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廊下の奥へ

AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。

一 帰宅

 金曜の夜だった。残業を終えて帰宅したのは午後十一時を少し回った頃で、玄関の鍵を開けた瞬間、僕はまだ靴を脱いでいないのに、奥の方から微かな風が吹いてくるのを感じた。

 一人暮らしのワンルーム。窓は出かける前に全部閉めたはずだ。

 靴を脱ぎ、リビングの明かりをつける。何も変わらない。使い古したローテーブル、脱ぎ捨てたままのパーカー、飲みかけの缶コーヒー。見慣れた部屋だ。

 ただ——壁が、おかしかった。

 キッチンとリビングを仕切る壁。そこにはもともと何もなかったはずなのに、今、扉がある。木製の、古びた引き戸。表面には細かいひび割れが走り、下の方にうっすらと黒ずんだ染みが滲んでいる。その染みの形が、指を広げた手のように見えた。

 僕は数秒間、ただ立ち尽くしていた。

 扉の向こうから、風が吹いている。冷たくはない。むしろぬるい。そして、その風に乗って運ばれてくるのは——土の匂いだった。湿った、黒い土。雨が降った後の校庭のような、あるいはもっと深い場所、地面の下から掘り返されたばかりの土のような匂い。

 知っている匂いだ、と思った。

 どこで嗅いだのかは思い出せない。ただ、鼻腔の奥のどこかが反応して、胸の底がきゅっと縮まるような感覚があった。懐かしいのとは違う。もっと根源的な、身体が覚えている種類の記憶だ。

 引き戸に手をかけた。理由は自分でもわからない。開けてはいけないと思う自分と、開けなければならないと思う自分が同時に存在していて、後者の方がほんの少しだけ強かった。

 戸は軽く開いた。

 その向こうに、廊下があった。

 ワンルームの壁の裏に、あるはずのない廊下が続いている。幅は一メートルほど。天井は低く、大人が少し首をすくめなければぶつかる程度。壁は漆喰のようなもので塗られていて、ところどころ剥がれて下地の木が見えている。足元は板張りで、古い木特有の、踏むと軋みそうな質感だった。

 蛍光灯はない。廊下の奥——十メートルほど先に、もうひとつの扉があり、その隙間から薄い光が漏れている。光源が何なのかは見当もつかなかった。


二 廊下

 一歩、踏み入れた。

 板が鳴った。ギッ、と短い音。それと同時に、何かを思い出しかけた。いや、正確には「思い出す」のとは逆の感覚だった。何かがふっと薄れる。消えるのではなく、最初からそこになかったかのように、意識の表面から滑り落ちていく。

 何を忘れたのか、それすらもわからない。

 ただ、二歩目を踏み出したとき、僕は自分の部屋の間取りが思い出せなくなっていた。キッチンはどこにあったか。冷蔵庫は右だったか、左だったか。ローテーブルの上にあったのは缶コーヒーだったか、それとも——何だったか。

 振り返る。背後には、さっき開けた引き戸が見える。リビングの明かりが四角く切り取られて、廊下の入口を照らしている。戻れる。まだ戻れる。

 三歩目を踏んだのは、子守唄が聞こえたからだ。

 奥の扉の向こうから、かすかに。女の声だった。高くもなく低くもない、輪郭のぼやけた声。メロディは単純で、同じ音形を繰り返しているだけなのに、聴いたことがないはずのその歌が、どうしようもなく馴染み深かった。耳ではなくて、骨で聴いているような気がした。

 四歩目。

 母の名前が消えた。

 正確に言えば、「母」という概念は残っているのに、名前だけが抜け落ちた。彼女の顔も——思い出せる。眼鏡をかけていて、髪を後ろで束ねていて。でも名前が、どうしても。喉元まで来ているのに、音にならない。

 五歩目。自分の通っていた小学校の名前が消えた。六歩目で、中学の同級生の顔が全員同じになった。誰が誰だったか、区別がつかない。のっぺりとした肌色の輪郭だけが、記憶の中で並んでいる。

 怖い、と思った。はっきりと、怖い。

 なのに足が止まらない。子守唄が僕を引っ張っている。あるいは、廊下そのものが僕を飲み込もうとしている。板張りの床は一歩ごとにわずかに傾斜していて、気づかないうちに下り坂になっている。地面の下へ、土の中へ向かっている。

 七歩目で、自分の名前に自信が持てなくなった。

 名前自体は頭にある。でも、それが本当に自分のものなのかがわからない。誰かに教えられた名前。書類に書く名前。呼ばれて振り向く名前。それらが全部、借り物のような気がしてくる。

 土の匂いが強くなっている。廊下の壁に、黒い染みが増えている。最初は漆喰の劣化だと思っていたものが、よく見ると壁の内側から滲み出しているのだとわかる。壁の向こうに、土がある。大量の、湿った黒い土が。この廊下は壁一枚を隔てて、土の中を通っている。

 八歩目。

 背後を振り返った。

 引き戸はまだ見えている。リビングの明かりも。でも、その光景がひどく他人事に見えた。あの部屋に住んでいたのは本当に自分だったのか。あのパーカーは自分のものか。あの缶コーヒーを買ったのは自分か。どれもこれも、確信が持てない。


三 突き当たりの扉

 九歩目。子守唄の声が近い。扉のすぐ向こうにいる。歌っているのは女で、声には感情がない。子守唄というより、何かの手順を繰り返しているような機械的な反復。子供を眠らせるためではなく、子供を——何かに変えるための歌。

 十歩目で、僕は奥の扉の前に立っていた。

 木製の扉。引き戸ではなく、押して開けるタイプ。取っ手は真鍮で、長い年月で黒く変色している。隙間から漏れる光はオレンジ色で、蝋燭のように揺れている。

 土の匂いが一番強い場所。廊下の突き当たり。

 子守唄が止まった。

 静寂が、廊下を満たした。板張りの床が、僕の体重でぎしりと鳴った。

 扉の向こうから、声がした。子守唄の声ではない。もっと小さい、囁くような声。

「おかえり」

 女の子の声だった。五つか六つくらいの、幼い声。

 知らない声だ。知らないはずだ。でも身体は知っている。脊椎の一番下のあたりが、きゅっと冷たくなる。この声を聞いたことがある。ずっと昔に。思い出せないほど昔に。

「おかえり。やっと来た」

 取っ手に手をかけた。真鍮は温かかった。体温と同じくらいの温度。誰かがずっと握っていたかのような温もり。

 押した。扉が開く。

 中は——部屋だった。六畳ほどの和室。畳は新しく、い草の青い匂いがする。部屋の中央に、小さなちゃぶ台。その上に蝋燭が一本、灯っている。蝋燭の炎がオレンジ色の光を畳に落としている。

 部屋には誰もいなかった。

 ただ、ちゃぶ台の上に、蝋燭の他にもうひとつ、何かが置いてある。近づいて見ると、それは写真だった。古い写真。色褪せて、端が丸まっている。

 写真には、家族が写っていた。父と母と、小さな男の子。男の子は三歳くらいで、母親に手を引かれて笑っている。背景は——庭だ。土の庭。黒い土が広がる、広い庭。

 この写真を知っている。

 いや、知っているのではない。これは僕の写真だ。僕と、僕の両親の写真だ。でも——おかしい。何かがおかしい。

 写真の中で、僕の隣に——もう一人、子供がいる。

 女の子だ。僕と同じくらいの歳の、小さな女の子。僕と手を繋いでいる。母親の反対側の手を握って、僕と同じように笑っている。

 こんな子供は知らない。僕にきょうだいはいない。一人っ子だ。ずっとそうだったはずだ。

 でも——本当にそうだったか。


四 再会

 記憶を辿ろうとする。幼い頃の記憶。庭で遊んだ記憶。土の匂い。黒い土。掘り返した土。誰かと一緒に何かを埋めた記憶——。

 写真の中の女の子の顔を見る。目が合った、と思った。写真なのに。印画紙の上の、色褪せたインクの粒子なのに。女の子の目が、こちらを見ている。

「おかえり」

 声が、背後から聞こえた。

 振り返る。扉の前に、女の子が立っている。写真の中の女の子と同じ顔。同じ背丈。同じ服。三歳くらいの、小さな女の子。土で汚れたワンピースを着て、裸足で畳の上に立っている。足元の畳が、彼女の足の形に黒く濡れている。

 彼女は笑っていた。僕を見て、嬉しそうに笑っていた。

「ずっと待ってた」

 僕は後ずさろうとした。でも足が動かない。動かないのではなく、動かしたくないのだと気づく。この子を知っている。身体が覚えている。名前も、声も、手の温度も、全部知っている。

 なのに思い出せない。廊下を歩いている間に、この子に関する記憶だけが、最初に消されていたのだと理解した。最初から、この子に辿り着くために。思い出す前に連れ戻すために。この廊下は、そのために現れたのだ。

「もう帰れないよ」

 女の子が手を伸ばしてくる。小さな、土で汚れた手。爪の間に黒い土が詰まっている。

 僕はその手を——握った。

 握った瞬間、全ての記憶が戻った。同時に、全ての記憶が意味を失った。名前も、住所も、職場も、母の顔も、全部が等しく遠くなった。代わりに、たったひとつの記憶だけが、鮮烈に蘇る。

 庭。黒い土。穴を掘っている。隣に誰かがいる。小さな手が、僕と一緒にスコップを握っている。

 何を埋めたのか。

 それとも——誰を。

 蝋燭の炎が揺れた。和室の壁が震えている。漆喰が剥がれ落ちて、下から黒い土が溢れ出してくる。天井からも、畳の隙間からも、土が流れ込んでくる。部屋が、土に還ろうとしている。

 女の子が僕の手を握ったまま、歌い始めた。さっきの子守唄だ。感情のない、機械的な反復。同じ音形を、何度も、何度も。

 僕は目を閉じた。

 土の匂いが、全てを満たしていく。


五 残響

 翌朝、隣室の住人が管理会社に連絡した。隣から一晩中、子供の歌声がしていた、と。

 管理会社の担当者が合鍵で部屋を開けると、そこには誰もいなかった。荷物はそのまま残されている。脱ぎ捨てられたパーカー。飲みかけの缶コーヒー。玄関には靴が揃えてある。

 ただ、キッチンとリビングの間の壁に、奇妙なものがあった。

 壁の一部が、手のひら大の範囲で黒く変色している。触れると湿っていて、指先に土の粒子がついた。

 担当者はそれを水漏れだと判断し、修繕の手配をした。

 住人の行方は、わからないままだ。

 部屋はやがて清掃され、新しい入居者が決まった。壁の染みは塗り直され、何の痕跡も残っていない。

 ただ——夜になると、時々。

 壁の向こうから、ぬるい風が吹いてくることがある。

 土の匂いを含んだ、ぬるい風が。


この作品の執筆にはAIを使用しています。

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