プロローグ 『⬛︎⬛︎の天才』
——自分のことを天才などと思ったことはない。
自分にできるソレは、やり方さえ、コツさえ掴めば、誰にだって習熟可能な代物なのだから。
——自分のことを天才などと思ったことはない。
ソレが可能だからといって、この心が満たされたことなど一度もないのだから。
——自分のことを天才などと思ったことはない。
彼にとってソレは単なる手段であって、まかり間違っても欲しくて欲した才能などでは無いのだから。
欲しくなくても欲しなくてはならなかったものだから。
そうしなければ、傷つく胸を、心を、身体を守れなかっただけのことだから。
必要に迫られて必要なものを入手しただけなのだから。
ソレができるからって誰も褒めてはくれないのだから。
生きてきて良かった瞬間など一度だって無かったのだから。
心を守れはしても、決して喉の渇きを満たすものではないのだから。
利益を生んでも、相対的に不利益も落としていくものだから。
なにより、社会はソレを悪と見做すのだから。だからだからだから——、
「…………う…………ぁぁ」
————そんな彼には、天才だって勝てはしないのだ。
「あぁ、これが欲しいのか? ——いいよいいよ? ほら、そんなとこで倒れてないでこっちに来いよ。ほらほら」
「ぅぅ……ほ、ほじぃぃい…………そ、それがほじぃぃっ……!! お、お願いだがらはやくぞれをぉお……っっっつ——!!?」
汗と涙と血と汚物。
それら全てが入り混じった異臭が充満しているその空間で、男が縋りついてきていた女の腹を膝で蹴り上げた。
必然、華奢な女の身体がその場に突っ伏す。
「おいおいおいおい、欲しい? お願いだから? ——敬語を使えよ、敬語を。他人にお願いするときの常識だよな? なぁ?」
「————お、おええぇ…………ご、ごべん……な、ざいぃぃぃ……お、お願いじまず……だがらそれを、早く……はやぐぅぅ……!!」
女には普段の清廉可憐な印象も無く、明眸皓歯で器量が良いはずの彼女の容姿は、この残酷な仕打ちの前では醜い豚と化している。
丸々二日、水だけ与えて放置した。
ただそれだけならこうはならないだろうが、入念に与えてきたコレをしばらく与えずにいたことで、彼女はこんなことになってしまっている。
もう恐らく、彼女に期待されていた未来も、切望していただろう夢の景色も、訪れることはないだろう。
なぜなら——、
「——俺と同じクラスになるなんてお前は運が無い。運が無かった」
こうなってしまってはもう手遅れだ——と、自分に蹴飛ばされ突っ伏した状態のまま地に額を擦り付ける彼女の姿を見て、まるで他人事のように男は感じていたことを呟いた。クラスで一番の障害だっただろう高潔な彼女に。女には聞こえていないだろう声量で。ああ、醜いなと。ただそれだけの意味を込めて。
「……なぁ神谷。今の痛かったろ、ごめんなぁ?」
「うぅぅ…………は、はやぐぅ…………!!」
「分かってる。分かってるよ神谷。もちろん、コレは今からお前にくれてやる。でも。でもな……? まずは俺の話を——聞こう、か!!」
「————っっ………………お゙え゙ぇぇぇ」
「おっと危ない。俺にかかるところだったぞ」
男が再びぶち込んだ膝蹴りにより、女の吐瀉物がその場に撒き散らされる。見方によれば、というより、人によってはご褒美なのかもしれないが、吐瀉物は吐瀉物。男にとっては汚くて臭くて煩わしい物でしかない。
この連休の間、碌に飯も与えていなかったせいで内容物は殆ど茶色がかった胃液しかなかったが。
「……………………ふぅー、ふぅー、ふぅー」
「お、少し落ち着いたか?」
「————」
乱暴に息を弾ませながら、自身の整ったプロポーションの身体を抱いて。
女は唇を噛み締めるようにコチラを見ている。
「大したもんだな」
それも男から出た、心からの呟き、称賛だ。
この状態に至ってなお、彼女はほんの僅かな意思、残されたミリ程度の理性で自我を保ちつつある。
やはり、この女こそがクラスで一番の障害だったと言える。——が、しかし。
「神谷。お前、まさか俺がコレを餌にしてこのまま自分を辱めてくるつもり……なんて思っちゃいないだろうな? そうだとしたら心外だぞ。だってよ——」
その男の手は。哀憐など。慈悲など知らず。——容赦も知らず。
「——俺は、お前に仲間になって欲しいって。ただそれだけをお願いしに来てるんだ。もちろん仲間になってくれるってんなら……コレも、好きなだけくれてやる」
「————っつ」
縋るような、怯えるような、舐るような、竦むような……。
この世界に存在する、ありとあらゆる感情を混ぜ込んだかのような、そんな彼女の蕩けた視線を受け、男は理解する。
恐怖と渇望、その他諸々によって、女の頭が、今、支配されたことを、理解する。
つまりはこの瞬間——完璧にソレが成ったことを、理解する。
「俺はお前をこんな目に合わせちゃいるが、別にお前のことが嫌いなわけじゃないんだ。もちろん、入学してから今日までお互い反りが合わなかったってのは事実だろうよ。でもな?」
視線と視線が絡み合い、意識と意識がぶつかり合う。
そしてゆっくりと、男が女へ躙り寄り、
「今からでも仲良くなれる——そうは思わないか?」
右手にぶら下げた物に女の意識を注ぎながら、そうやってトドメを刺したのだった。
◇
言葉も出せず、ただ静かに男の右手を取った彼女のことを誰が責められるだろうか。
「いいや? 責められるだろうよ。天才なんだから上手くやれって具合にな」
——と、そんなありふれた語りかけに男が否を唱える。
無論、それは単なる独り言であり、一人問答だ。
男はザワザワとした下駄箱周辺に立ち、人混みに紛れながら考えに耽る。
「天才って言っても、どいつもこいつも自我が強いだけで、砕けた時はチョロいもんだ。弱者を虐げるのと手間がかかる以外に違いがない」
遠くに見える掲示板を眺めながら、あの日、嬉々として男の手を取った女の姿を思い浮かべ男が呟く。
クラスメイトの中でも最初から最後まで面倒だった高潔な女。
そして今は、掲示板の順位が示す通り、自分よりも下に名前が位置している——ちゃんと指示通りに点数を落とした最高のクラスメイトの一員である、女。
「いや、でもやっぱりそれぞれが有能なんだから違いしかないか。使い勝手の差、だけどな」
あの女に限らず、この学校には有能な人材が目一杯に集められている。
それぞれがそれぞれの得意分野を持っていたり、才能などなくとも眠れる原石としてポテンシャル入学している者だったりと、とにかく日本の未来を担うに相応しい若者だらけだ。
それはまさに、男のような輩にとって、天国と言える環境であり、同時に——、
「————準備はできたが、邪魔が多い」
天才たちの中でも上澄みの上澄みである一部の超人たちを含むこの学校は、地獄といえる環境でもあった。
故に、この時男は入学当初から描いていた計画通り、目標のためにも対象を絞って環境を整備することに決める。
「なら————野内蓮。まずはお前だ」
目下、標的となるは『天才くん』こと野内蓮。
視線の先、掲示板に記された満点獲得者の片割れであり、学年唯一の特別指定席獲得者。
同学年の中で、最も大きな障害となりえる可能性を秘めた未曾有の天才に対し、男は密かに宣言する。
「俺が必ず——お前を洗脳してやる」
————『進学期試験』の結果が発表された、この6月10日(月)は。
『洗脳の天才』による計画が、一段階ステージを進めた日でもあった。




