第76話 晴れのち雨のち妹
——ガタンゴトン、ガタンゴトン。
真夏の電車が走っている。
……帰りたくない。
——ガタンゴトン、ガタンゴトン。
真夏の電車が揺れている。
…………帰りたくない。
なんてことを思いながら、俺は今実家に帰省をしようとしていた。
そう——約束の、約束されていた、約束したくはなかった帰省である。
まぁ、帰省といっても実家自体はそう遠くもないので少しその言い方は適していないのかもしれない。
実家の最寄り駅から城才学園までは駅15個ほどしか離れておらず、あえて言うなら県境を跨いでしまっているぐらいで、窓から見られる景色にしたって学校周りとほとんど違いがない。時間にすると一時間もかからずに到着してしまうのだ。
だから、だろうか……?
こんなにも俺が「帰りたくない」と思ってしまっているのは……。
……いいや。否だ。
そんな、近い距離だから帰りたくない、なんて理由では断じてない。
そして加えて言うならば、決して、家が近いからほとんど生活環境も変わってないし別にホームシックとかも全くないのに……だとか。本当は口うるさい妹がいないおかげで自由なダラダラ夏休みが送れるはずだったのに……だとか。
そんな、自分勝手な理由で嫌がっているわけではない。……ない。
……では。
ならば、何故俺がこんな帰省をしている最中にまで「帰りたくない」と心底嫌がっているのか?
「…………うう、さむッ」
——と、そこまで自分の中で半ば現実逃避していた俺は、やけに効きすぎているクーラーの冷風によって無理矢理に意識を現実へ引き戻された。
日本あるあるだと思うんだが、真夏の電車は異様に寒い。
だから当然、今日、8月13日(火)の天気はすこぶる快晴だというのに、電車の中だけは季節感がまったく夏ではなかった。
まぁでも、背中に汗で張り付いた肌着が冷えて気持ちがいいやらどこか不快やらで、これこそが夏だなとも感じている自分もいる。
『次は——、——。お出口は左側です——』
直後、電車の中にはそんな定型アナウンスが鳴り響く。
右手には吊革、左手にはスーツケースを掴んで「ガタンゴトンガタンゴトン」と電車に揺られ続けていた俺だが、まもなく地元の駅につくというその報せを聞いて思わず顔を顰めた。
「…………」
…………着いてしまう。
焦燥を胸に抱きながらも無言のまま目を瞑り、別に暑くもないのに汗が首筋を垂れていくのをひしひしと感じる。
今の俺が考えているのは、ずばり打開策だ。
こんなところ——帰省中の電車の中——に至ってまでも、帰省を何とか回避するという、まさに起死回生の一手を探している。
何か、何かないのか…………。
これこそまさに、暗中模索。
俺の中の俺が「こんな脳みそじゃ無理に決まってんじゃん」なんてことを言いながら思考放棄しようとしている。
——と、そこで。
「おーい野内くん、ここでしょー? 駅」
「早くしないと閉まっちゃうわよ。ほら……早く」
タイムアップを告げる可愛らしい女の子たちの声が俺の胃痛を加速させた。
気が付けば、目の前には見慣れた最寄り駅の景色が広がっている。
「…………ッ。……あ、ああ、うん。……行こう、か」
汗はすでに冷え切っているのにそれでもまだ止まる気はせず。
震える俺と共にポケットの中ではメールを受信した携帯が震えていて。
電車から踏み出した一歩目の足は、果たして右だったのか左だったのか——定かではない。
◇
「……ただいまー」
懐かしの我が家、といっても離れていたのはほんの数ヶ月だけなんだけど……とにかく我が家——実家に到着した俺は、いたって普通に、ごくごくふつーうに、ほどほどの声量で家中に帰宅したことを知らせる。……帰宅したことだけを、だ。
実は道中、道に迷ったふりをしてみたり、ちょっと遅い昼食を済ませてみたり、母校に立ち寄ろうとしてやっぱり面倒事が起こったら嫌なので引き返してみたり……と、散々延命の時間を過ごしたわけなのだが、結局夏の定番である土砂降りの夕立に遭遇してしまい、あえなく実家に到着してしまった次第であった。
——ドンッ!!
俺が帰宅を知らせたことで、起こった変化がひとつ。
2階から明らかに勢いづいたドアの開閉音が聞こえてきた。
そして——。
——ドッドドドドドドッッ!!
階段を素早く、豪快に駆け下りる音がして。
——シュタタタタッッ!!
「おかえりなさい兄さ————!!」
彼女——野内礼貴は軽快な足音と共に颯爽と玄関に現れた。
————その際、我が妹は夢にも思わなかったことだろう。
まさか、帰ってくる兄が、俺が…………俺たちだっただなんて。
そう。お察しの通り、俺は今、単身一人帰省しているわけではない。
後ろにいるのは二人、つまりは俺を含めて三人で帰省してきたのだ。
加えて言っておくなら、後ろにいるのは気心の知れた男子でも、妹や親と顔見知りであるサクや文音でもない。
——正真正銘の、妹の見知らぬ女子二人。
立花つぼみ。
野内藍。
何を隠そう、この二人だった。
妹のレキが驚くのも当たり前だ。
当然、言葉は「おかえりなさい兄さ——」のまま宙ぶらりん状態で、光を反射するほどに手入れされている黒髪のポニーテールと白いワンピースについたフリフリがただただ勢いのままに揺れ続けている。
つり目気味の目が点となり、可愛らしい小さな唇はポカンと開けたまま。
唯一変化がないのは整った綺麗な鼻筋だけだろうか??
……いや、よく見たら小鼻がひくひくしていた。
というか、こうして改めて見てもレキのルックスは妬むほどに端正で魅力的だ。
うちの高校の中で比べてみても上澄み中の上澄みで間違いないだろう。
久々に顔を見たせいかもしれないが、兄である俺がそう感じるぐらいなんだ。他人から見たら高嶺の花レベルに違いない。
俺も相当見てくれだけはレベルが高いほうだと自認してはいるが、どう考えても兄と妹で格が違っている。
まったく、こんな些細なところでも世の不条理というやつを実感させられて嫌になるものだ。
「————あ」
——と、時間にして瞬き数回程度のことだったがレキは正気を取り戻したようで、点になった目で俺の周りを見回し、ようやく口を動かし始めた。
特に混乱している様子はない。どうやら状況を素早く飲み込んだらしい。
やれやれ……俺の妹が優秀な妹で良かった。
俺は何も心配する必要など無かったのだ。
だって、よく考えてみたら家での問題は全部このレキちゃんに任せれば万事解決はいオッケーだったんだから——、
「————————ゴッッ!!!!」
「————ッッ!!? ちょッ、何してんのッ!!?」
——そう思った、矢先の出来事。
突然、レキが自分の右頬を自らの拳で振り抜いたのだ。
俺は急いで妹のもとへ駆け寄り怪我と正気を確認する。
見てはいないが、後ろにいる二人も絶句していることだろう。
幸い、レキのご尊顔は崩れることもなく、ちょっと口の中に出血があるぐらいで異常なしだけど……。
なんだコイツ、なにをしてるんだ。
「…………あれ?? 夢じゃ……ない??」
おっと訂正だ。
どうやら俺の妹はこんな状況を夢で見るくらいには考えていたらしい。
何でだよ。
「ああそうだな。夢ならばどれほど良かっただろうな」
「それは……兄さんの言うセリフとして合ってますか?」
しみじみと自分に語り掛けるように言葉を呟いた俺を見て正気を取り戻したのか、レキが至極最もな返答をしてきた。
合ってるんだな、これが。
「コホン——とりあえず兄さん。これはどういうことなのか説明……というか、まずはこの方たちを紹介してもらっても?」
「あ、はい。えーっと……この二人は——」
レキに言われた俺は、後ろにいる二人に目を配る。
念を込めてだ。
無論、勝手についてきたんだから自分たちで上手くやれよという念だ。
「じゃあ、私から——初めまして、レキさん。わたしは、野内藍と申します。隣の彼女は——」
「あ、立花つぼみでーす! よろしくね、レキちゃん!」
「はい」
いつにもまして丁寧な口調な藍と、いつにもましてギャルっぽいつぼみん。
レキはそれに対して冷静に一言だけ返し、無言の視線で先を促した。
同じくして、俺も藍に対して上手くやれよと頷いてみせると、藍は一瞬不服そうな顔を覗かせたがすぐに切り替え、説明モードに移行する。
「野内くんとはただ同じクラスなだけという関係ですが、今回は訳あってお邪魔させていただく形になりました。詳しくは後から説明させていただきますが、ひとまず急にお邪魔してしまったことを謝らせてください。ごめんなさい」
「いえいえ。そもそも謝られるようなことはされてませんから。そりゃびっくりはしましたけど、別に兄さんが誰を連れてこようが構いませんし問題は……ありますねやっぱり。帰っていただきましょうか」
「急な方向転換!?」
良い感じに話が運んでいけばと思っていたのに、出鼻を挫かれた驚きで声が若干裏返る。
どうやら、レキの視線的に藍たちの荷物を見ているようだ。——泊まる気満々ですと言わんばかりのスーツケースを。
「これは世間一般の常識、当たり前の話ですが。男子の家に女子が上がりこむ——ましてや泊まり込むなど、その意味を分からないはずがないですよね? 交際関係だとしても段階を踏むものですし、そうだとしても二人などと……ハレンチ極まりないです。即刻お帰りください」
「問題があるのは私たちも重々承知しています。野内くんがそんな人ではないと信じていますが……とはいえやはり男の子の家ですから。しかし、そうだとしても、着いてこなくてはならなかった事情があるんです」
妹の口からハレンチなどという随分とお茶目な言葉が飛び出たことに意識を取られた俺とは対照的に、藍は表情を動かす素振りも無く淡々と話を進める。
その話の内容、というか先程から出てきていた気になる物言いに、賢いレキは不機嫌そうにしながらも耳を傾けた。
「事情? 情事の間違いではなく?」
「……はい、事情です。それを端的に説明するのは少し大変なのですが——私とつぼみは、城才学園の生徒会役員としてここに来ました、とだけひとまず」
「なんと……生徒会、ですか? ——あの城才の?」
皮肉めいたレキの質問に対し、一言で状況説明するのは難しいと判断した藍が段取りを踏んで説明をしていこうと、自己紹介の続きとして発言したその「生徒会」という単語にレキが反応を見せる。
睨むような凛とした目つきが少々ながら和らぎ、頑とした姿勢に緩みが見えた形だ。
藍やつぼみがどこまでこの反応を予測していたかは定かではないが、これはレキを口説くのに最適な文句だったといえる。
その理由は明々白々。
何を隠そう、我が妹こと野内礼貴は、俺の母校にしてレキの現在通う緑陽中学校の生徒会長を務めているからだ。
去年まで『天才くん』が務めていた緑陽中学の、生徒会長を、である。
『天才くん』こと伝説のお騒がせ生徒会長こといわゆる俺の後釜だ。
必然、普通の中学ならいざ知らず、緑陽中学においてはまさに頭痛の種でしかない地獄の重圧席と化した役職。
その席に、現在堂々と座ってみせている彼女がどれほどの苦労を強いられているのかは分からない。が、とにかくその立場にいる彼女が、「生徒会」と名乗った藍たちに同族意識や畏敬の念を抱くのは至極当然のことなのだ。
おまけに、「天才学園の」という肩書き付きなのだから仕方あるまい。
「では……やはり兄さんも生徒会に?」
「ん? いや、俺は入ってないけど」
「——ということは断ったんですか」
「え、いや……」
単にこの二人が生徒会ならばと思ったのかもしれないが、やはりという言葉通り妹の中では当然のように俺も生徒会に入っている想定だったらしく、そうでないのなら俺が自ら断ったんだろうと信じきっている様子だ。
弁明というか誤解を解く隙も与えられずレキの話はそのまま続けられる。
「よく断れましたね? 相手は城才学園の生徒会長——櫻崎財閥の御令嬢だったんでしょう?」
「あ、うん。それはそう」
「人となりなんか全く知らないですけど、城才の生徒会長を務めるぐらいですから相当な化け物でしょうに……。やはり、兄さんはどこへ行こうと兄さんということですか」
「う、うん? ま、まぁそれほどでも?」
「別に褒めてませんが?」
「……さいですか」
何となく褒められた気がしたので頭に手をやったが、見当違いだったらしい。レキのピシッとした空気感にあっさりと、話の訂正すら出来ず俺は沈められてしまう。
そんな俺を尻目に置いたレキは、改めて玄関に立つ藍とつぼみを見ると、形の良い眉を顰めて——、
「——つまり、貴女たち二人は生徒会に所属していて、何らかの問題に対処している最中であり……その、何らかの問題というものに兄さんが関与しているせいで、渋々帰省にまで付き添わなければならなかった——ということですか?」
見事に、早々に正解を導き出して見せた。
「お、おおー……さすがは野内くんの妹ちゃんだね。うん、その通りだよ。つぼみと藍ちゃんは会長の指示で野内くんに付きっきり状態なんだ」
「やっぱりそうなんですね。——はぁ」
目の前で溜息をついたレキに対し、当たり前のように兄がそんな非常識なレベルの問題を抱え込んでいると推論するんじゃないと言ってやりたいところだったが、さすがはレキちゃんとここは心の中で称えておこう。
何故なら、この後帰ってくるだろう両親にも上手いことこの状況を説明しなくてはならない。まぁあの両親なら説明しなくても大丈夫な気がしなくもないが、いざそのときってときは完全にレキちゃん頼みである。つまり俺はレキちゃん様様なのだ。
「レキちゃんバンザーイ!」
「…………」
……おっといけない。
心の中でそっとバンザイしようと思っていたのに、張り切りすぎてそのまま外に出てしまったみたいだ。
妹の視線が痛いので俺はそそくさと震えていた携帯に手を伸ばし、場をごまかした。
どうせいつもの迷惑メールだし、見るつもりはないんだけども。
「——細かいことはともかく、おおよその事情は分かりました。色々はこれから話してもらうとして……一旦、おふたりにはお風呂を準備しますね」
「お気遣いありがとうございます、レキさん」
ずぶ濡れではないが、夕立に降られた状態の藍やつぼみをずっと気にしていたのだろう。話は後々という形で区切りをつけて、レキはそそくさとお風呂の準備に向かっていった。
「あ、俺も入りたいんだけど」
「は? 兄さんは私より後に決まってるでしょう」
「……さいですか」
——そんな刺々しい年頃の妹の言葉を最後に、俺は今回の帰省における最初にして最大の関門を見事にくぐり抜けられた安堵に包まれていた。




