衣を通して、確かめている。
どれだけそうしていたか、わからない。
やがて、布団の左隣に、ゆっくりと、なにかの重みが沈んだ。誰かが、そこに、静かに横たわった。結衣は、息を、半分だけ吐いた。それ以上は、吐けなかった。吐ききってしまったら、自分の番だと、わかっていた。
朝、結衣は、ベッドのとなりに、もうひとつ、人の寝ていたような窪みを見た。シーツの繊維が、その輪郭の縁だけ、わずかに焦げていた。指先で触れると、ぱさり、と、灰のようなものが、ひとつまみ、こぼれた。
結衣はその灰を、ティッシュに包んで、ゴミ箱には捨てなかった。なぜ捨てなかったのか、自分でもわからなかった。捨てたら、悪い、と思った。
ティッシュを文机の引き出しの奥に仕舞うとき、引き出しの底板に、黒い焦げ跡が、子供の指で書いたような、不器用な五十音の「ひ」の字に、薄く焼きつけられているのが見えた。リフォームでも、そこだけは塗り直されていなかった。
四、同居
それから結衣は、ふたり分のお茶を淹れるようになった。
誰のため、と問われれば、答えに困っただろう。けれど、湯呑みをひとつしか用意しないと、夜になって衣擦れの音が大きくなる。ふたつ用意しておけば、片方の湯呑みのお茶は、朝にはぬるくなって、ほんの少しだけ、減っていた。
結衣はそれを流しに捨てなかった。残りを、自分の分の湯呑みに足して、飲んだ。すこし、焦げた香りがした。それは嫌な香りではなく、どこか、線香に似た、静かな香りだった。
会社の同僚に、「最近、煙草吸いはじめた?」と訊かれた。結衣は煙草を吸わない。「ううん」と答えると、「そう、なんか、焦げ臭い」と相手は笑って離れていった。結衣のシャンプーの匂いの下に、別の匂いが、薄く層をなしていた。洗っても、落ちなかった。むしろ、洗うほどに、肌の内側から、にじみ出てくるようだった。
休みの日、結衣は誰にも会わなかった。実家の母から月に一度かかってくる電話には、出なかった。出ようとして受話器を持ち上げると、自分の声が、すこし、自分のものではなくなっている気がして、留守電に流した。母の声が、メッセージを残さずに切れた。
誰にも会わなくても、ひとりではなかった。
土曜の午後、結衣は、買い物のメモを書こうとして、自分の字が、いつのまにか、丸みのある、見覚えのない筆跡になっていることに気づいた。卵、牛乳、と並んだ文字の最後に、結衣の覚えていない一行が足されていた。「線香、白の」。結衣はその一行を消さなかった。スーパーの帰り道、線香を扱う店に寄って、いちばん白い箱のものを、ひとつ買って帰った。
声は、慣れると、姉のようだった。
「まだいるよ」と言うとき、その声には、責める色も、恨む色もなかった。ただ、置き去りにされた人が、自分の存在を、世界に向けて確かめているようだった。結衣は、布団のなかで小さく頷くようになった。いるよ、知っている、と。
ある夜、結衣は、はじめて、声に向かって、訊いた。
「あなたは、なんて名前」
返事はなかった。けれど、台所の床の、結露のあとのような滲みが、ひとすじ、ふたすじ、ゆっくりと、ある形に集まっていった。文字には、ならなかった。なりかけて、崩れた。崩れた、というより、思い出せなかった、というふうに、見えた。
結衣は、それ以上は訊かなかった。訊かないことが、いちばん、優しいのだと思った。
窓の外の風景は、季節をふたつ越した。結衣は、自分が部屋を出る理由を、ひとつも思いつけなくなっていた。
五、まだいるよ
冬のはじめ、宇野から電話があった。
「佐伯さま、お引越しのご予定はおありでしょうか」
結衣は受話器を持ったまま、しばらく黙った。声を出そうとして、いつもの自分の声がうまく見つからなかった。
「いえ、特には」
「左様でございますか、たいへん失礼いたしました。次のご案内のお客様がいらっしゃいましたもので」
結衣は、宇野が、なにか間違えているのだと思った。けれど訊き返さなかった。訊き返すと、自分が答えてしまう答えのほうが、こわかった。
電話を切ったあと、結衣はテーブルのうえのふたつの湯呑みを見た。片方は、自分の。もう片方は、誰の、と訊くことが、もうずいぶん前から、できなくなっていた。
浴室の鏡に、結衣は自分を映した。
輪郭は、結衣のものだった。髪も、目も、口も、結衣のものだった。けれど、鏡のなかの自分の口が、結衣より一拍だけ遅れて閉じたような気がした。気のせいだ。気のせいで、生きている。気のせいでなければ、生きていられない。
鏡を覗き込みながら、結衣は、自分の頬に、ごく薄く、焼けたような跡が残っているのを見た。火傷ではなかった。火傷の、影だけだった。指でなぞると、影は、肌の下を、するりと逃げた。
その夜、いつもの時間に、いつもの匂いが立った。
結衣は布団に入らず、暗いリビングに座って、空っぽの空間にむかって、声を出した。
「まだいるよ」
言ってから、自分の声が、若い女の声に、ほんの少しだけ似ていることに、結衣は気づいた。似ているのではなくて、たぶん、最初から、そうだった。最初から、ふたりの声は、どちらかに、ゆっくりと、寄っていっていた。
返事は、なかった。返事がないのは、相手がいなくなったからなのか、相手が、自分のなかに入ったからなのか。結衣にはもう、判別がつかなかった。判別する必要も、なかった。
壁紙のつなぎ目が、ゆっくりと、剥がれかけていた。新しいはずの壁紙の下から、すすけた、もとの壁が、覗いていた。覗いている、というより、もとの壁が、ようやく、ただいま、と顔を出した、というふうに見えた。
玄関のチャイムが、ふいに、鳴った。
ドアスコープに目を当てると、宇野が、若い男女を連れて、立っていた。「とてもお安いんですよ」と説明する声が、薄いドア越しに、聞こえた。男のほうが、女のほうに、笑いながら、何か囁いていた。事故物件、という単語が、ほんの一拍だけ、聞こえた気がした。女のほうが、軽く頷いて、それから少し笑った。安く済むのなら、と。結衣も、半年前、同じ顔をしていた気がした。
結衣は、ドアを開けなかった。
かわりに、暗い部屋の真ん中で、息をひそめた。次に来る人のために、ささやかな声で、繰り返した。
「まだいるよ」
部屋には、まだ、いる。
誰が、とは、もう、訊かない。
まだいるよ(完)




